天使の涙か、ティッシュペーパーかと思った。遠くに東京タワーを見据えた私の右頬を、雨がやさしく撫でた。
情緒と実利。いやティッシュに情緒を感じても別にいいんだろうけど。
昔のことを思い出す。未来のことを思い出すことはできないのだから当たり前かも知れないけれど、後ろばかり振り返っている自分が少し嫌いだ。
それは、天使の涙でもティッシュペーパーでもあったのかもしれない。涙は私にこぼれたあと、きっと誰かに拭き取られたのだろう、残っているのはなま暖かい感覚で、気化熱が私からなにかを奪っていく。それがたまらなく心地よい。東京と雨とタワーがあれば、シンガーソングライターなら二曲は書けるだろうけど私にはまだ不足だから、奪われたなにかと一緒に探しに行きたい。別段、大きくならなくてもいい、未来に向けての小さな種を。
おわんみたいにした両手の上に、あるだけの星を並べてみた。手のひらにおさまるそれは綺麗で、色んな角度から見てみようと上下左右に動かしてみるから、親指の付け根のところから一つ、勢いあまって星が溢れた。両手が塞がっているからただそれを眺めるだけだった。
「金平糖ってこの形だからぎりぎり美味しいよな」
「金平糖は美味しくないだろ」
死人が星になるというなら、金平糖にもがんばればなれるよ。メルヘン度は多少落ちるのかもしれないけど。
星を見失った。
ただ一点眺めていたはずだった床の上の星はもう見つからなかった。
まだ両手の中にある星たちをいったん全部袋に戻して僕は独り言を言った。
ふたご座流星群の襲来。
ジャングルジムの攻略本を書いた。どこから足をかければよいか。効率よく登る方法。やってはいけない注意事項。全編270ページ。まず100版刷った。とてもよく書けたので、書店に置いてもらおうと直訴したが、断られた。出版社に持ち込んだら門前払いされた。仕方なくメルカリで売った。2300円。売れなかった。僕はもう、アヒルボートの攻略本の執筆に取りかかっていたから、販促運動もこれまで、という感じだった。
ある日曜日、僕は公園に向かった。手に一冊の処女作を抱えて。黄昏どきの公園は幼児と父親が一組いるだけで静かだった。僕は攻略本をベンチに預けて、一直線にジャングルジムに向かった。ジャングルジムは青色で五層構造の小型タイプだった。このタイプについてはたしか第二章に記したはず。記憶を確かめて、定石通りの一歩目を骨組にかける。瞬間、手と足に過不足なくエネルギーを供給し、フルスピードで頂上へ。10秒、いや5秒とかからなかったかもしれない。満足して一番上から幼児の方に目をやると、彼らはずっと砂場で砂いじりに勤しんでいた。砂場にいれば砂いじりに没頭する。当然のことだ。僕はジャングルジムから下りてベンチに置いた攻略本を回収して家路を急いだ。帰り際幼児にプレゼント、と言って攻略本を手渡すと子供は受け取ろうとしたが父親がそれを阻んだ。僕は一礼して攻略本を丸めて、公園の入り口の自動販売機のゴミ箱のなかに放った。それで公園を後にした。家に帰ったら残りの99冊をどうするか考えなくてはいけない。
快晴を喜べない僕は、雨降りを恨むこともない。そうは言ってもやっぱり降らない方がいいのだと思う。だって今日の主役は僕じゃないから。姉は気の強い人だった。昔から僕と喧嘩ばかりして。誰にも頼らないくせして何にもできやしないの。そんな姉の披露宴だもんな。時間が人を変えたのだとしたら、それはそれは結構なことだと思う。何より彼女が幸せなら。信号が赤に変わって、シートベルトが僕を締め付けた。油絵のような曇り空を車窓から眺めていると、考え事がしたくなるのは何故だろうか。それも多少ばかりブルーなやつ。きっとそうは見えないと思うけど、僕だって、結婚願望ゼロってわけじゃない。所帯をもって人の温かみに触れて、穏やかに生活できたら何よりいいと願っている。でも相手がいないのでは仕方がない。本当は今、このときだって助手席で愛を振り撒いてただ僕のシニシズムを軽蔑してくれる女の子が欲しい。でも上手くいかない。こんな性格だから好かれないのか、好かれないのからこんな性格なのかは分からないけど。いや、多分前者なんだろうな。ああ、雨の一つでも降ればいいのに、なんて言葉が浮かんでしまった僕を誰か殺してくれ。そんなとき聞こえてきたのは馴染みのない誰かの歌声だった。
みんなが泣いているときに
上手く泣けなくてもいいのさ
みんなが笑っているときに
上手く笑えなくてもいいのさ
AMラジオからシンガーソングライターが、僕ではない誰かを慰めるために。信号がやっと青になって、僕は空から前方に視線を戻した。前の車はみな先を急いていく。フロントガラスにはたった今、大きな雨粒が落ちてきた。僕も鼻から息を一つ吸って口から吐き出し、ゆっくりとアクセルを踏んで加速を始める。
空が泣く Momの音楽よ永遠であれ
彼女の言葉は、さよならの前にはふさわしくなさすぎた。二年前に死んだ母の、ポテトチップスはコンソメが好き、なんて最後の言葉よりもよっぽどあほらしかった。母の話は、しなくていい。大好きな人だった。勿論母のことだ。いなくなった彼女のことじゃない。あんな人のことははやく忘れたい。だけど、できない。昔バレーボールをやってた頃に言われたことがある。失敗したプレーの一つ前を振り返れ、それが失敗の原因だ。彼女の別れは何かの失敗だったのか。その一つ前だから彼女の言葉が忘れられないのか。本当に忘れられない。言葉だけじゃない。うん。いや、こういうのって野暮なやり方だな。忘れられないのは、忘れようとしてないからだ。結局彼女がいなくなるのがずっと怖いままなんだ。自分の前から、自分の思い出の中から。もういいんだ。あれこれそれって指事語ばかりの回想もしまいにして、ちゃんと終わりにしなきゃ。今までありがとう。それじゃあ、おはよう。さよなら。
さよならのあとのちいさなやり取りのあとのほんとのさよならが好き 山﨑修平