子どもの頃、家には鏡台があった。母の花嫁道具であるその鏡台は、扉開きの三面鏡だった。私はその鏡台を覗き込んで遊ぶのが好きだった。左右の鏡の角度を変えるとどこまでも自分の顔が映る。普段は目にしない自分の横顔や頭の後ろをみることができる。
ある日、ひとりだけ私と違う動きをしている子を見つけた。
鏡を覗く度に違う場所に移動している。どこにいるのかは毎回違う。それを見つけるのが楽しかった。
私はその鏡の中の自分に「かがみちゃん」という名前をつけた。
かがみちゃんを見つけて何度目かのある時、かがみちゃんと目が合った気がした。その次の時、かがみちゃんが私に話しかけてきた。
「あなたは鏡の前にいない時、どこにいるの?」
「幼稚園に行ったり、公園にいったりするのよ」と私は答えた。
かがみちゃんはずっと鏡の中の世界にいて、そこからいろんな人を見ている。だけど、それ以外の事はわからないし、鏡の前から人がいなくなるととても寂しくなるのだと言っていた。
それから私は毎日鏡を覗きかがみちゃんにその日の出来事を話した。幼稚園で遊んだ事。お兄ちゃんとケンカした事。私は悪くないのに怒られた事。
かがみちゃんはいつも表情豊かに笑ったり、驚いたり、時には一緒に怒ったりしてくれた。
友達の少なかった私にとって、かがみちゃんは一番の親友だった。
小学校に入ると外に友達もでき、かがみちゃんと話すことが少なくなっていった。たまに暇になるとかがみちゃんと話にいった。かがみちゃんは他に映る自分より少し幼い気がしていた。それでも私の話す友達の話や学校の話を楽しそうに聞いてくれた。
5年生になった頃、私は学校で除け者にされた。いじめというほどではないが、仲良しグループのみんなから遊びに誘われなくなったり、無視をされたりした。理由もわからず、悲しさと悔しさでいっぱいだった。かがみちゃんの前で泣いて、全て吐き出した。かがみちゃんに全て話すと気持ちが少し軽くなり、なんとか毎日学校に通えていた。学校での除け者扱いも時間とともになくなり、またかがみちゃんと話す機会が減っていった。
中学に上がるのを機に我が家は引っ越しをした。母は鏡台を処分することにした。私はかがみちゃんの事が心配になったが、母に話すことはできなかった。
鏡台を覗いてもかがみちゃんが現れる事が少なくなっていた。引っ越しの前日、久しぶりに現れたかがみちゃんに鏡台が処分される事を話した。
「大丈夫だよ、鏡の中の世界はつながっていて、どこの鏡にでも行けるから」とかがみちゃんは言った。それでもいつでも会えるわけではなくなる。それはわかっていた。私はかがみちゃんの前で泣いた。これまでのお礼をたくさん伝えた。
あれから数十年経った。昨日、美容室で髪を切ってもらった。最後に合わせ鏡で後ろ姿を見せてもらった。何番目かに映った私はとても幼くこちらを向いて笑っていた。私が小さく手を振ると、同じく小さく手を振り返してくれた。
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お題:鏡の中の自分
幼い頃、寝る前に絵本を読んでもらうのが習慣だった。
兄弟がいたので絵本を選ぶのは交替だった。年齢も性別も違う兄弟とは絵本の趣味も違う。私はお姫様が出てくるお話が好きだったし、兄は冒険物が好きだった。弟はきょうりゅうが好きだった。
大きくなって自分で本を読む年代になっても、兄弟の選ぶ本の種類はばらばらだった。我が家の本棚には歴史物もミステリーもファンタジーも図鑑も並んでいた。もちろん漫画もあった。好きなだけ本を買ってはもらえる環境ではなかったので、他の兄弟が選んだ本も読んだ。自分では選ばない本もとても楽しめたし、興味の範囲が広がった。もちろん全く興味が湧かず途中で投げ出してしまう本もあった。
一緒に遊ぶほど仲の良い兄弟ではなかったが、相手の興味はなんとなくわかった。
大人になってから会話の端々に本の内容が出てくることがある。そんな時、家族としての繋がりを感じてくすぐったい様な幸せな気持ちになる。
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お題:眠りにつく前に
「見えてきたぞ!」
先頭を飛んでいたリーダーのタングが声をあげた。
行く先には緑の草原がその先には広大な湖が広がっている。
大きなどよめきとともに群れはゆっくりと高度を下げていく。
湖にはすでに他の群れや水鳥の姿が見える。
「すごい!あんな大きな湖は見た事がない」
「どこまで続いているんだろう」
今年産まれた若鳥たちははじめての光景に歓声をあげる。
長老は今年も無事に目的の地に辿り着けた事を喜ばしく思う。
この湖を見つけたのは長老だった。
長老がまだ若い頃、群れは別の地で冬を越していた。しかし、ある年を境に湖はどんどん小さくなっていった。食糧も少なくなり、他の群れとの諍いも増えていった。
当時のリーダーは新天地を探す事を決めた。群れの中から優秀な数羽が偵察隊として選ばれた。長老はその中で一番若かったが、その洞察力と先見性を買われたのだった。
偵察隊は各方角に数日間かけて、群れが休める場所を探し求めた。
数回目、偵察隊は南東に向かった。そこで見つけたのが今の場所だ。湖の周りの草地には充分な食糧があり、広い湖には群れのみんなが寛げるスペースがあった。その上、見晴らしがよく群れが安心して過ごすことができそうだ。
長老たちは群れのいる場所まで急いで戻り、リーダーに報告した。報告を聞いたリーダーや幹部たちが新たな湖に向かった。
「素晴らしい。よくやった」
リーダーの声に、長老は群れに貢献できた事を誇らしく思った。
再び群れに戻り、群れのみんなを引き連れて新天地を目指す。
緑の草地の奥に広大な湖を見た群れの仲間が歓声をあげた。
「すごい!」「あんな大きな湖は見た事がない!」
今年の若鳥と同じように、そしてこれまでも毎年その歓声を聞くたびに、長老は体中が震える程に嬉しくなるのだった。
長老は自分の命が永くない事を悟っていた。
今回の旅で傷を負った体では、春の山越えは難しいだろう。次の渡りまでに仲間に看取られるか、仲間が旅立ったのを見送ってひとり静かに死を迎えか。
いずれにしても思い出深いこの地で命が尽きるのをまとう。
そう長老は心に決めたのだった。
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お題:理想郷
俺には懐かしく思い出す出来事など何もない。
緊張の連続の中で生きていた。幼い頃から常に腹を空かしていた。次いつ食べ物にありつけるかわからないから、食べ物がある時には食べられるだけ食べた。風雨を凌げる場所を求めて歩き彷徨った。
周りは敵ばかりだった。強くなければ生き残れないと悟った俺は近づくもの全てに牙を向けた。腕にできた傷も片目がよく見えないのも激しい闘いの証だ。
強くなったが、敵が減ったわけではない。そこらじゅうに敵がいた。いつ誰に襲われるかも分からない日々。
そんな俺に周囲の人間も冷たい目を向ける。
孤独だった。毎日精一杯生きてきただけなのに。
今では年老いて何もせず寝ている事が多くなった。誰かが近づこうがもう闘う気力がない。
ただ、こんな年寄りに闘いを挑むやつもいなくなった。
そっと俺の頭や背中をなでたり、食べ物を持ってきたりする。
仔猫の時分に母親にしてもらったことを思い出す。とても安らかな気持ちになり、無意識にノドを鳴らしてしまう。
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お題:懐かしく思うこと
私は政治家の秘書をしている。
先生の横領の罪を全て被れば、家族は一生安泰に暮らせると約束された。私が口をつぐんでさえいれば、全てが丸く収まる。
「これでおしまいだ」
そう思って足を欄干にかけた。しかし、どうしても最後の一歩が踏み出せない。生きる事も死ぬ事もできない。そんな自分にどうしようもなく腹が立つ。
そんな時、後ろから声をかけられた。振り向くと身なりの良い老人が立っていた。
老人は「コーヒーでもどうですか」と言って、缶コーヒーを差し出してきた。
老人の場違いな物言いに呆気に取られながら、促されるままに河原のベンチまでやってきた。老人はそこに腰をおろす。私もつられるようにベンチに座った。
「どうぞ」と言われて缶コーヒーに口をつける。ずっと緊張していたからなのだろうか全く味がしない。
老人は穏やかな声で話し出した。
「わしも昔、あの欄干に足をかけた事があったんですよ。
やっていた会社がうまくいかなくてね、借金で首が回らなくなったんですよ。家族も離れていってねぇ。もうどうしようもなく自暴自棄になっていたんですよ。
だから、あなたに声をかけてしまったんですね」
老人は仕立ての良いスーツを着ている。そんな過去があった事など今の老人からは想像もできない。
「その時、私も今のあなたと同じ様に声をかけられましてね。
これをもらったんです」
そう言いながら老人が内ポケットから取り出したものは古びた銀色の懐中時計だった。文字盤には時間の他に月と日にちの表示があった。特別な装飾はなく至ってシンプルなものだった。
老人の説明によると、やりなおしたい時に時計の時間を合わせるとその時に戻れるのだと言う。
「いつでもやり直せると思ったら、もうひと踏ん張りしてみようと思えましてね。日雇い労働からやり直して、借金を返してなんとか会社を再建したんですよ。長い年月がかかりましたが、家族ともやり直す事ができましたよ。
わしももう歳ですし、これから使う事もないと思います。なので、あなたに差し上げます」
そう言って懐中時計を私に渡して立ち上がった。
「これは1回しか使えないらしいです。だから、実際に効果があるかはわしにもわからないんですよ」
老人が立ち去った後も私はベンチに座ったまま懐中時計を見つめていた。いったい何時に戻ればいいんだろう。横領の罪を被るように言われた時。いや、その時では遅いだろう。先生が横領を始めた時、先生の秘書になった時、政治家を目指した時。どんなに過去に戻っても何時が正解なのか分からなかった。
空が白み始めた頃、私は妻に電話をして全てを打ち明けた。これまでの事、そしてこれからの事を。妻は何も言わずに聞いてくれた。電話を切った後、私は警察署へと向かった。
数十年の月日が流れた。
ひとりの少年が橋の欄干に足をかけている。「少し話をしないかい?」私はとっさに少年に声を掛けた。
あの日の老人と同じように河原のベンチへ少年を誘った。少年は学校でいじめに遭っていること、親には心配かけられないと言う事をボソボソと話し出した。途中から嗚咽交じりに言葉を絞り出していた。
少年が少し落ち着いたのを見計らって、私はいつも持ち歩いている古びた銀色の懐中時計を取り出して、少年に渡した。
「私はもう使う事はないと思うから、君にあげるよ。ただこれは一回しか使えないらしい。だから、私も実際に効果があるかわからないんだけどね」
〈天界にて〉
ディオニュソス(酒の神):
「ねぇ、クロノス。いつになったら懐中時計が戻ってくるの?お酒飲みすぎちゃって気持ち悪いから、お酒飲む前の時間に戻して欲しいんだけどぉ」
クロノス(時間の神):
「いつになるんだろうね。私だって知らなかったよ。人間がそんなに時間を戻す事に躊躇するなんて」
ディオニュソス:
「なんで人間に懐中時計を渡したんだい?」
クロノス:
「困ってたところを助けてもらったからさ、何かお礼でもと思ってしまったんだよ。
そもそも使わないんだったら、渡さなきゃよかったよ。
ああ、人間に懐中時計を渡す前に時間を戻したい」
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お題:もうひとつの物語
1577文字