NoName

Open App
11/2/2023, 2:45:20 PM

「────おじいさんとおばあさんは末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。」

最後の一文を読み終えた初老の女は、捲れた布団を腹の上へと掛け直した。端のふやけた絵本をサイドチェストの上に置き、ひと仕事終えたと息をつく。

「どう?面白かったかしら。」
「ぜーんぜん。つまんない話!」
「ふふ、あなたには少し難しかったかもしれないわね。」
「はあ?!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ少年の隣で小さく欠伸をした女は、ゆるゆると微笑む。少年は毒気を抜かれて息を吐いた。女に何を言っても無駄だと分かっているからである。
「はぁ……明日も早いんだから早く寝なよ。今日また腰痛めたんでしょ。もう若くないんだからさ。」

口を噤んだ女は穏やかに自分の腹を撫でている。それは女が寝る前に必ずする仕草だったから、少年も黙って見守った。
「おやすみ、ゆう。」
「おやすみ。」

明かりを消し、瞳を閉じた女を見つめた少年は、徐ろにその腹に手を伸ばす。もちろん触れられるはずもないのだが、少年はこの動作をやめられなかった。漠然といつかそんな日が来るような気がしたのだ。
そんなことは、少なくとも女が死ぬまでは起こり得ないのだが。少年はあまりに幼く、ものの道理を知らなかった。


少年は女のことを気違いだと思っている。なぜなら、普通の人間は寝る前に声を出して本を読んだりしないし、薄っぺらいお腹に声をかけることもないからだ。日頃から女にくっついている少年は、彼女に「ゆう」という名前の知人が居ないことも知っていた。

少年は何もかも突き抜けてしまう手で、女の昔よりしわくちゃになった顔を撫でてやる。何故だか知らないが、彼にはこの女が慕わしく感じられる。何となく腹に手を伸ばしてみたくなるし、「ゆう」の漢字も知りたいと思う。
長く一緒にいたから、おかしいのがうつってしまったのかもしれない。

明日女が目を覚ました時、自分が見えるようになっていたらどうしよう。自己紹介をするべきだろうか?もし女が自分にずっと見られていたことを知ったら、なんと言うだろう。驚くだろうか。喜ぶだろうか。
少年はそんなことを考えて、女の隣で必要のない眠りをとる振りをした。

女が自分を見えるようになったら、今日の本の感想も話そう。同じ本ばかりで退屈だから、新しい本を読んでもらうのだ。

少年はまだ見ぬ明日に期待して、女の懐に顔を埋めた。


『眠りにつく前に』

11/2/2023, 9:55:16 AM

「なあ、ほんとに行くの?」
「お前な、何言ってんだよ今更?」
「いや……そもそもこんなとこ来たのが間違いだろ。やめようぜ。」
「ビビりめ……ま、お前はここで待っててくれればいいからさ。帰んなよ!」

俺はそう言って一人暗闇へと消えて行くお前を見ていた。それがお前との最後の会話になるなんて思いもしなかった。


次に会ったお前がこんな箱に詰められてるなんて、本当に思わなかったんだよ。
「兄さん……」
「徹……」
「徹くんはお兄ちゃん子だったものね……」
アイツの弟が棺にしがみついて泣いている。宥める大人をものともしない、見事な泣きっぷりだった。周囲の人間も彼の涙に感染した様に目頭を押さえる。
「徹くんも可哀想に……」
黒い服に身を包んだ母さんも、アイツの弟に同情的だった。俺は黙ってジャケットの裾を握る。

「本日はありがとうございました。」

現実味がないままに葬式が終わる。宗教的な問題か何かで火葬はしないらしい。棺が車の中へ運び込まれて行く……



ごめん、ごめんな。俺はビビりなんだ。俺の力ではどうしようもないものが恐ろしくて仕方ないんだ。
「兄さんはとても明るくて、優しくて……僕の自慢の兄でした。」
兄の魂はこれからも永遠に、この家を見守っていてくれると思います。
まだ若い弟の言葉に、親戚らしい周囲の人間が感心したように頷く。寒気がした。

ああ、お前の言った通りだったよ。

『なあ、俺死ぬかも。』
『はぁ?』
『うちの家系は代々男二人兄弟なんだよ。んで、二十代のうちに長男が死ぬ。』
『それは……遺伝病的な?』
『いや。少なくとも病死では無い。全員健康体だったと記録にあった。』
『記録?……どういうこと?』
『これは推測だが、と言っても、俺はかなり真実に近いと思ってるけど。うちの家系はな、代々長男を殺しているらしい。』
『……はあ?』

有り得ないと呆れる俺と、証拠があると譲らないお前。じゃあ見せてみろだなんて、言わなければよかったんだ。いや、俺も本家に、お前について行くべきだった。それなのに、あろうことか俺はあいつに見つかって逃げ帰って……

「園田さん。」
びくりと体が跳ねる。いつの間にか背後に回っていた弟が、俺の肩に手を添えている。
首筋に触れた指は、無機物のように冷たかった。
「て、徹……」
「今日は来てくださってありがとうございます。兄も喜びます。」
「あ、あぁ……」

首筋を撫でるようにして離れていく手に、ぞわりと鳥肌が立つ。
『園田さん』
あの夜の声と重なった。
『兄は永遠になるんです。』

なあ、アイツの死体をどうするんだよ。


『永遠に』

10/31/2023, 6:19:32 PM

連休直前の出勤日。予定通りに止まった電車に、香織はスマホのメモアプリをそそくさと閉じた。帰宅ラッシュの電車は満員で、スマホを出す余裕もなさそうだと地下鉄の窓を眺める。当然ながら、窓の外に広がるのは無機質な暗闇のみだ。

満員電車に犇めくスーツは、皆一様に手元のスマホに視線を落としていた。
人目を気にして執筆を躊躇う香織が阿呆らしく思えてしまうほど、彼らは個人として完結している。香織には羨ましいことだ。
窓に押しつけられた女が硝子越しにこちらを見ている。何をするでもなく脳内で独白する女は、人目にはどう映るのだろう。

草臥れたOLである香織に趣味は無い。世間話として振られれば「読書」と答えるが、精神的に忙しい日々の中で物語に触れる機会も減っていた。
その代わりと言っては何だが、香織は物語を書く。家族にも友人にも伝えたことはないが。
香織は小説家になりたいわけではない。小説を人に読ませたことさえなかった。ただ文章を書くことが好きで、何となく日常が息苦しくて。現実逃避の手段として、自分の頭とメモさえあればできてしまう小説を書いている、だけ。
香織は空っぽな人間である。



連勤明けの休日。ネット小説のサイトを覗いていた香織は、「初投稿でスタンププレゼント」の広告に目を止めた。可愛らしいキャラクターのスタンプが広告の横で踊っている。
どうやら今小説を投稿するとサイト内で使えるスタンプが無料で貰えるらしい。

香織はふむ、と考えた。アカウントは作成済みであるし、要件に評価の数は入っていないらしい。文字通り、投稿するだけでいいようだ。
香織は普段から小説を書いているし、投稿するだけなら無料だ。デメリットは何も無い。深く考えず「小説を投稿する」のバナーをタップした。

「あれ?」

ページを開き、必要事項を入力する。オリジナル?はい。AI?いいえ。単調な作業だ。問題はその後である。

香織はこれまで書いた小説を投稿欄に貼り付けようと、メモアプリを開いた。目ぼしいフォルダを開くが、何も無い。
もちろん言葉通りの意味では無い。ただ、中々上手く書けたと思っていた小説達が、いざ投稿しようとすると忽ち杜撰なものに見えた。
心情描写ばかりだし、句読点の位置が安定していない。気にも求めなかった誤字が山のように見つかる。

香織は出処の分からない焦燥に駆られて、比較的マシな小説を選んで推敲を重ねた。余計な文を消し、句読点を入れ、表現を直し……影も無くなった小説に再度目を通して、投稿欄に貼り付けた。
そういえば、小説の推敲なんてこれまでしたことがあっただろうか。ネット上の小説にダメ出しをしていた自分と、箇条書きのようだった推敲前の小説のようなものを思い出す。心臓に汗をかいたような心地だ。
結局香織は貼り付けた小説を更に一時間推敲し、やっとの思いで投稿ボタンを押した。

香織は初めて知ったが、この投稿サイトはリアルタイムで閲覧者数といいねをした人数が見られるらしい。
閲覧者が更新される度、香織は文字通りひっくり返った。そうでもしないと賃貸に有るまじき行動をしてしまいそうだった。
閲覧数が10、20と増える度焦りが募る。まだ一つもいいねがついていない。
一つ前の投稿にはもういいねがついているのに、どうして。タイトル?知名度?時間?

見ていられなくて一度電源を落とす。甘く見ていた。普段から書いているし、ユーザーの多いサイトだから、きっと10いいね程度ならすぐにつくだろうと高を括っていた。
私の小説は、面白くないらしい。
大切な芯がぽっきり折れてしまったようだ。自分の存在価値まですり減った気がして、膝を抱えた。


どれくらいそうしていたのか。パンパンになった目を開いて立ち上がる。外はすっかり暗くなって、貴重な休日の終わりを示していた。

宅配でも頼もうとスマホを引っ掴むと、画面がぱっと主張する。投稿サイトから通知が来ていた。少々尻込みしながらサイトを開けば、ホームに表示された小説には、一桁ではあるがいいねがついている。
複雑な気持ちでそれを眺めていると、更にもう一件の通知と吹き出しマーク。

『面白かったです!続きお待ちしてます!』

徐ろに表示された短いコメントを、暫く呆然と眺めた。
相変わらず閲覧数に対して少ないいいねの隣に、1の数字が並んでいる。0だったフォロワー欄が1人増えていた。この人だ。

感想と言うにはあまりにも端的なそれに、何故だか涙が零れた。
人生で感じたことのない感情と衝動に襲われる。カッと胸が熱くなる。私という人間が承認された気がした。

小説という私だけの世界。私の思想そのものを公に晒すこと、その苦痛と喜びを知ってしまった。
温い涙の感触は、この先も忘れないのだと思う。
その日、私の楽園は崩壊した。


『理想郷』
スランプ。

10/25/2023, 7:23:55 AM

「行かないでよ」

告げるはずのなかった言葉が口をついた。
バス停のベンチに隣合って座った君は目を丸くして、それからくしゃりと笑う。

「もうちょっと早く言ってよ」

言ったって聞いてくれないくせに。心の中で毒突くが、口には出さない。別れに水を差すことはしたくなかった。
一言漏れてしまったのは、まあ、ご愛嬌。

時刻表のみを一心に見つめていた彼女がふは、と息を零したことで、冷たい空気が少し和らぐ。
ここにきて僕はやっと、僕たちが今日初めて引越し以外の話をしたことに気がついた。

「あなたは何も言葉にしてくれなかったから」
「そんなの、君もじゃないか」

僕は少しだけむっとして言い返す。
いつもなら理路整然と僕をやり込める彼女は、今日に限って苦く笑った。

「似たもの同士だったのよ、私たち」

だからダメだった。
風に乗せて消えようとしたその言葉は、はっきりと僕の元に届いた。心が得体の知れない感情で粟立つ。
僕の胸元にまで風が吹き抜けたようだった。
思い返せば、僕たちは大切なことは何も言葉にしてこなかったかもしれない。君の気持ちは言われなくても伝わっていたから、僕のものも当然にそうだと思い込んでいた。
今更、言い訳にもならないが。

喧嘩なんてしなければよかった。あんなことを言わなければ。いや、それ以前に、もっと言葉にしていれば。
後悔先に立たずという言葉を身をもって実感する。きっとこれはきっかけのひとつでしかなかったのだ。君の心はとっくに離れていて、僕はそれを引き止められるほどの言葉を持っていなかった。

「家まで、気をつけて」
「うん」
「風邪ひかないでね」
「あなたもね」

互いの息遣いと衣擦れの音だけが人通りの少ない道に響く。
バスが来るまで、あと数分。

僕がカッコ悪く握った手を、君は握り返しはしなかった。
このまま夜が更けていく気がした。


『行かないで』

10/23/2023, 3:53:23 PM

『青空はどこまでも続いている───』
爽やかな音楽と、空を見つめる制服姿の少年。タイトルが浮かびエンドロールが流れる。

駄作だったな。
懇々と流れるエンドロールを消してキッチンに立った。空っぽの冷蔵庫から発掘した枝豆をレンジに突っ込む。

始まりから終わりまでパッとしない映画だった。登場人物は終始悶々としていたし、展開も妙に暗い。リアルな人間像だなんだと銘打っておきながら、現代の軟弱な若者をこき下ろしてやろうという意図が透けて見えた。
これだから老人が描く青春モノは見るに堪えないのだ。

貴重なテスト前の土曜日を無駄にしてしまった。誰が悪いのかと聞かれれば、テスト期間に映画を見だした私が悪いのだけど。私がテスト期間だって知っているのにDVDを借りてきたママにだって責任はあると思う。
とりあえずリビングの机に教科書を広げて枝豆を齧ってみる。やる気は出ないが、起きてきたママに怒られるのも面倒だ。

中学に入ってからなんだか上手くいかない。中間テストではそこそこ点数を取れたのに、夏休みが開けた途端に勉強が分からなくなった。特に数学。クラスの友達とはなんだか合わないし、担任はウザいし。
うちのクラスの担任は話が長い。ホームルームの度に一々西中生としての自覚をだとか、相応しい振る舞いをだとか言わないと気が済まないらしいのだ。なんの特徴もない公立中学に自覚も何もないだろうに。
そんなことよりもっと実のある話をしてほしい。教師は社会に出たことがないからできないのかもしれないけど。
中学に上がってそれを聞いた時は落胆したものだ。偉そうに説教をする先生たちだって、社会に出たことはないんじゃないかって。昔は大人はもっと立派なものだと思っていたのに。

教師って結局、生徒のことを集団としてしか見てない。
私は勉強も運動もできないし、顔も可愛くない。友達も多い訳ではないから、なんで生まれてきたんだろう、なんてしょっちゅう思う。
生徒だって真剣に悩んでるのに、それをまるで分かってない。なんにも見えてないくせに人生の先輩みたいな顔をして説教するのだ。
ほんと、やってられない。

はあ。降下したやる気を立て直すために溜息をつく。今日は図書館にでも行こう。
天窓から見える青空を見て思った。

どこまでも続く青い空、だっけ。
続いてたって何の役にも立たないじゃないか。友達でも運命の相手でも神様でもいいから、誰か私を助けてくれればいいのに。


『どこまでも続く青い空』

Next