小さい頃から、よく馬鹿にされた。
体が小さいせいだろうか。気弱なせいだろうか。すぐに笑われた。叩きのめされるのが嫌で、悔しさを飲み込みながら、いつも逃げ込む場所があった。
───町外れの喫茶店
昼間でも少しだけ薄暗くて、壁一面の本棚には古びた書物が並んでいた。客はまばらで、静かで、何より——ここでは、誰も僕を笑わなかった。
カウンターの奥で、店主が新聞をめくる音。時計の針がカチリ、カチリと進む音。低く流れるジャズの調べ。
ひとたび店の扉をくぐれば、外の世界はどこか遠くなる。
僕は奥の席でいつまでも本を読んでいた。難しい言葉も、意味のわからない数学書も、何でもいい。
ただ、強くなれる方法が知りたかった。
別の方法で_______________自分を見いだしたかった
ある日、店主がカップを置きながら言った。
「本が好きなのかい?」
「……知るのが好きなんです」
僕がそう言うと、店主は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
以来、店に来るたびに、「こんなのはどうだ?」と一冊の本を差し出してくれるようになった。其れは哲学書や詩など、実生活には役に立つのか分からないものだらけ。
それでも、いつしか僕は、それを貪るように読んでいた。
——逃げ込んだはずの場所が、僕を強くしてくれた。
あれから何年経っただろう。
今、久しぶりにこの店の扉を押す。
変わらぬカランというベルの音。ふわりと広がる珈琲の香り。
「おや……見ない顔だね」
カウンターの向こう、店主はもういない。代わりに、どこか面影の似た青年が、僕をじっと見つめている。
「すみません、久しぶりに来たんです」
そう言いながら、僕は店の奥の席へ向かう。
昔と同じ場所に腰を下ろし、窓の外を見る。
あの頃の僕は、ここで未来を夢見ていた。
そして今、僕はこうしてここに戻ってきた。
……ならば、きっと。
この場所は、今でも僕の「秘密の場所」なのだろう。
──────題.秘密の場所──────
「ラララ」って、不思議な響き
何気なく口をついて出ることもあれば、胸の奥にしまった気持ちを紛らわせるように、そっとつぶやくこともある
夕暮れ時、公園のベンチに座っていると、小さな鼻歌が風に乗って届いた。振り向くと、一人の少女がブランコに揺られながら、小さく「ラララ」と歌っている。
歌詞はない。ただ、メロディーの隙間に、どこか寂しげな想いが滲んでいるようだった。
声をかけることはできなかった。けれど、その「ラララ」は、まるで誰かを呼ぶようで、あるいは、自分自身に言い聞かせるようで……そんな気がした。
「ラララ」は、ひとりぼっちの祈りなのかもしれない。
言葉にできない想いをそっと紡ぎ、誰かに届くことを願う。紡がれる音色で賑やかなアミューズメントパーク宛らの光景を映し出す。
あの少女の「ラララ」は、風に溶けて消えてしまったけれど、もしかしたら今も、どこかで響いているのかも
しれない。
少なくとも私の心には響いているよ
──────題.ラララ──────
花風は、何を運んでくるのだろうか。
花の香り?
木々のざわめき?
それとも、どこかの誰かの小さなつぶやき?
三月、学校が早く終わった午後、少し足を伸ばして川辺の土手に向かった。春の陽気に包まれながら、本を開く。ふと、やわらかな風が吹き抜けた。
遠くから誰かの笑い声が届いた。
ランドセルを背負ったこどもたちがいる。傷一つない鮮やかなそれを嬉嬉として自慢しあっている。
また、少し離れたところからは、少し大人び始めた声色が微かながらに聞こえた。つよい風がその続きをさらっていく。その後は全くとして聞こえなかった。でも、お互いが向き合いながら手を握っている制服の影がちらりと見えた。
もう一度風が吹くと、桜の花びらがふわりと本のページに舞い落ちる。指でそっと拾い上げると、ふわりとした温もりが指先に残った。あたたかくなった空気が、変わり目を静かに教えてくれるようだった。
風は、目に見えないけれど、確かにそこにあるものを運んでくる。
子どもたちの無邪気な笑い声
勇気を振り絞った愛しい人への言葉
頬をかすめる新たな出逢いの香り
手のひらで受け止めた花びらの感触も、ページの隅に落ちた影も、全部、風が運んできたささやかな贈り物なのかもしれない。
そして、ふと思う。
自分の言葉も、こんな風に誰かに届くだろうか。
ふわりと風に乗って、そっと誰かの心をくすぐるような、そんな文章が書けたらいいな。
今日も風は、どこかから何かを運んでくる。
その中に、少しだけ幸せが混じっていたら嬉しいな。
───────題.風が運ぶもの────
夕餉の後、ふと茶を啜りながら尋ねた。
「ねえ、世界で一番答えの出ない問いって、なんだと思う?」
向かいに座る人は、少し考えて、笑いながら言った。
「そんなの簡単さ、『夕飯は何がいい?』に決まってる」
なるほど、確かに難問だ。
日々繰り返され、幾度となく問われるのに、決して決まることがない。
貴方は「なんでもおいしいから」って言ってくれるけれど、その返答は困るからやめてほしいもの。
「では、世界で最も人を惑わせる問いは?」
「『どっちが似合う?』かな」
ご名答だ。
下手な答えを返せば、翌日の空気が氷点下になる危険を孕んでいる。
貴方は「なんでも素敵だから」って言ってくれるけれど、その返答は困るからやめてほしいもの。
「ならば、世界で最も答えが変わりやすい問いは?」
「『私のこと、好き?』……なんてね」
つい笑みが綻ぶ。貴方らしい。
「因みに今日はどうです?」
「そうだな……今朝は好きだったが、昼にはちょっと嫌いになって、今はもっと好きになっているところだ」
「ふふ、忙しいこと」
「まあな、ずっと一緒にいるから、日々変化があるのも仕方あるまい」
少し意地悪をしてみよう。
「じゃあ、明日は?」
「明日のことは明日にならねばわからん。だが——
たぶん、明日も君を愛おしいと思うだろうよ」
「絶対とは言わないのね」
「絶対と言ってしまえば、それはただの決まりごとになってしまう。好きでいることは、毎日新しく積み重なるものだろう?」
あぁ、やっぱり敵わない。
貴方の言葉に一日、一日と幾度も惚れていく。
確約される「好き」より、今日の「好き」、明日の「好き」と積み重なっていくほうが、
きっと、ずっと、尊い。
湯呑の中で、ほのやかに揺れる湯気。
その向こうで、ふっと柔らかな目をした貴方がいる。
——問いとは、答えを求めるためにあるものだけではないのかもしれない。
ただ問うことで、相手の存在を確かめたり、温もりを分かち合ったり。
答えそのものよりも、問いかける行為にこそ、意味があるのかもしれない。
さて、私もいつものように問うてみようか。
おかわりはいる?
──────題.𝑄𝑢𝑒𝑠𝑡𝑖𝑜𝑛.──────
翡翠のごとき肌、湿り気を帯びた瞳。
春日燈篭の中段にて鎮まり、じっとこちらを伺っていた。
おや、久しい
声をかけても、ひくりとも動く気配はない。
ただ、薄く瞬きをするのみで。
眼前に広がるこの庭園には、古から同じようなものが棲みついている。
雨の香を運ぶ頃に現れ、秋冷とともに姿を消す。
行く先は知らず、また訪れることも定められず
——さて、そなたは、あの子かな?
否、違うのであろう。
されど、こうして再び相見えたのだ。
それを“約束”と呼んでも、差し支えあるまい。
わたしが待つがゆえに、そなたが来るのではない。
そなたが誓うがゆえに、わたしがここに在るのでもない。
ただ、
───また会えた
その事実こそ世の理を超えて
繋がるものの証なのでしょう。
おかえり
そう言うと、翡翠の影はひとつ鳴き、青苔の陰へと、謐に消えた。
──────題.約束───