夏は嫌いだ。
夏祭りも、花火も、海も、風鈴の音も。
暑くて、騒がしくて、辟易する。
昔は、そんなに嫌でもなかった。
でも、もう窓辺に風鈴をつけてくれるやつはいない。
一緒に夏祭りへ行こうと誘ってくれるやつはいない。
アイスを買ってきてくれるやつもいない。
全て忘れてしまいたいのに、この季節が来る度に思い出してしまう。
夏祭りも、青い海も、線香花火も、帰り道のアイスも、 全てあの日々を思い出してしまうから。
どれだけ待ったって、あいつは帰ってこないから。
だから、夏は嫌いだ。
「あの人のことを、好きになってしまった。」
初めて、幼馴染である友人に嘘をついた。
恐る恐る目を彼に向けると、目を見開いたまま、固まっていた。
あの人、と指した人のことはきっとすぐに分かったのだろう。
「そうか」と口にした声は震えている。彼は隠せているつもりなのだろうけど、動揺が目に見えていた。
僕があの人、と呼んだ女性のことを彼が好いているということは、知っていた。
別に面と向かってはっきりと言われたわけではない。 でも、彼女のことを追う視線や、態度で透けて見えていた。
それを知っていて、いや、知っていたからこそ、彼の傷つく言葉を口にした。
恋愛というものに、昔からあまり興味がなかった。誰か人に恋をする、ということも、記憶にある限りでは、1度たりともない。
なのに、僕は、その友人に恋をしてしまった。
初めての感情にどうしていいか分からず、さらに相手は男ときている。戸惑い、感情の整理がつかなかった。
そんな時だった。彼が僕と彼の下宿先の娘に恋心を抱いていると気づいたのは。
皮肉なものだ。気づきたくなかったのに、彼のことを見ているといやでも分かってしまう。
友人の彼は、優しかった。自分が諦めて丸く収まるのなら、真っ先に自分を犠牲にしてしまうような人だった。
だから、僕がその娘を好きだといえば、諦めてくれると思った。
我ながら、自分は最低な人間だと思う。
こんなこと、なんの意味もない。
「恋愛に興味なんかないんじゃなかったのかよ」
彼は、そう、小さく、苦く笑った。
それから、隣を歩く足が早まった、
やっぱり、あのひとのことが好きなんだと言うことが痛いほどに分かった。
いつもの彼なら、応援するよ、と真っ先に言うはずなのだ。
胸が締め付けられるような罪悪感と切なさが襲ってくる。
このまま彼といるのは、きっと耐えられない。
明日、ここを出ていこう。勝手にそう心に決め、彼の背中を見た。
風鈴の音を聞くと、高校時代の親友のことを思い出す。
どうしてか、と問われても、はっきりとした理由は思い出せない。
それでも、風鈴のチリンという涼しげな音を聞くと、あいつのことを真っ先に思い出す。
つけっぱなしにしていたテレビでは、夏のお出かけ特集のようなものが流れていた。テーマパークの風鈴が沢山ぶら下がっているエリアで、汗を流しながら女性アナウンサーが「清涼感がありますね」などと笑顔で言っている。
『こうすればちょっとは涼しい感じがするだろう?』
そうだ、あれは猛暑の日だった。あの夏は暑かった。暑い暑いと騒いでいた時に、あいつが俺の部屋に風鈴をつけてそう笑った。
そんな、随分と前のことが簡単に思い出せる。
そういえば、あの時の風鈴がまだどこかにしまってあるかもしれない。思い立ったら行動せずにはいられなくて、押し入れの中のダンボールを漁ってみる。
「お、あった。」
それは、押し入れの奥の方のダンボールに、木箱の中に梱包材と共に入っていた。
出してみると、チリン、と小さな音を立てた。
下の方が青色のグラデーションになっていて、白い金魚が泳いでいる柄のガラスの風鈴。俺はそこそこ気に入っていたけれど、高校を卒業してからつける気にもならず、ずっと仕舞ったままだった。
よっ、と立ち上がり、窓を開けてカーテンレールに括り付ける。すると、チリン、チリン、と音を立てて風鈴がくるくると回った。
色んな事情があり、もう何年もあいつとは会えずにいる。風鈴の音はどこでも聞けても、もうあの笑い声は多分聞くことが出来ない。
「あっちーなー…。」
気温は年々上がっていて、今年の夏はあの夏よりも、随分と暑く感じる。
あいつも、部屋に風鈴をつけているだろうか。そんな、どうでもいいことを思った。
小さい頃、私は、秘密基地を作ったりとか、森の探索とか、小さな冒険が好きな、家にいる時間よりも外を駆け回っている時間がずっと多い子供だった。
小学校が終わると、すぐに学校を出て、ランドセルを家にぽいっと投げて、作り途中の秘密基地の続きを作りに行く。
そんな私には、一緒に冒険をする相棒がいた。
彼は私より1つ年上だった。彼は私より物知りで、足も速かった。二人で山に入って、秘密基地で持ち寄ったお菓子を食べながら他愛ない話をしたり、全力で鬼ごっこをしたり、長い時間を二人で過ごした。
でも、ある日。
熊が出るから、という理由で山が立ち入り禁止になった。まだ読みかけの漫画やお菓子は置いたままだったけれど、そんなことはどうでもよかった。
もう、あの秘密基地には行けない。
それから、色んなところをまた彼と探索したけれど、彼が「つまらない」と言って以来、一緒に冒険することはなくなった。
それから、5年が経ち、私たちは中学生になった。
彼は、昔のように森を駆けるのではなく、陸上の選手としてトラックを走っている。私はと言うと、美術部に入り絵を描く毎日で、彼とはほとんど話さない。
全部、あの山に入れなくなってから始まったことだ。なんて、恨めしく思ったこともあったけれど、きっとあのまま山が封鎖されなくても、今の状況は変わっていない。きっと、他の理由でもうあの秘密基地には行かなくなっていただろう。時間というのは、環境や人の時間を簡単に変えてしまう。それが少し、寂しくもあった。
それから、15年。
私たちは成人し、社会人として忙しく働く毎日で、小学校時代の同級生とは、随分と疎遠になっていた。
そんなある日、会社の取引先を訪れると、「彼」が居た。彼はすぐに私に気づき、会議の後、懐かしいねと声をかけてくれた。
それから、馴染みの居酒屋を教えがてくれて、二人で行くことになった。そこで、色んな話をした。昔、二人で秘密基地を作ったこと。山が閉鎖してしまったこと。置きっぱなしだった漫画のこと。
たくさん話して、たくさん笑った。
あっという間に時間はすぎ、終電の時間が近づいた。
「じゃあ、またね」
「うん。…ねぇ、」
私は、冒険が好きだった。でも、それ以上に────。
口を開きかけた時、手を挙げた彼の左手の薬指に、きらりと光るものが見えた。
「…やっぱり、なんでもない。バイバイ」
手をおろして、彼に背を向けて歩き出す。
私はやろうと思えばいつだって彼とまた森を駆け回ることが出来るような気がしていた。
でも、もうあの時には、2人の冒険は終わっていたのだということが、今更わかった気がした。
これからは、駆け回ることは出来なくても、ちゃんと一人で歩いていく。
「今死ぬのは勿体ないよ」
一年前の七夕の日、彼はそう悲しそうに笑って、病院の屋上から飛び降りようとしていた私の手を引いた。
そんな彼は、想像以上のお人好しだった。あの日ほとんど初対面だったのに、毎日、毎日、私の病室に会いに来た。余命を宣告され、親は面会にも来てくれない。つまらない白黒の漫画のようだった日々に、疲弊し、もういっそ死んでしまおうと思っていた。そんな日々に、彼は色を足していった。彼のいる世界なら、もっと生きていたいと思えた。
奇跡的に、私の病気が完治した。奇跡のようだと主治医の先生は涙を流していた。彼は、誰よりも私の病気が治ったことを喜んでくれた。これから、私の人生はいい方に回っていくような気がした。
そんな時、彼が事故で死んだ。
七夕の日だった。
彼とずっと一緒にいれますように、なんて願った矢先、私の携帯に警察から連絡が入った。
子供を庇って死んだらしい。
彼らしい、といえば彼らしかった。
今死ぬのは勿体ない。そう言ったのは彼だったのに。私は彼の為に生きていたのに。私を助けたくせに、無責任にも程がある。でも、何を責めたって、後悔したって、彼は帰ってこない。そのむなしさに、心が押しつぶされそうだった。
今日、出会ってから5年目の七夕を迎える。
私は、病院の屋上にいた。
また屋上から飛び降りようとすれば、彼が止めてくれるような気がした。また、今死ぬのは勿体ないと笑ってくれる気がした。
でも、そんなに都合のいい事は起こらない。
手すりから手を離そうとした瞬間、頬になにか冷たいものが触れた。
雨が降り出したようだった。ぽつりぽつりと、私の頬を濡らしていく。
彼が降らせた雨だ、と瞬間的に思った。
そんなはずないのに。
分かっていても、涙が止まらなかった。
彼が居なくなった世界に、何の意味が持てなくなったとしたって、彼が救ってくれたこの命には、それだけで意味があるのに。
死ぬのは勿体ないと、あの時言ってくれたのに。
私はまた、自分の命を投げ出そうとしていた。
なんて馬鹿なことをしようとしていたのだろう、と我に返る。 これでは、彼に怒られてしまう。
彼にもう一度会った時、彼がまた笑ってくれるように、もう少しだけ生きようと思った。
雨はすぐに上がり、雲の隙間からは星が見えていた。