「木枯らし一号が観測されました。」
聞こえた言葉に、思わず溜息をつく。何を隠そう、今日は勝負の日なのだから。
6時。目を覚ます。ニュースを見ながらスムージーを飲む。小顔になれと一身に念じながら、SNSで見たマッサージ。そのままメイクもしてしまう。
7時。着替え。ガーリーなニットと、男ウケするとバズっていた体のラインが出るスカートを履く。寒さは女子の大敵だが、「カワイイ」のためには仕方ない。
8時。少しギリギリ。髪をセットし、鏡に向かって最終チェック。
「よし、今日もかわいい」
時間に余裕を持ってバス停に着く。自販機を眺めるふりをして時間を稼ぎながら、風で乱れる前髪を整えた。
バス停に彼の姿を見つけた瞬間、心臓が跳ねる。
今日も来た。8時12分、いつも通り。
今朝も2時間かけて作り上げた「偶然可愛い私」で、さりげなく後ろに並ぶ。
木枯らしに吹かれて、あなたの香りが胸に届いた。私の好きな、爽やかでどこか甘酸っぱい匂い。それだけで心は燃えるように熱くなって、肌寒さなんて忘れてしまう。
耳元の鼓動が風の音をかき消す。疼く胸を押さえて、息を吸った。
大丈夫、今日の私は最高に可愛い。
「……あのっ───」
ズルッ。
「えっ」
足元のビニール袋。視界が傾く――ああ、サイアク。
「危ない!」
バランスを取ることを諦めた瞬間、暖かい手が腕を掴んだ。不安定なヒールでたたらを踏み、引き寄せられる勢いのままその人の胸に飛び込む。
何が起きたか理解するより先に、優しい香りが私を包む。鼻先に触れるのは、焦がれて止まなかった彼の匂い。
顔を上げると、彼が心配そうに覗き込んでいた。
ああ……木枯らし、ありがとう。
『木枯らし』
試験に落ちた。
大切な試験、通るだろうと慢心すらしていた試験に、自分が。
ザアッと血の気が引く。平衡感覚が不安定になって、そんな僕を追い立てるように甲高い耳鳴りがする。一緒に勉強した友達の嬉しそうな顔がこちらを向いたことに気がついて、手に持ったままだった用紙をくしゃりと握りつぶした。そのあとの記憶は、どうしてか朧気だ。
数日後に三者面談が決まったらしい。キリキリと痛む腹を抑えた。どうして?理由なんて簡単だ。あの試験対策はミスリードだった。出題の出し方もいやらしい。それにあの職員は自分のことを目の敵にしている、あいつのせいだ。
兄に謗られる。姉に失笑される。教師陣の不正を訴えた母にはため息をつかれた。どうして?だってそうじゃなくちゃ、こんなことになるはずがない。
聞き馴染みのない教員の声に意識が戻る。真っ先に映るのは頭を下げる母親の姿。そして校長や教頭、見覚えのない教師陣が一様に難しい顔をして母親の謝罪見下ろす様。
どうして?どうしてこんなことになっている?どうして関係ない母が泣いている?急な日程でも仕事の合間に駆けつけてくれた母が。白髪が目立つからと外では外さなくなっていた帽子を脱いで、この場の誰よりも深く頭を下げている?
どうして?
気がつけば僕の目からは涙が零れていた。
僕は何も言えないまま、ただ母の背中だけを見ていた。
『どうして』
浅い眠りから目覚めた途端、締め付けるような頭痛に眉を顰めた。薄い窓ガラス越しに雨粒の弾ける音がする。怠い体で薬箱を漁り、目的のものを水なしで飲み込んだ。
昔から雨は嫌いだ。毎度頭痛に苦しめられるのもあるが、雨特有の生臭さとザアザアとこちらを急き立てるような音は、それ以上に僕を落ち着かなくさせる。
僕は狭いベッドに再び横になった。夜闇の湿った空気が鬱陶しい。幼い子供のように薄い毛布を頭から被る。埃っぽい布越しの雨の気配に、僕はどうしてもそれを思い出した。
シングルベッドで手を握りあい、嵐をやり過ごした日。雨の気配など吹き飛ばす二人分の体温と、彼女の好きな甘ったるいヘアオイルの匂い。空気に溶けるような笑い声にじんと脳が揺れた記憶。雲が晴れたら星を見ようと囁きあった夜が過ぎり、喉がなった。
空気は相変わらず冷たく、僕一人では明日の星空を楽しみにすることもできない。ただ一人、雨雲が晴れるのを待つことしか。
もう止まぬ雨に怯えるような歳ではない。それでも、雨のたび胸に迫る思いが増していくのは、きっと彼女の隣にいられる夜がもう来ないことを知っているからだ。
あの夜彼女が指さした星は、僕一人では見つけられない。
『消えた星図』
勢いよく包丁を突き刺し、力いっぱい引き抜いた。ザラザラした持ち手が汗で滑る。ありったけの力で刺した刃は抜くのにも相当の力を要して、思うようにいかない現実に焦りが募る。ぶるぶる震える指が煩わしい。暴れる男に恐怖して、刃先を再び突き立てた。早く、早く、早く。私は男が動かなくなってもその体を切りつけ続けた。
額の汗が眉間を伝い、目に染みる。視界が歪んで初めては、は、と肩で息をする音が自分から発せられていることに気がついた。体が重く、酷く息苦しい。
背中に張り付いたTシャツと、手にカピカピにこびりついた赤黒い塊と、急に効き始めた鼻を刺激する鉄の臭い。
ドクリ、ドクリ、耳元で心臓が早鐘を立てている。
血の気が引いて、目の前が真っ暗になったように錯覚した。
「あ、」
倒れた男は、まるで人形のように動かない。包丁が、血が。柄までベッタリと赤に濡れた刃物を、私が握っている。
「わ、わたし、わた、」
こんなはずじゃなかった。
男が、私を見ている男が、どれだけ叫んでも消えてくれない。ちがう。こんなのちがう。
いつもの夢だ。そうじゃないと、だって、だって。
真っ赤に染まった指で頭をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
そんな私を、瞳孔が開ききった瞳が、私を、見て。
「あぁあ、ああああああ!!!!!」
目が覚めた。
冬の朝はしんと静まり返って、鳥の囀りすら聞こえない。
まだ早朝だが二度寝する気も起きない。ベッドから這い出て汗でぐっしょりと濡れた体を洗い流した。
リビングに戻れば、今日もテーブルには紙幣が折り目正しく置かれている。2つ折りにして鞄のポケットに押し込み、手早く服を着替えた。
習慣でキッチンに立ってみたものの、包丁を握る気が起きず日課のお弁当作りは諦めることにする。
普段より少し早い時間に支度を終えた。外出しようとするだけで震える指をそのままにドアノブを握り込む。動悸を抑えてドアの隙間に体を滑らせた。
「おはよう」
玄関扉の前には男が立っていた。口を噤んだままの私に「寂しかった」と縋り付いた男は、ぬいぐるみでも抱きしめるように私の体に手を回す。ギリギリと背骨が軋み、息を詰める。
「あ、今日は早いんだ。俺も今日は早めに来たんだ、偶然だよね。え、もしかして俺に会いたくて早く出てきてくれたとか、なんて、うわ、ちょっと臭いこと言ったな。自意識過剰だったら恥ずい、マジで。俺ってこういうとこあって、うん。よく変わってるって言われるし。あ、学校でも言われてるから多分知ってるだろうけど。まあそれでも一緒にいてくれたの結構嬉しかった、とか恥ずいけど。俺今日こういう日かも、変な事言う日。やめよう、うん。あ、その髪型俺めっちゃ好きなんだよね、似合ってるよ。あ、そうだ、お母さんは昨日も夜遅くに返ってたね。挨拶しようと思ったんだけど、あ、分かってるよ、そんな顔しなくても。挨拶は一緒の時がいいよね、分かってるよ俺だって」
光のない目に顔を覗き込まれる。男の顔の上で視線を彷徨わせて、白く膿んだおでこのニキビに固定した。
「行こうか」
体を離した男は私の手に指先を絡めると、満足気に瞳孔の開いた目をどろりと歪める。暖かい手に背筋がぞわりと粟立った。
私は曖昧に頷きながら、あのザラついた包丁の感触を思い出していた。あんなにも辛く苦しい夢なのに、目覚めるとこんなにも寂しい。この男に刃を突き立てた時、私はあの壮絶な絶望を感じるのだろうか。
私にも、できるだろうか。
『寂しさ』
「次は────、終点です。」
ああ、終わってしまう。
絶望にも似た気持ちで光ひとつない車窓に反射する情けない顔を睨みつけた。
私は利口だった。勉強も部活も真面目に取り組んだし、悩み事は人に頼らず自分で解決した。
門限は破れど警察のお世話になったことはないし、ましてや家族に反抗して制服のまま家を飛び出すなんてこと、したことがない。したことがなかった。
ではなぜ今になってこんな、スマホと咄嗟に掴んだ財布の中の5000円札で我武者羅に電車を乗り継ぐような真似をしたかと問われれば、衝動的に、という他ないだろう。
今朝、母から再婚を伝えられた。
三度目の再婚だ。母は男を見る目がない。特に三人目は父と呼ぶのも憚られるクズ野郎で、私たち親子はまあ、それなりに苦労した。
それでも、私たちは何とかやってきた。中学生の時「実は、彼氏出来ちゃった」なんて、学校のクラスメイトのような表情で実の母に恋愛事情を赤裸々に語られても、別居後にもかかわらず父親もどきに校門前で待ち伏せされても冷静に乗り越えてきた。
その件で流石に懲りたろうと慢心していたのがいけなかったのか。
帰宅するなり普段より浮き足立った母に「新しいお父さんができます!」なんて、まるでおめでたいことのように、そのおめでたい頭で告げられて。
カッと頭に血が上った私は彼女に「気持ち悪い」とか何とか怒鳴り散らして、そのまま家を飛び出したのだった。
母は考えが足りないから、また悪い男に騙されているのかもしれない。今すぐ事情を問い詰めて、これからに備えるべきなのは分かっていた。けれど理性に反して、私の体は一番遠くへ行けそうな電車を選んで乗り換えて、逃げるように北を目指した。
スマホの電源は落としたままだ。
どこまで逃げても気持ちは追いつかない。
言い訳をするなら、「気持ち悪い」なんて言うつもりはなかった。でも、お母さんにとっての私って、一体なに?彼氏よりも優先順位が低いの?いなくなったお父さんの子供なんて、本当は早くいなくなって欲しいの?そんな、どうしようもない気持ちが溢れ出して止まらなくなって、気がついた時には逃げ出していたのだ。
ぼろぼろと零れる涙を手の甲で拭う。
いつもアイロンをかけて用意されているハンカチは、鞄ごと置いてきてしまった。
スマホに触れる指が真夏にも関わらず悴んでいる。ここを出たら一晩泊まるところを探さなければいけない。お金は無いから、どこか人目につかない所を探さなければ。制服でさえなければ他にもやりようがあったかもしれないが……
私はジンジンと麻痺した指で電源ボタンを押した。母からの連絡が入っていないかもしれないという事実が、一番恐ろしかった。
起動を待つ間無意識に握りしめていたスマホが震えて、大袈裟に肩を揺らす。
母からの連絡だった。
私は凍りついたように通話画面を眺めていた。途方に暮れていたのだ。母から連絡がないことを怯えていながら、こうして機会を与えられても動くこともできない。通話が切れると、今度はメッセージの通知が表示される。絵文字の一つもない、簡素なメッセージだった。『どこにいるの?』『ごめん』『ちゃんと相談できなくて』『お父さんがいた方があなたにとってもいいと思ってたの』『お願い』
分からない。なんと言って謝ればいい?私は子供の駄々のような反抗心でここまで来てしまっただけで、謝って欲しかった訳じゃない。幸せになって欲しくなかった訳じゃない。
私は。
『かえってきて』
私が、愛されている証拠が欲しかっただけなのだ。
いつの間にか随分田舎の方まで来てしまったようで、一駅がとてつもなく長く感じる。
暗いばかりだった窓の外が、パッと柔らかな光に包まれた。小さな街の街灯が流れるように後ろへ消えていく。窓硝子の傷が街の光源に撫でられ、きらりきらりと流れ星のように輝いている。
もう終点が近い。未だ震えるスマホを握り直し、心の奥で決意を固める。もう少し、もう少しだけ。終点までは、時間が欲しい。この涙が止まったらきっと、私の気持ちを伝えるから。
『終点』