「行かないでよ」
告げるはずのなかった言葉が口をついた。
バス停のベンチに隣合って座った君は目を丸くして、それからくしゃりと笑う。
「もうちょっと早く言ってよ」
言ったって聞いてくれないくせに。心の中で毒突くが、口には出さない。別れに水を差すことはしたくなかった。
一言漏れてしまったのは、まあ、ご愛嬌。
時刻表のみを一心に見つめていた彼女がふは、と息を零したことで、冷たい空気が少し和らぐ。
ここにきて僕はやっと、僕たちが今日初めて引越し以外の話をしたことに気がついた。
「あなたは何も言葉にしてくれなかったから」
「そんなの、君もじゃないか」
僕は少しだけむっとして言い返す。
いつもなら理路整然と僕をやり込める彼女は、今日に限って苦く笑った。
「似たもの同士だったのよ、私たち」
だからダメだった。
風に乗せて消えようとしたその言葉は、はっきりと僕の元に届いた。心が得体の知れない感情で粟立つ。
僕の胸元にまで風が吹き抜けたようだった。
思い返せば、僕たちは大切なことは何も言葉にしてこなかったかもしれない。君の気持ちは言われなくても伝わっていたから、僕のものも当然にそうだと思い込んでいた。
今更、言い訳にもならないが。
喧嘩なんてしなければよかった。あんなことを言わなければ。いや、それ以前に、もっと言葉にしていれば。
後悔先に立たずという言葉を身をもって実感する。きっとこれはきっかけのひとつでしかなかったのだ。君の心はとっくに離れていて、僕はそれを引き止められるほどの言葉を持っていなかった。
「家まで、気をつけて」
「うん」
「風邪ひかないでね」
「あなたもね」
互いの息遣いと衣擦れの音だけが人通りの少ない道に響く。
バスが来るまで、あと数分。
僕がカッコ悪く握った手を、君は握り返しはしなかった。
このまま夜が更けていく気がした。
『行かないで』
10/25/2023, 7:23:55 AM