私は政治家の秘書をしている。
先生の横領の罪を全て被れば、家族は一生安泰に暮らせると約束された。私が口をつぐんでさえいれば、全てが丸く収まる。
「これでおしまいだ」
そう思って足を欄干にかけた。しかし、どうしても最後の一歩が踏み出せない。生きる事も死ぬ事もできない。そんな自分にどうしようもなく腹が立つ。
そんな時、後ろから声をかけられた。振り向くと身なりの良い老人が立っていた。
老人は「コーヒーでもどうですか」と言って、缶コーヒーを差し出してきた。
老人の場違いな物言いに呆気に取られながら、促されるままに河原のベンチまでやってきた。老人はそこに腰をおろす。私もつられるようにベンチに座った。
「どうぞ」と言われて缶コーヒーに口をつける。ずっと緊張していたからなのだろうか全く味がしない。
老人は穏やかな声で話し出した。
「わしも昔、あの欄干に足をかけた事があったんですよ。
やっていた会社がうまくいかなくてね、借金で首が回らなくなったんですよ。家族も離れていってねぇ。もうどうしようもなく自暴自棄になっていたんですよ。
だから、あなたに声をかけてしまったんですね」
老人は仕立ての良いスーツを着ている。そんな過去があった事など今の老人からは想像もできない。
「その時、私も今のあなたと同じ様に声をかけられましてね。
これをもらったんです」
そう言いながら老人が内ポケットから取り出したものは古びた銀色の懐中時計だった。文字盤には時間の他に月と日にちの表示があった。特別な装飾はなく至ってシンプルなものだった。
老人の説明によると、やりなおしたい時に時計の時間を合わせるとその時に戻れるのだと言う。
「いつでもやり直せると思ったら、もうひと踏ん張りしてみようと思えましてね。日雇い労働からやり直して、借金を返してなんとか会社を再建したんですよ。長い年月がかかりましたが、家族ともやり直す事ができましたよ。
わしももう歳ですし、これから使う事もないと思います。なので、あなたに差し上げます」
そう言って懐中時計を私に渡して立ち上がった。
「これは1回しか使えないらしいです。だから、実際に効果があるかはわしにもわからないんですよ」
老人が立ち去った後も私はベンチに座ったまま懐中時計を見つめていた。いったい何時に戻ればいいんだろう。横領の罪を被るように言われた時。いや、その時では遅いだろう。先生が横領を始めた時、先生の秘書になった時、政治家を目指した時。どんなに過去に戻っても何時が正解なのか分からなかった。
空が白み始めた頃、私は妻に電話をして全てを打ち明けた。これまでの事、そしてこれからの事を。妻は何も言わずに聞いてくれた。電話を切った後、私は警察署へと向かった。
数十年の月日が流れた。
ひとりの少年が橋の欄干に足をかけている。「少し話をしないかい?」私はとっさに少年に声を掛けた。
あの日の老人と同じように河原のベンチへ少年を誘った。少年は学校でいじめに遭っていること、親には心配かけられないと言う事をボソボソと話し出した。途中から嗚咽交じりに言葉を絞り出していた。
少年が少し落ち着いたのを見計らって、私はいつも持ち歩いている古びた銀色の懐中時計を取り出して、少年に渡した。
「私はもう使う事はないと思うから、君にあげるよ。ただこれは一回しか使えないらしい。だから、私も実際に効果があるかわからないんだけどね」
〈天界にて〉
ディオニュソス(酒の神):
「ねぇ、クロノス。いつになったら懐中時計が戻ってくるの?お酒飲みすぎちゃって気持ち悪いから、お酒飲む前の時間に戻して欲しいんだけどぉ」
クロノス(時間の神):
「いつになるんだろうね。私だって知らなかったよ。人間がそんなに時間を戻す事に躊躇するなんて」
ディオニュソス:
「なんで人間に懐中時計を渡したんだい?」
クロノス:
「困ってたところを助けてもらったからさ、何かお礼でもと思ってしまったんだよ。
そもそも使わないんだったら、渡さなきゃよかったよ。
ああ、人間に懐中時計を渡す前に時間を戻したい」
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お題:もうひとつの物語
1577文字
10/29/2024, 5:29:08 PM