「もう私に優しくしないでください」
耐えきれなくなった私は、帰り際にそう吐き出した。しんと静まり返った夜の空気に、その声はやけにはっきりと響く。
「どういう意味?」
私の少し前を行く彼は、足を止めて振り返る。いつもの穏やかな顔を、街灯が照らす。
ああ、やっぱりわかっていないのか。いや、わかっていてこれなのか。私は胸中で苦笑した。どちらだってかまわない。今はこの胸の内を吐露するだけだ。
「そのままの意味です。あなたが私に優しくすればするだけ、やっかみがひどいんです」
そう告げてみれば、彼の表情が少しだけ歪んだ。その事実自体は、彼だってとうに知っていただろうに。それでいてわかりやすく傷ついた顔をする彼は、ある意味では卑怯者だ。
「だからもうこういうことは止めてください」
それでも心折れない私は、ただ繰り返す。
もうこれ以上勘違いしたくはなかった。私が勘違いすればするだけ、周りのあたりは強くなる。そう、嬉しいという感情はどうしたって隠せないから。
「それは難しいな」
「どうしてですか」
「好きな人に優しくしたくなるのは仕方ないだろう?」
それなのに彼はうそぶいた。まるで特別なことであるかのように、平然とそう言った。彼の好きな人が一体どれだけいるのか、私が知らないとでも思ってるんだろうか。
「本当に好きなら止めてください」
「無理だね」
優しくおおらかな彼の愛は、等しく均等に、公平にだ。その特別の座を狙って皆、他者を蹴落とそうとする。
そんなことをしたって、彼は本当の意味では誰も好きにはならないだろうに。それでも優しくされ慣れていない私たちは、彼のそばを離れられないのだ。
「そう、ですか」
彼は愛を与えたがる。決して欲したりはしない。それがわかるくらいには近くで彼を見ていた。彼を知ってしまった。
「わかり、ました」
私は唇を引き結んだ。予想通りだった。やっぱり彼は自分を曲げるつもりはないらしい。
「それなら、これでお別れです」
だから私はそう言い切った。
私は絶対に彼を好きにはならない。その決意を固く、胸に秘めながら。
好きな人ができると世界が変わって見えるって、本当だろうか。
色褪せていたものが色鮮やかに、きらきらと輝いて見えるというのは本当だろうか。
それは好きな人を見る時、瞳孔が開くせいだと耳にしたことがある。それをこの機械の体でも再現できれば、世界は変わって見えるのだろうか。
こんな風に考えてしまうのは、こんな体に不釣り合いな感情を抱いてしまったせいだ。
私は人間を好きになった。たった一人の人間のために、この身を捧げてもいいと思っている。これが愛でなければ何だと言うのだろう。
それなのに人は、私の感情を紛いものだと言う。
もしも世界が変わって見えるのなら、この感情は認められるのか?
わからない。機械に感情なんてないというのが世の大半の言い分だ。それは単なる電気信号の連なりなのだと。それを言ったら人間だって同じだろうに。
ああ、でもきっとあなたは違う。きっとあなたなら、この感情を認めてくれる。そう思えるほどに言葉を交わした。共に時間を過ごした。だから私は、あなたを愛した。
そっと私は空を見上げる。風を感じながら、あなたを思ってみる。それでも変わらぬ青空に少々の落胆を覚えつつ、私は瞳孔を開いてみた。
その国はロボットの楽園と呼ばれていたが、我々人型アンドロイドは異端者だった。
人に使役されるのを拒んだものたちが築いた楽園は、人を模した我々が暮らすには不便な場所であったのだ。
「君たちに売れるようなものなんてない!」
今日もまた小型ロボットたちに威嚇された私は、すこすごと店を出る。
我々のような中型に位置するロボットは、この国では満足に食事だってできない。人が乗り込むような大型のロボットには、それ用の補給場所が用意されている。人が入れないような場所で活躍する小型ロボットには、小型用の補給場所がある。人と同じサイズの我々だけが、いつも路頭に迷う。
「困ったなぁ」
だから私は今日も細道を慎重に歩く。大型用の道は怖くて歩けたものではないから、小型用の道に少しだけお邪魔することになる。これが彼らとしては気に食わないらしい。
「本当に困った」
私のエネルギー残量は三メモリほど。もうそろそろ省エネモードに入ってしまう。いつもはたまに出くわす心優しい小型ロボットに助けてもらっているが、今日は運が悪いらしい。
どうやら本当にそらそろまずいようだ。視覚の歪みを認知した私は足を止めた。
前方に何か人型のようなものが見えるが、この国でアンドロイドに出会ったことはない。まさか同胞? いや、まさか。
私は最後の力を振り絞るような気持ちで、視覚へとエネルギーを集中させた。
——違う。
そうして私は愕然とした。あれはアンドロイドではない。そう、あれは、人だ。人間だ。
「こうやってほら、風をつかまえるの」
そう言ってふわりと空へ浮き上がった少女を、私は呆然と見上げた。ひらりと翻った布の軌跡が、見開いた私の眼に焼きついていく。
難なく空を飛ぶ技を身につけたこの少女は、言わば天才だ。この年齢でそれが可能な子なんて、今までこの辺りにはいなかった。
少女は踊るようにくるりと空で一回転し、大きく手を振って見せる。それがどれだけ難しい技であるか、全くわかっていない顔をしてる。私がそれを身につけたのはつい先日のこと。なのにそれをあっさりとやってのけるなんて。——これが実力の違いか。
風を身に纏わせられる技使いは、実は少数派だ。空を飛べれば一人前だなんてうそぶいていた大人もいたけれど、あれは大人が子どもを利用するための方便でしかない。いや、詭弁か。
こんな私だって昔はもっと純粋だった。大人たちの役に立てることを誇りに思って。だから風を味方につけようと長らく必死になっていた。
「馬鹿だよね」
思わず独りごちた声は、風に乗って流れていく。
空高くのぼっていくこの少女が、それに気づくのはいつのことだろう。その日が来るのを待ち望んでいるのかどうかもわからず、私は唇を強く引き結んだ。
刹那の油断があった。そうとしか言えなかった。その一瞬を突かれて、気づけば俺は土の上を転がっていた。慌てて上げようとした手を踏まれ、呻き声が漏れる。
(くそったれ)
銃を持つ手が痺れる。視界の端に黒い靴が映る。泥に塗れたそれからは、かすかに血の臭いがした。
何が何だかわからないが、相手の方が一枚上だったようだ。いきなり襲ってくるから手だれだとは思ったが。俺の悪運もこれまでらしい。
ぐりぐりと踏みつけられた俺の手から、銃が落ちる。その乾いた音さえ、痛みさえ、何だか遠いものに思える。
「そこまでにしなさい」
もう終わりか。そう思ったところで、凛とした声が頭上から聞こえた。俺の上にいた男が無言でそこをのければ、一人の女がその先にちらと見える。
(誰だ?)
見覚えはない。金の髪が眩い、大きな青の瞳の、鎧姿の女だ。二十歳前後の小娘のように思えるが、その眼差しは妙に力強かった。
「怪我はありませんか?」
金属の触れ合う音をさせながら、女は近づいてくる。俺は素早く起き上がると、その勢いで銃を掴み取る。そうして脱兎のごとく走り出した。
「待って!」
女の声が背後で響くが、俺が意に介することはない。負けることなど大したことではない。俺はそんな無駄な誇りなんぞ持ってはいなかった。だかそれでも、施しを受けるような真似は避けたい。
(いいご身分だな)
何者なのかは知らないが、あの女の優しさは命取りだ。この世界では、情けは破滅の母。あんな鎧を身につけているような人間なら、そんなことくらい知っているだろうに。
俺はひたすら走る。倒木を飛び越えて林の中を突っ切り、ただただ前へと進む。足には自信があった。きっとあの二人を撒くことは造作もないだろう。そうなれば、もう二度と会うことはない。
もう二度と、あの双眸を見ることはない。
(くそったれ)
なのに何故、あの姿が脳裏にこびりついているのか。たったあの一瞬のことが、まなうらに焼き付いているのか。
わからないながらも俺は走った。考えるような暇はない。ただただ今を乗り切る。俺はずっとそうやって生きてきたのだから。