私は憂鬱の色を知っている。真夜中が過ぎて、夜を運ぶ普通列車が終点で人を降ろし、そして冷たい車庫に収まったとき、それは見えるようになる。東から次第に空が白んでいき、やがて青に変わっていく。それが憂鬱の色だ。青のなかでもミッドナイト・ブルーと呼ばれる種類のものだ。私はその色彩を完璧に覚えている。この頃は毎日それを見ているから。アクリル絵の具でも色鉛筆でも、たとえ使いかけのクレヨンを渡されたって、見事にそれらを操り、混色してその色彩を表現できる自信がある。憂鬱がすべて空に転写されると、私は幸福な気持ちでやっと眠りにつくことができる。
また一歩、踏み出す度に足音が鳴るのは、たったいまも自分が歩いているということを忘れないためなのだ。昨日も日が沈んだ頃に強い雨が降った。まだ誰にも舗装されていないこの道は、泥だらけのぐちゃぐちゃで踏ん張らないと滑って転びそうになるから、私は余計に強く足を踏み出す。それを繰り返していると、進むために動かしていたはずの足が、ただ転ばないための道具であるかのように思えてくる。杖が自分の身体の延長であると言っていた、あの言語学者は嘘つきだ。道具はどこまでいっても道具でしかない。次第に、ただ転ばないための道具を付け加えられた自分自身が、転ばないことを目的とした生命体であるような気がしてくる。それを否定しなければならない。私は前進している。高く足をあげ強く地面を踏みしめるのは転ばないためではない。前へ進むためなのだと自分に言い聞かせる。
夏だね、と。
匂いとか、味とか、音とか、ほんとうに夏がそこにいるのか分からないけど、なにかの気配みたいなものを感じとって、夏を知る、或いは夏を期待する。
それを誰かに伝えたくなる。
そういうことってあるでしょう。
みなさん、夏ですね。
酷暑といわれるようなこんな暑さだけれども、暑ければ夏かと言われればそうではない気がする。私たちが夏だと思うから夏なのです。だから伝えたいんじゃない?確かめ合いたいんです。
風を切る音が、一段と低くなったような気がする。湿度、という言葉が頭に浮かんだ。じっと立ちすくんだところに、やっと風が吹き付けても汗ばむばかり。
それなら、とペダルを踏む。この風は夏の匂いがする。夏が青色をしているなら、青い風。街路樹の生命、日傘の人並み、光エネルギー。湿度。それを青と呼ぶならこれは青い風なのだ。
風を切る音が、一段と低くなった気がする。私はペダルを踏み、錆びたチェーンが回りだす。
遠くへ行きたい、と思ってここまで来たはずなのに、まだ何かに追われているような感覚がある。
毎日通った、家からバス停までの路上。その道のりが段々短くなっているみたいに感じた。それくらい街は日毎に退屈で、小さくて、そこにいるだけで追い詰められるような気がしていた。街から出ることが最優先だったはずなのに、ここまで来てもその感覚は消えてくれない。
思うに私を追いかけているのは、どこまでも私なのだ。私から逃げ出すためには。或いは。