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連休直前の出勤日。予定通りに止まった電車に、香織はスマホのメモアプリをそそくさと閉じた。帰宅ラッシュの電車は満員で、スマホを出す余裕もなさそうだと地下鉄の窓を眺める。当然ながら、窓の外に広がるのは無機質な暗闇のみだ。

満員電車に犇めくスーツは、皆一様に手元のスマホに視線を落としていた。
人目を気にして執筆を躊躇う香織が阿呆らしく思えてしまうほど、彼らは個人として完結している。香織には羨ましいことだ。
窓に押しつけられた女が硝子越しにこちらを見ている。何をするでもなく脳内で独白する女は、人目にはどう映るのだろう。

草臥れたOLである香織に趣味は無い。世間話として振られれば「読書」と答えるが、精神的に忙しい日々の中で物語に触れる機会も減っていた。
その代わりと言っては何だが、香織は物語を書く。家族にも友人にも伝えたことはないが。
香織は小説家になりたいわけではない。小説を人に読ませたことさえなかった。ただ文章を書くことが好きで、何となく日常が息苦しくて。現実逃避の手段として、自分の頭とメモさえあればできてしまう小説を書いている、だけ。
香織は空っぽな人間である。



連勤明けの休日。ネット小説のサイトを覗いていた香織は、「初投稿でスタンププレゼント」の広告に目を止めた。可愛らしいキャラクターのスタンプが広告の横で踊っている。
どうやら今小説を投稿するとサイト内で使えるスタンプが無料で貰えるらしい。

香織はふむ、と考えた。アカウントは作成済みであるし、要件に評価の数は入っていないらしい。文字通り、投稿するだけでいいようだ。
香織は普段から小説を書いているし、投稿するだけなら無料だ。デメリットは何も無い。深く考えず「小説を投稿する」のバナーをタップした。

「あれ?」

ページを開き、必要事項を入力する。オリジナル?はい。AI?いいえ。単調な作業だ。問題はその後である。

香織はこれまで書いた小説を投稿欄に貼り付けようと、メモアプリを開いた。目ぼしいフォルダを開くが、何も無い。
もちろん言葉通りの意味では無い。ただ、中々上手く書けたと思っていた小説達が、いざ投稿しようとすると忽ち杜撰なものに見えた。
心情描写ばかりだし、句読点の位置が安定していない。気にも求めなかった誤字が山のように見つかる。

香織は出処の分からない焦燥に駆られて、比較的マシな小説を選んで推敲を重ねた。余計な文を消し、句読点を入れ、表現を直し……影も無くなった小説に再度目を通して、投稿欄に貼り付けた。
そういえば、小説の推敲なんてこれまでしたことがあっただろうか。ネット上の小説にダメ出しをしていた自分と、箇条書きのようだった推敲前の小説のようなものを思い出す。心臓に汗をかいたような心地だ。
結局香織は貼り付けた小説を更に一時間推敲し、やっとの思いで投稿ボタンを押した。

香織は初めて知ったが、この投稿サイトはリアルタイムで閲覧者数といいねをした人数が見られるらしい。
閲覧者が更新される度、香織は文字通りひっくり返った。そうでもしないと賃貸に有るまじき行動をしてしまいそうだった。
閲覧数が10、20と増える度焦りが募る。まだ一つもいいねがついていない。
一つ前の投稿にはもういいねがついているのに、どうして。タイトル?知名度?時間?

見ていられなくて一度電源を落とす。甘く見ていた。普段から書いているし、ユーザーの多いサイトだから、きっと10いいね程度ならすぐにつくだろうと高を括っていた。
私の小説は、面白くないらしい。
大切な芯がぽっきり折れてしまったようだ。自分の存在価値まですり減った気がして、膝を抱えた。


どれくらいそうしていたのか。パンパンになった目を開いて立ち上がる。外はすっかり暗くなって、貴重な休日の終わりを示していた。

宅配でも頼もうとスマホを引っ掴むと、画面がぱっと主張する。投稿サイトから通知が来ていた。少々尻込みしながらサイトを開けば、ホームに表示された小説には、一桁ではあるがいいねがついている。
複雑な気持ちでそれを眺めていると、更にもう一件の通知と吹き出しマーク。

『面白かったです!続きお待ちしてます!』

徐ろに表示された短いコメントを、暫く呆然と眺めた。
相変わらず閲覧数に対して少ないいいねの隣に、1の数字が並んでいる。0だったフォロワー欄が1人増えていた。この人だ。

感想と言うにはあまりにも端的なそれに、何故だか涙が零れた。
人生で感じたことのない感情と衝動に襲われる。カッと胸が熱くなる。私という人間が承認された気がした。

小説という私だけの世界。私の思想そのものを公に晒すこと、その苦痛と喜びを知ってしまった。
温い涙の感触は、この先も忘れないのだと思う。
その日、私の楽園は崩壊した。


『理想郷』
スランプ。

10/31/2023, 6:19:32 PM