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「────おじいさんとおばあさんは末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。」

最後の一文を読み終えた初老の女は、捲れた布団を腹の上へと掛け直した。端のふやけた絵本をサイドチェストの上に置き、ひと仕事終えたと息をつく。

「どう?面白かったかしら。」
「ぜーんぜん。つまんない話!」
「ふふ、あなたには少し難しかったかもしれないわね。」
「はあ?!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ少年の隣で小さく欠伸をした女は、ゆるゆると微笑む。少年は毒気を抜かれて息を吐いた。女に何を言っても無駄だと分かっているからである。
「はぁ……明日も早いんだから早く寝なよ。今日また腰痛めたんでしょ。もう若くないんだからさ。」

口を噤んだ女は穏やかに自分の腹を撫でている。それは女が寝る前に必ずする仕草だったから、少年も黙って見守った。
「おやすみ、ゆう。」
「おやすみ。」

明かりを消し、瞳を閉じた女を見つめた少年は、徐ろにその腹に手を伸ばす。もちろん触れられるはずもないのだが、少年はこの動作をやめられなかった。漠然といつかそんな日が来るような気がしたのだ。
そんなことは、少なくとも女が死ぬまでは起こり得ないのだが。少年はあまりに幼く、ものの道理を知らなかった。


少年は女のことを気違いだと思っている。なぜなら、普通の人間は寝る前に声を出して本を読んだりしないし、薄っぺらいお腹に声をかけることもないからだ。日頃から女にくっついている少年は、彼女に「ゆう」という名前の知人が居ないことも知っていた。

少年は何もかも突き抜けてしまう手で、女の昔よりしわくちゃになった顔を撫でてやる。何故だか知らないが、彼にはこの女が慕わしく感じられる。何となく腹に手を伸ばしてみたくなるし、「ゆう」の漢字も知りたいと思う。
長く一緒にいたから、おかしいのがうつってしまったのかもしれない。

明日女が目を覚ました時、自分が見えるようになっていたらどうしよう。自己紹介をするべきだろうか?もし女が自分にずっと見られていたことを知ったら、なんと言うだろう。驚くだろうか。喜ぶだろうか。
少年はそんなことを考えて、女の隣で必要のない眠りをとる振りをした。

女が自分を見えるようになったら、今日の本の感想も話そう。同じ本ばかりで退屈だから、新しい本を読んでもらうのだ。

少年はまだ見ぬ明日に期待して、女の懐に顔を埋めた。


『眠りにつく前に』

11/2/2023, 2:45:20 PM