「次は────、終点です。」
ああ、終わってしまう。
絶望にも似た気持ちで光ひとつない車窓に反射する情けない顔を睨みつけた。
私は利口だった。勉強も部活も真面目に取り組んだし、悩み事は人に頼らず自分で解決した。
門限は破れど警察のお世話になったことはないし、ましてや家族に反抗して制服のまま家を飛び出すなんてこと、したことがない。したことがなかった。
ではなぜ今になってこんな、スマホと咄嗟に掴んだ財布の中の5000円札で我武者羅に電車を乗り継ぐような真似をしたかと問われれば、衝動的に、という他ないだろう。
今朝、母から再婚を伝えられた。
三度目の再婚だ。母は男を見る目がない。特に三人目は父と呼ぶのも憚られるクズ野郎で、私たち親子はまあ、それなりに苦労した。
それでも、私たちは何とかやってきた。中学生の時「実は、彼氏出来ちゃった」なんて、学校のクラスメイトのような表情で実の母に恋愛事情を赤裸々に語られても、別居後にもかかわらず父親もどきに校門前で待ち伏せされても冷静に乗り越えてきた。
その件で流石に懲りたろうと慢心していたのがいけなかったのか。
帰宅するなり普段より浮き足立った母に「新しいお父さんができます!」なんて、まるでおめでたいことのように、そのおめでたい頭で告げられて。
カッと頭に血が上った私は彼女に「気持ち悪い」とか何とか怒鳴り散らして、そのまま家を飛び出したのだった。
母は考えが足りないから、また悪い男に騙されているのかもしれない。今すぐ事情を問い詰めて、これからに備えるべきなのは分かっていた。けれど理性に反して、私の体は一番遠くへ行けそうな電車を選んで乗り換えて、逃げるように北を目指した。
スマホの電源は落としたままだ。
どこまで逃げても気持ちは追いつかない。
言い訳をするなら、「気持ち悪い」なんて言うつもりはなかった。でも、お母さんにとっての私って、一体なに?彼氏よりも優先順位が低いの?いなくなったお父さんの子供なんて、本当は早くいなくなって欲しいの?そんな、どうしようもない気持ちが溢れ出して止まらなくなって、気がついた時には逃げ出していたのだ。
ぼろぼろと零れる涙を手の甲で拭う。
いつもアイロンをかけて用意されているハンカチは、鞄ごと置いてきてしまった。
スマホに触れる指が真夏にも関わらず悴んでいる。ここを出たら一晩泊まるところを探さなければいけない。お金は無いから、どこか人目につかない所を探さなければ。制服でさえなければ他にもやりようがあったかもしれないが……
私はジンジンと麻痺した指で電源ボタンを押した。母からの連絡が入っていないかもしれないという事実が、一番恐ろしかった。
起動を待つ間無意識に握りしめていたスマホが震えて、大袈裟に肩を揺らす。
母からの連絡だった。
私は凍りついたように通話画面を眺めていた。途方に暮れていたのだ。母から連絡がないことを怯えていながら、こうして機会を与えられても動くこともできない。通話が切れると、今度はメッセージの通知が表示される。絵文字の一つもない、簡素なメッセージだった。『どこにいるの?』『ごめん』『ちゃんと相談できなくて』『お父さんがいた方があなたにとってもいいと思ってたの』『お願い』
分からない。なんと言って謝ればいい?私は子供の駄々のような反抗心でここまで来てしまっただけで、謝って欲しかった訳じゃない。幸せになって欲しくなかった訳じゃない。
私は。
『かえってきて』
私が、愛されている証拠が欲しかっただけなのだ。
いつの間にか随分田舎の方まで来てしまったようで、一駅がとてつもなく長く感じる。
暗いばかりだった窓の外が、パッと柔らかな光に包まれた。小さな街の街灯が流れるように後ろへ消えていく。窓硝子の傷が街の光源に撫でられ、きらりきらりと流れ星のように輝いている。
もう終点が近い。未だ震えるスマホを握り直し、心の奥で決意を固める。もう少し、もう少しだけ。終点までは、時間が欲しい。この涙が止まったらきっと、私の気持ちを伝えるから。
『終点』
子なし休職中の主婦の楽しみは限定される。
外遊びをするような若さも活力もない。けれど漫画やゲームを趣味にするにはお金も行動力も足りない。
そんな私の最近の趣味は、家事をしながら見るドラマだった。
私が堂々とテレビの前で寛いでも後ろめたくならない時間に放送されるそれは、青春や恋愛を打ち出した人気俳優主演の学園ドラマだ。アラサーには眩しい設定だが、雑然としたオフィスやお局、上司との飲み会のシーンでは胃がキリキリとする今の私にはそれくらいがちょうど良かった。
けれど正直なところ、私がそのドラマで一番注目しているのは今どきの顔の俳優でも、有名事務所所属のヒロインでもない。私の目を引いて止まないのは、視聴者にキャラクター名を覚えられているかも危うい一人の女優だった。
作風に合わせて少し大袈裟な演技をする彼女とは、高校時代の同期だった。
明るく顔のいい彼女はクラスの中心人物で、私は恐らく直接話したこともなかった。いつも友人と大声で騒いでいて、当時からそこまで好きでもなかったが。
ただ、私がこのドラマを毎週欠かさず視聴するようになったきっかけは間違いなくそれだ。私と同様にアラサーになった彼女が、惚けたモブ教師役で自分よりも若くて知名度のある役者たちに揉まれているのがなんだか面白かったとかいう、お世辞にも褒められたものでは無い動機だった。
相も変わらずそのドラマはさほど話題にもなっていない。SNSのタグには主演の顔の話や胸キュンシーンのつぶやきばかりで、載せられているスクショに彼女の顔は一枚もなかった。
前回の台詞よりも少しは抑揚がマシになっていたし、大袈裟な動きもやりたいことは汲み取れたのだけれど。一般の視聴者には伝わっていないらしい。
今日も自分の出演時間が5分もないドラマをせっせと実況する彼女の投稿への反応は、2桁に留まっている。
確かに酷い演技だ。あれだけ羨んだ彼女の顔も若々しい芸能人に囲まれると霞んで見える。成長だって微々たるものだし、そも、視聴者に演技の上達を察しろなんて無理な話だ。
それでも、頭で理解していても釈然としない。
彼女がこんなところで、こんな風に消えていくのは何かが違う。そうあるべきでは無いはずだ。
何日も家から出られなかった私を、テレビの前から動けずにいた私を、本人も預かり知らぬところで叱咤したのは間違いなく彼女なのだから。
私は悩みに悩んで、ネットの海から拾い上げた在り来りな手段を取ることにした。私の身元を明かさず一方的に感想を送り付ける方法。こんなことをするのは初めてで、本当に本人に届くのかも、そもそもこの行動に意味があるのかも分からないが。
「ねえ、この食器……ってあれ」
「あ、それ……」
「なにこれ、ファンレター?」
ファンレター。予想外の言葉に一瞬声が詰まる。この気持ちを、彼女への思いを形容する言葉は見つからないけれど。
何度も何度も書き直して、弾けそうな思いを纏めたその封筒を見やった。
「……うん、そうかもね」
『愛を叫ぶ』
その日、僕が休憩室でそれを見つけたのは全くの偶然だった。
僕が学校に行っていた頃に使っていたものと同じメーカーの、文房具コーナーでまとめ売りされているのをしばしば見かけるチープなノート。一目見て分かる程度には使い込まれているそれが、ぽつんと自販機の前、硬いソファの上に放置されていた。
拾い上げた年季の入ったノートはごわごわと膨らんでいた。中に紙でも貼り付けてあるのだろう。
こんなノートを使うのはやはり学生だろうか。見舞いに来た同級生に板書の内容を写させてもらったとか、そんなところかもしれない。生憎と僕にそんな経験はないが、そういうことがあると本で読んだことがある。
脳内で持ち主の当たりをつけながら、名前でもないものかと何の気なしに表を向けた僕はその表紙、さらに言えば、そこに貼り付けられた紙に思わず目を奪われた。
『起きたら必ずこれを読むこと。
私の名前は__。18歳。交通事故にあって15歳からの記憶がない。事故の後遺症で明日になれば今日のことを忘れる。そのため病院の△号室に入院している。』
以下、持ち主らしき人物のプロフィールが鋏で切り取られたのだろうコピー用紙に書き連ねてある。肝心の名前は何故か黒いマジックペンで塗り潰されていた。
……どこかで聞いたような話だ。これが入院患者を対象にした趣味の悪いドッキリでなければ……僕の思考を遮るように、タイミングよく声がかかった。
「それ、私のです。拾ってくれてありがとう」
明朗さと警戒心を器用に滲ませた声に、弾かれたように顔を上げる。
少々強引にノートを取り上げたのは、ピンと張った黒髪と黒目がちな目が印象的な、僕と同世代くらいの女の子だった。
「……じゃあ」
乱暴にノートを奪ったのが気まずいのだろうか、女の子はぎくしゃくと頭を下げて踵を返そうとする。
心臓が不自然なリズムを刻んでいた。ノートの真偽は勿論気になっていたけれど、そんなことを考えるより先に、もっと単純でやや浮ついた気持ちが僕の身体を突き動かす。
「ねえ、君の名前は?」
吟味する暇もなく零れ落ちた疑問に女の子がきょとんという顔をして、性急すぎたかと後悔した。
うわずった気分と息の詰まる緊張感。僕の薄っぺらな人生を丸々塗り替えてしまうような劇的な感情の高まりに、鼓動はさらに速まる。
瞬きの後、頬を緩ませた彼女が瞳を輝かせて口を開くのを、僕は期待と予感に身を震わせて見つめていた。
『もっと知りたい』
行事ごとに見向きもしなくなったのはいつからだろうか。
1DKの狭いマンションで、一段だけ、たった二体だけの人形を並べておままごとのようなことをしていたことは、薄ぼんやりとしている幼少期の記憶の中でも鮮明に思い描くことが出来る。
クラスメイトのものより小さなそれが少し不満で、それでも行事の度、箪笥の奥から子供にとっては大きなダンボールを引っ張り出してくれる母に、形容しがたいむず痒さを抱いていた。
忙しい日々の中で、いつからか見向きもしなくなったそのダンボール。十年以上の月日が経って久方ぶりに取り出されたそれは、埃を被ってなお色褪せない存在感を放っていた。
この子にもいつか「いらない」なんて言われる日が来るのだろうか。古臭い行事と人形だと呆れられるのかもしれない。自身のことを回想してみれば、わけも分からず飾っていた当時より、大人になった今の方がこの行事を心待ちにしているように思う。かつての母も、こんな気持ちだったのだろうか。
与えられた愛を受け継ぐように。彼女が大人になった時、この人形をささやかな思い出の品として慈しめる日が来ることを願って、そっと真新しいベビーベッドのそばに飾った。
『ひなまつり』
小窓から入る光がオレンジ色を通り過ぎた頃。私はどうにかゴミ袋につめたそれをリビングに放り出して、薄汚れたソファに崩れ落ちた。物で溢れたテレビ台の上にはプルタブの開いたお酒が中途半端な量残っている。一時間は経ってしまったから、とっくに温くなっているだろう。
緊張状態特有の奇妙な興奮が過ぎ去れば、後に残るのは徒労感だけだった。最中は学校のことも友達のことも過ぎらず、そんなことに頭が回るようになってやっと喉がカラカラに渇いていることに気がついた。
しかし、あの男が家にいてこんなにも静かだった日がかつてあっただろうか。母がいた頃だってなかったかもしれない。
沈黙が己はやり遂げたのだという事実を突きつける。私は勢いのまま、飲みたいと思ったこともないアルコールに手をつけた。
ここ数年で嗅ぎなれてしまった臭いだけを吸い込んで、これをよく飲んでいた男の事を想う。そして妙に寂しくなった。私の行いが非難されてしまうかもしれないことに気がついたからだ。それはとても不条理な事だった。
感謝なんて腹も膨れないものを向けられて、一体これまで何匹の家畜が屠殺されたのだろう。箸にもかからない嗜好品のために何匹のラットが生贄になったのだろう。
今も命なんて星の数ほど生まれては消えているだろうに、それが一方的に人間の都合で否定されるのは、なんだか納得がいかなかった。
だって、所詮私たちは奪われることを恐れて奪わないだけだ。あいつは私を侮っていた。だからこうなってしまった。言わば私は割を食わされた被害者だった。
アルコールが回っているかも分からない頭で冷静に考えた。私は貧乏くじを引いたのだ。悲しいがどうしようもないことだった。けれど世間はきっと納得しないから、これは隠さなければならない。
死んでしまった男への憎しみはもうなかった。彼は死をもって償ってくれたのだから。私はろくに弔われることもないだろう男を想って涙を流した。この男のために泣くのは、世界中を探しても私だけだろう。死に際に立ち会ったのが私で幸せだったのかもしれなかった。
世界中の虫や家畜や、目の前のそれ。可哀想にも消えてしまった小さな命の冥福を祈って、残りのアルコールを一気に煽った。
『小さな命』