義務や権利という言葉で行動原理を表せるのか。
強い春風にも掻きけされることなく、むしろその中に溶け込み、柔らかさを保ったまま声は届く。
声の持ち主はどこか遠くに、誰も待たず誰からも待たれないまま、今も風のなか立ち尽くしているのだろうか。
遠雷という季語がある。私は今日、夜行列車に乗る。夏は近い。でもまだ春のなか、果てゆく春を追いかけて、私は今日、夜行列車に乗る。
遠い声が私を押す。吹き付ける春風に私も乗り込む。
未来も過去も要らないと思える瞬間。
そしてそのとき幸福論は語られない。
幸せとは何か、考えているときはたいてい不幸せでそのときが満ち足りていれば、幸せの意味などどうでもよくなってしまう、そんな瞬間。
天使の涙か、ティッシュペーパーかと思った。遠くに東京タワーを見据えた私の右頬を、雨がやさしく撫でた。
情緒と実利。いやティッシュに情緒を感じても別にいいんだろうけど。
昔のことを思い出す。未来のことを思い出すことはできないのだから当たり前かも知れないけれど、後ろばかり振り返っている自分が少し嫌いだ。
それは、天使の涙でもティッシュペーパーでもあったのかもしれない。涙は私にこぼれたあと、きっと誰かに拭き取られたのだろう、残っているのはなま暖かい感覚で、気化熱が私からなにかを奪っていく。それがたまらなく心地よい。東京と雨とタワーがあれば、シンガーソングライターなら二曲は書けるだろうけど私にはまだ不足だから、奪われたなにかと一緒に探しに行きたい。別段、大きくならなくてもいい、未来に向けての小さな種を。
おわんみたいにした両手の上に、あるだけの星を並べてみた。手のひらにおさまるそれは綺麗で、色んな角度から見てみようと上下左右に動かしてみるから、親指の付け根のところから一つ、勢いあまって星が溢れた。両手が塞がっているからただそれを眺めるだけだった。
「金平糖ってこの形だからぎりぎり美味しいよな」
「金平糖は美味しくないだろ」
死人が星になるというなら、金平糖にもがんばればなれるよ。メルヘン度は多少落ちるのかもしれないけど。
星を見失った。
ただ一点眺めていたはずだった床の上の星はもう見つからなかった。
まだ両手の中にある星たちをいったん全部袋に戻して僕は独り言を言った。
ふたご座流星群の襲来。
ジャングルジムの攻略本を書いた。どこから足をかければよいか。効率よく登る方法。やってはいけない注意事項。全編270ページ。まず100版刷った。とてもよく書けたので、書店に置いてもらおうと直訴したが、断られた。出版社に持ち込んだら門前払いされた。仕方なくメルカリで売った。2300円。売れなかった。僕はもう、アヒルボートの攻略本の執筆に取りかかっていたから、販促運動もこれまで、という感じだった。
ある日曜日、僕は公園に向かった。手に一冊の処女作を抱えて。黄昏どきの公園は幼児と父親が一組いるだけで静かだった。僕は攻略本をベンチに預けて、一直線にジャングルジムに向かった。ジャングルジムは青色で五層構造の小型タイプだった。このタイプについてはたしか第二章に記したはず。記憶を確かめて、定石通りの一歩目を骨組にかける。瞬間、手と足に過不足なくエネルギーを供給し、フルスピードで頂上へ。10秒、いや5秒とかからなかったかもしれない。満足して一番上から幼児の方に目をやると、彼らはずっと砂場で砂いじりに勤しんでいた。砂場にいれば砂いじりに没頭する。当然のことだ。僕はジャングルジムから下りてベンチに置いた攻略本を回収して家路を急いだ。帰り際幼児にプレゼント、と言って攻略本を手渡すと子供は受け取ろうとしたが父親がそれを阻んだ。僕は一礼して攻略本を丸めて、公園の入り口の自動販売機のゴミ箱のなかに放った。それで公園を後にした。家に帰ったら残りの99冊をどうするか考えなくてはいけない。