勢いよく包丁を突き刺し、力いっぱい引き抜いた。ザラザラした持ち手が汗で滑る。ありったけの力で刺した刃は抜くのにも相当の力を要して、思うようにいかない現実に焦りが募る。ぶるぶる震える指が煩わしい。暴れる男に恐怖して、刃先を再び突き立てた。早く、早く、早く。私は男が動かなくなってもその体を切りつけ続けた。
額の汗が眉間を伝い、目に染みる。視界が歪んで初めては、は、と肩で息をする音が自分から発せられていることに気がついた。体が重く、酷く息苦しい。
背中に張り付いたTシャツと、手にカピカピにこびりついた赤黒い塊と、急に効き始めた鼻を刺激する鉄の臭い。
ドクリ、ドクリ、耳元で心臓が早鐘を立てている。
血の気が引いて、目の前が真っ暗になったように錯覚した。
「あ、」
倒れた男は、まるで人形のように動かない。包丁が、血が。柄までベッタリと赤に濡れた刃物を、私が握っている。
「わ、わたし、わた、」
こんなはずじゃなかった。
男が、私を見ている男が、どれだけ叫んでも消えてくれない。ちがう。こんなのちがう。
いつもの夢だ。そうじゃないと、だって、だって。
真っ赤に染まった指で頭をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
そんな私を、瞳孔が開ききった瞳が、私を、見て。
「あぁあ、ああああああ!!!!!」
目が覚めた。
冬の朝はしんと静まり返って、鳥の囀りすら聞こえない。
まだ早朝だが二度寝する気も起きない。ベッドから這い出て汗でぐっしょりと濡れた体を洗い流した。
リビングに戻れば、今日もテーブルには紙幣が折り目正しく置かれている。2つ折りにして鞄のポケットに押し込み、手早く服を着替えた。
習慣でキッチンに立ってみたものの、包丁を握る気が起きず日課のお弁当作りは諦めることにする。
普段より少し早い時間に支度を終えた。外出しようとするだけで震える指をそのままにドアノブを握り込む。動悸を抑えてドアの隙間に体を滑らせた。
「おはよう」
玄関扉の前には男が立っていた。口を噤んだままの私に「寂しかった」と縋り付いた男は、ぬいぐるみでも抱きしめるように私の体に手を回す。ギリギリと背骨が軋み、息を詰める。
「あ、今日は早いんだ。俺も今日は早めに来たんだ、偶然だよね。え、もしかして俺に会いたくて早く出てきてくれたとか、なんて、うわ、ちょっと臭いこと言ったな。自意識過剰だったら恥ずい、マジで。俺ってこういうとこあって、うん。よく変わってるって言われるし。あ、学校でも言われてるから多分知ってるだろうけど。まあそれでも一緒にいてくれたの結構嬉しかった、とか恥ずいけど。俺今日こういう日かも、変な事言う日。やめよう、うん。あ、その髪型俺めっちゃ好きなんだよね、似合ってるよ。あ、そうだ、お母さんは昨日も夜遅くに返ってたね。挨拶しようと思ったんだけど、あ、分かってるよ、そんな顔しなくても。挨拶は一緒の時がいいよね、分かってるよ俺だって」
光のない目に顔を覗き込まれる。男の顔の上で視線を彷徨わせて、白く膿んだおでこのニキビに固定した。
「行こうか」
体を離した男は私の手に指先を絡めると、満足気に瞳孔の開いた目をどろりと歪める。暖かい手に背筋がぞわりと粟立った。
私は曖昧に頷きながら、あのザラついた包丁の感触を思い出していた。あんなにも辛く苦しい夢なのに、目覚めるとこんなにも寂しい。この男に刃を突き立てた時、私はあの壮絶な絶望を感じるのだろうか。
私にも、できるだろうか。
『寂しさ』
12/19/2024, 4:10:16 PM