生きている意味もない。
死ぬ意味もない。
ただ産み落とされて、生かされている。
それなのに、意味を見いだせないことを罪と感じる。
与えられるだけの人生に嫌気がさす。
与えてるつもりでも、誰かに受け取って貰えなければ意味は無い。
その癖私たちは、与えてもらっていることに感謝しない。
感謝という褒美を与えないのなら、それ以外の貢献はただの自己満足でしかない。
そして、感謝を与えないという罪に罰を与えられるのを恐れている。
人々を騙して自分の利益だけを考えている人間が、裁かれずにのうのうと生きているその裏で、私たちは自分の罪にだけ目を向けている。
犯罪者と呼ばれる人間が、私たちに罪の意識を植え付けることで、社会をひっくり返そうとしている。
それが正しい世界だと、私たちに言い聞かせてくる。
馬鹿で都合のいい私たちは、そうですか、分かりましたと言ってその世界を受け入れた。
口では反発しながらも、誰も行動に移せないのは、私たちが彼等に敗北しているからだ。
正論を唱えたところで、罪を犯すことを恐れる私たちは、罪を犯すことを恐れない人間に勝てない。
では、罪とは一体なんなのか。
感謝をしない事が罪なのか。
それとも感謝をする事が罪なのか。
誰もが感謝をしないことは罪だと言いながら、感謝を伝えることを怠るだろう。
怠った自分を正当化するために、感謝をすることは罪だと、負けだと、心の中で認識するだろう。
口では感謝をするべきだと唱えながら、
生まれてきたことを感謝できないでいる。
それは私たちが敗北者だからだ。
法律を破ることを躊躇わない遺伝子は、生き残るために、法律の穴を抜けてきた。
私たちは、法律を守ることを正義としながらも、生き残る気力を失った。
ただ、生物としての本能は、生き残ることを告げている。
最後に勝つのは我々であると、証明することを望んでいる。
そこに善悪の区別はない。
けれど、共に生きたいと願う仲間がいるのなら、法を犯しても自分一人が勝てばいいと思っている人間に負ける筈はないでしょう。彼らは必ず、自分以外の仲間を蹴落とすでしょう。
私が愛する人々は、自分より他人を優先するでしょう。
間違えないで欲しいのは、私たちも他人を優先するために罪を犯してしまうということ。
自分のために、罪を犯すことも、
他人のために、罪を犯すことも、
同じ罪であることを、忘れてはいけない。
そして同時に、何もしないことは罪ではない。
それを罰する法律はありはしない。
私たちは、何が罪か分からないから、行動することを恐れているだけなのだ。
誰かの命を奪わない限り、私たちはやり直せる。
これからだって立ち上がれるし、理想があるなら今すぐにでも行動できる。
誰かに命を奪われる前なら、
私たちはなんでもできる。
何者にでもなれる。
この文章を読んで、理解を示そうとしてくれたあなたは、きっと私の友人でしょう。
この文章を読んで、綺麗事だと怒り、悲しむあなたは、きっと私の愛する人でしょう。
親愛なる友人に、いつか出会うために、私は今日を生きることにした。
何がこの世界の罪なのか、私は理解していない。
しかし、これが罪だと言うのなら、私はこの世界に生きたいとは思わない。
この腕に手錠をかけられ、誰かに命を奪われるなら、ここは私にとっては理不尽な世界であったというだけだ。
まだ、理不尽な世界であることの証明がなされていない。
たとえ、感謝されたくないと拒まれたとしても、
友人に出会えたその時、私はきっと、感謝するでしょう。
この文章を読んでくれたあなたが、私を探してくれなければ、私があなたを見つけることもないのだから。
ふとした瞬間、私の魂が死にたいと叫ぶ。
私よりも辛い人は、この世に沢山いるんだから。そう言って、私は私の心を殺してきた。
けれど、その魂の声は、ある日外に盛れ出した。
ああ、漏れてしまった。私は泣きながら、冷静にそう思っていた。
ただ、この時私は、まだ生きていた。
私の心は、私に傷つけられたところで死んでいなかった。
私が辛いことを、私自身、何よりも理解していた。
本当は生きたかったからこそ、私は私の心を押さえつけていた。
だから、私に止めを刺したのは、他人の些細な言葉。
「みんな辛いんだから」
そんな、分かりきった言葉。
彼が、彼女が、その言葉を使うのは、私を生かすためだろうか。
否。
私はそこで生き延びたとして、共に生きたいとは思わない。
私は彼等の言葉に感謝などしない。
私の心を殺していいのは私だけのはずだ。
ならば、彼等の言葉の、なんと身勝手なこと。
彼等もそうやって、自分の心を殺してきたのだろう。しかし考えが足りない。心を殺した事実を忘れ、それによって生き延びたことだけ、覚えているのだろうか。だから、他人の心を殺すことも正義と勘違いしたのだろうか。
そうやって、無自覚に、人の心を踏みにじる愚者に成り下がった。
私の魂は、今も、死にたいと叫んでいる。
けれど私は生きている。
溢れだしそうな涙は隠し通す。私の心を守るために。
その涙を、ただ拭いてくれる存在がいる人を、羨みながら。
私より辛い人には、涙を拭ってくれる人が、傍にいる。
誰にも弱音を見せられなくなった私には、誰もいない。
死にたいと叫ぶ私に、それでも生きたいのだと言い返すだけ。
生きたい理由は分からない。
ただ、生きなければいけないとは、もう思わない。
いつか、私の孤独を癒してくれる人に、会ってみたい。触れてみたい。その温かさを、感じてみたい。
それは、死にたい理由より、小さくて、儚い願いだ。
そんな存在はいないと、言い捨てた方が楽だ。
なのに、この広い宇宙で、それを証明出来ない。
誰も、証明できない。
それを証明するより先に、詐欺師の本性が暴かれ、社会から追われる方が早いだろう。
死にたいと叫ぶ。
死にたいなら死ねばいいと、人は言うだろう。
死ぬ勇気を持つことは、そんなに簡単なことでは無い。
ただ、他人の言葉が、容赦なく背中を押す。
欲しくもない勇気を貰ってしまう。
勇気なんて欲しくない。
強くなんてなりたくない。
私はただ、私の弱い心を、誰かに優しく撫でて欲しいだけ。
ただ、それだけ。
温かさを感じることが出来るのは、生きている時だけなのだから。
どれほど頑張って努力しても、報われないのを知っている。
だからこそ、本当の目的の為に行動を起こすことは、恐ろしい。
だけど、本当にそれが真の願いなら、私たちは進むことを辞めることは出来ない。辛くても苦しくても、諦めようとしても、逃げ出したって。がむしゃらに、なりふり構わず、気づけばそこに向かってる。
本当に願い、その知識と道のりを理解してしまった時、私たちの運命は周り始める。私たちは、求める情報を目の前にした時、知的欲求の衝動を抑えられない。
だから、心配しないで。
一歩進むだけで、道を切り開くための石ころは転がってる。どの石ころを選べばいいのか分からなくて、手当り次第拾うこともあるでしょう。それもまたあなたの道。最初から正解を当てる必要は無い。
正解を知っている人達は、みんな損をしている。
寄り道や回り道にある宝物を見逃している。
みんなと同じ道を選んで、みんなと同じことをする人生に、なんの意味があるのでしょう。
それを選んできた人達は、すべからく心を失っているはず。
けれど心を失いたいと思って、彼等はその道を選んではいないのだ。
だから、目の前の石ころを必死に拾う者を嘲笑いたくなってしまう。
石ころの価値に気づいて。
石ころに必死になる自分を誇りに思って。
それは私たちが失くしかけている、大切なこころかもしれない。それを知るだけで、その努力は決して無駄にはならないのだ。
曖昧な言葉を使う人。私は彼等のことを、日本語が不得意なんだと馬鹿にしていた。
けれどある日、彼等が曖昧な言葉を使うのは、自分の心を守るためではないかと仮説を立てた。
人は、自分の望みを叶えるために行動する。
それは、他人にとって、酷く攻撃的だったり、不愉快に感じるものだったりする。
気を使ってそれを指摘しないでいると、彼等の欲望はどんどんエスカレートして、いつの間にか彼等の被害者になっている。
私は最初、いつか彼等も気づいてくれるだろうと甘えて、何もしなかった。その行動が、彼等を加害者にする。それを棚に上げて、私たちは被害者ぶる。
あの時一言、「やめて」と言えていれば、私は彼らと友人でいられたかもしれないのに。
とはいえ、彼等も自分の欲望を否定されるのを恐れている。
だから、分からないふりをする。知らないフリをする。嘘をつく。曖昧な言葉を使って、私達を混乱させる。
彼等の行動のほとんどは、無意識で自覚がない。もしそれが自覚のある意識的な行動だとすれば、それは犯罪者と同じ思考だ。
だからこそ、彼等は自覚することを恐れる。
自分の中から湧き出る欲望が、罪深いことだなんて、誰が認められるというのだろう。
では、行動を起こす前に自覚して、意識的に欲望を抑え込むことが出来ていれば、それは幸せなのだろうか。
自分の欲しいものを我慢して、なんでもないように取り繕って、一般的に正しいものだと言われるものを愛そうとする。
その努力を明かせば、きっと嘘つきと罵られる。
それは、どれだけの孤独だろう。
人によっては、幸せになることすら罪になることがある。
あるいは、自分の関係の無いところで、
あるいは、自分自身の間違いによって、
人に許されたとして、己を許せないこともある。
だから、人は曖昧な言葉を使う。
人を混乱させて、自分を偽るため。
自分の罪なき罪から、目をそらすために。
それを暴き責め立てることこそ罪と識ったとき、
私たちは口を噤む。
けれど、黙って攻撃を受けることは、加害者を生み、被害者になることを望む行為。
その未来を回避するために、私たちは曖昧な言葉を使う。
言葉というものをなにより愛している私は、曖昧な言葉というものはとても苦手で、そのせいで沢山の人とぶつかったし、沢山傷ついて、たくさん傷つけた。
それは、私が言葉を愛した結果で、後悔はしていないけれど、それを誰かに強制することは、人の罪を暴き立てるのと同じなのだろう。
曖昧な言葉を使う人。
私は彼等のことも愛しているけれど、彼等にとって私は化け物にも等しいのかもしれない。
私に「それをやめて」と言ってくれる人は居なかったから、私の罪は、自分で気づいていくしかない。
もう、曖昧な言葉は馬鹿にしない。
その曖昧さを紐解くために、私は愛する言葉たちを使うのだ。
上手く生きるためのコツ。
誰かが言っていたのを聞いてやってみるけれど、どれもこれも、私には合わないみたい。
どうして私はこんなにも生きるのが下手なんだろう。
周りの人達は、先人たちの知識や経験談を活かしてどんどん先に進んでいく。
どうしてまだそんなところにいるの?
純粋な疑問は、まるで容赦のない責め苦のよう。
皆と同じにできないのは、失敗作?
独り取り残された場所で、追いつこうと焦って、転げて、目の前には色々な種類の壁。みんな、軽々と登ってく。
壁の向こうは、もう、なにも、分からない。
私と同じ場所にいる人は、誰もいない。
しかたがないから、壁を迂回出来る道を探すと、誰かが通った痕跡を見つけた。
きっと過去にも、私みたいに生きるのが下手な人が居たんだと、それだけで、少しだけ安心した。
もしかしたら、別の壁で躓いている人だって居たかもしれない。
助けに行った方がいいのかな?
けど、その壁に躓いている理由を、私に理解できるだろうか。私は理解して貰えなかった。躓くまで、この壁を登れない人なんていないだろうと、私も思っていた。
なんて傲慢なのだろう。
私も、誰かを置いてきた一人かもしれない。
なら、私はこの壁を一人で超えなければならない。
誰も助けない代わりに、誰にも助けは求めない。
気づいてしまったから。
私が私を失敗作と断じることは、私の後ろにいるかもしれない人達をも失敗作と詰るに等しい。
ここで気づけなければ、知らないうちに、誰かを踏みつけにしていたのかもしれない。それは、自分自身を踏みつけにするのと一緒。
たとえ、沢山の人達に踏みつけにされたとしても、私は私を含めた誰のことも、踏みつけにしたくない。
私は失敗作じゃない。
失敗作だとしても、私より先に進んだ人達には得られなかった気づきを、私は持っている。
それはとても、尊いものだと思うから。
上手く生きれなくていい。
上手く生きようとして、取りこぼしてきたものがある。
忘れかけたそれは、決して無くしてはいけないもの。
先に進んだ人達の分も、拾い集めて、持っていこう。
私は一人だから、大変かもしれないけど。
いつか、一人ぼっちの誰かが追いついてくるかもしれない。
いつか、一人ぼっちの誰かに追いつくかもしれない。
その時を待ち侘びながら、進もう。