共存と両立

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 曖昧な言葉を使う人。私は彼等のことを、日本語が不得意なんだと馬鹿にしていた。
 けれどある日、彼等が曖昧な言葉を使うのは、自分の心を守るためではないかと仮説を立てた。
 人は、自分の望みを叶えるために行動する。
 それは、他人にとって、酷く攻撃的だったり、不愉快に感じるものだったりする。

 気を使ってそれを指摘しないでいると、彼等の欲望はどんどんエスカレートして、いつの間にか彼等の被害者になっている。
 私は最初、いつか彼等も気づいてくれるだろうと甘えて、何もしなかった。その行動が、彼等を加害者にする。それを棚に上げて、私たちは被害者ぶる。

 あの時一言、「やめて」と言えていれば、私は彼らと友人でいられたかもしれないのに。

 とはいえ、彼等も自分の欲望を否定されるのを恐れている。
 だから、分からないふりをする。知らないフリをする。嘘をつく。曖昧な言葉を使って、私達を混乱させる。
 彼等の行動のほとんどは、無意識で自覚がない。もしそれが自覚のある意識的な行動だとすれば、それは犯罪者と同じ思考だ。

 だからこそ、彼等は自覚することを恐れる。

 自分の中から湧き出る欲望が、罪深いことだなんて、誰が認められるというのだろう。

 では、行動を起こす前に自覚して、意識的に欲望を抑え込むことが出来ていれば、それは幸せなのだろうか。
 自分の欲しいものを我慢して、なんでもないように取り繕って、一般的に正しいものだと言われるものを愛そうとする。
 その努力を明かせば、きっと嘘つきと罵られる。

 それは、どれだけの孤独だろう。

 人によっては、幸せになることすら罪になることがある。
 あるいは、自分の関係の無いところで、
 あるいは、自分自身の間違いによって、
 人に許されたとして、己を許せないこともある。

 だから、人は曖昧な言葉を使う。
 人を混乱させて、自分を偽るため。
 自分の罪なき罪から、目をそらすために。

 それを暴き責め立てることこそ罪と識ったとき、
 私たちは口を噤む。
 けれど、黙って攻撃を受けることは、加害者を生み、被害者になることを望む行為。
 その未来を回避するために、私たちは曖昧な言葉を使う。

 言葉というものをなにより愛している私は、曖昧な言葉というものはとても苦手で、そのせいで沢山の人とぶつかったし、沢山傷ついて、たくさん傷つけた。
 それは、私が言葉を愛した結果で、後悔はしていないけれど、それを誰かに強制することは、人の罪を暴き立てるのと同じなのだろう。

 曖昧な言葉を使う人。
 私は彼等のことも愛しているけれど、彼等にとって私は化け物にも等しいのかもしれない。

 私に「それをやめて」と言ってくれる人は居なかったから、私の罪は、自分で気づいていくしかない。

 もう、曖昧な言葉は馬鹿にしない。

 その曖昧さを紐解くために、私は愛する言葉たちを使うのだ。
 
 


 

 

2/25/2024, 11:13:36 AM