心の境界線
わかってる。良くないことだってわかってる。わかってるけど、どうしてもその視線が合うのを待ってしまう自分がいる。酔っ払った彼のせいにばかりして、自分だって、二人でお酒を飲むだけで終わらないその延長線上の行為を期待しているはずなのに。今日も、彼ではない男の愚痴を彼の前で溢す。付き合っているかさえ不明瞭だと言う私の乾いた笑いは彼にどう見えているのだろうか。彼は話を聞きながらまたお酒を煽り、眉を下げていつものように止める。
「そんなん、一緒にいても辛いだけやろ。」
うん、そう。そのはずなのに、なんでなんだろう。目の前の彼と出会った頃の私は、それはもう一番落ち込んでる時だった。将来のためだとか、そういう全く腑には落ちないけど、それらしい理由を信じて、渡すお金を必死に稼ぐために身を削っていた。私のお金を持ってギャンブルに消えていくその男の姿を発見しても、私の家になぜか二人以外の影が見えていても、どうしていいか分からずぼんやりと過ごしていた。そんなふらふらと行き場の無い私を受け入れてくれたのが彼だった。彼は私とまるで違う世界を生き、そのあまりの違いに戸惑いつつ、呆れながらも慰めてくれていた。いつからだろう。こんなに大切な友人と後ろめたい関係性になってしまったのは。彼は優しすぎた。人前で涙を流せずに限界を迎えた私を解放するために、自ら悪い道へ走った。そんな量のお酒じゃ記憶を無くすほど酔わないなんて知っている。ただ身体を求めるだけの屑でないと知っている。私が以前の薄汚いネオン街のお風呂に戻らないように、この関係を続ける理由を作るために、財布から決して安くないお札を取り出して握らせてくれるのも知っている。彼は酔ったふりで私はビジネスのふり。この歪な関係を続けた先には誰も笑わない未来が待っているのを知っている。ただ、私があの男とさっさと別れてしまった後、彼とはどうなってしまうんだろうか。あの男との終わりは彼との終わりにも繋がってしまう気がして、どこにも行けなくなってしまった。彼から貰ったお金はさすがにあの男に渡すのが気が引けて、こっそりと貯めている。その桁が変わる頃には答えを出そうと今日もずるずると引き延ばす。必死に引いたはずの心の境界線を伸ばし続けた未来で、この気持ちがどこかへ行くことを信じて柔らかなベッドで眠りにつく。
透明な羽根
羽根を模した飴細工は日の光を受けて輝いている。こんなに綺麗なのに割ってしまうのがもったいない。観光地特有の浮ついた雰囲気に流されてついつい買ってしまった。甘いものは好きだけどこれを甘いもの枠に入れていいのか。周りは外国人観光客か、親子連れ、SNS映えを狙った若いカップル。そのどのカテゴリーにも入らないアラサーの独身男性一人が持つアイテムでは無かった。一応単体の写真は撮るけど、特にカメラが趣味でもないのでいまいちなアングルで写りは微妙。普通に見る方が綺麗。一人で持っているのも恥ずかしくて、ベンチに座って透明な包装を開けてかぶりつく。ほんのりと懐かしい甘さが口に広がる。子どもには戻れないし、流行のものに必死になるほどの若さも無いし、ここで生まれてだらだらと生きているだけの人間。それでもどこか日常を壊してみたくて買った羽根は、すぐに溶けてなくなってしまったけど、どこかへ連れて行ってくれた気がした。
灯火を囲んで
学校主催のスキー合宿。運動神経は割と良い方だと自負していたから楽しみにしていたけど、人生初のスキーは思いの外難しくて、なんか色々間違えて転んで今は休憩所みたいなところに先生と二人。つまらないなと思いながらぼーっと古びたストーブに手をかざす。すると、不意に引き戸が開き、クラスの色の白いあの子が入ってきた。先生と二、三話して自分の右隣に座り込む。どうやらこの子もスキーが苦手な部類らしい。確かに細いし、白いし、運動なんかとは無縁そう。先生は少しゲレンデに戻るとその場を後にし、二人きりに。何回かみんなと話している時に会話を交わしたことはあったが、二人でちゃんと会話をするのは気まずいな。
「スキー、苦手?なんか意外。」
「うん。なんか難しくて。全然止まれなくて落ちちゃった。」
その子は手袋を外しながら、ふふと笑みを浮かべた。鼓動が早くなるのがわかる。昨日の夜、みんなに吐け吐けと言われて、思わず溢したこの子の名前と盛り上がった室内の様子はこの子は知らないはず。だけど、なぜか何もかもを知っているかのように優しく綺麗に微笑む彼女と、目を合わせられない。灯火を囲んで、二人きりのこのむず痒い空間に耐えられない。
「手、赤いね。まぁ私もだけど。」
そう言ってストーブにかざした手は、先程からストーブに当てていた自分の手よりも真っ赤。その色に目を奪われて動きを止めているうちに、不意に冷たい感覚が右手を覆う。
「はは、あったか。」
悪戯に笑うその細い指先が自分の右手に絡まり、熱を奪う。都合の良い夢でも見ているのかと思う自分を、確かにその冷たさが現実だと伝える。震える手先で、壊してしまいそうな白い冷たさを覆う。ストーブの音だけがやけにパチパチと大きく響いた。
冬支度
「ん。」
休日のなんてことのない朝、特に予定もなく録りためていたドラマを消化していた時にふと通知が鳴った。この前までは冷たい方が良かったけど、今は絶対にホットコーヒー一択のそのマグカップを置き、画面に目をやる。 31日の11時ごろに着くという端的な文字にこちらも端的に返す。言葉にこそできなかったが、「今年も来てくれるんだ」と心の奥で安堵しているのを感じた。
冷たい部屋に息を吐き、押し入れのまあまあな大部分を占拠しているそれをいそいそと引っ張り出す。毎年、スペースを要するのに嫌気がさして処分しようか迷うそのコタツ布団を今年も洗濯機にかけた。何かの中毒性があるのではないかと疑ってしまうほどの居心地の良さと、年に一度しか使わないくせに我が物顔でその必要性を主張する自分以外のもう一人の反論に負けて今年も冬のメンバー入りだ。
洗濯している間に、Tシャツばかりの服入れをひっくり返して厚手のパーカー達を詰める。去年は納まっていたはずのそれがなぜか入りきらないのに首を傾げながら力技でしまい込む。服の棚を整理していると、カチャと聞き慣れない音がした。何事かと取り出してみると黒の細身のベルト。自分が持っているのとは少し違うやつ。見覚えのないそれにもしやと思ってメッセージを送る。秒でついた既読の後、案の定「それ俺のやわー」と返ってきたので次会う時に持って帰ってと送る。すると、「ええやん。実家なんやからそんぐらい置いとかせて。」と悪びれもしない文が届いた。
「実家で年越したくないねんな…」
引越し祝いと言いつつ、自分が飲みたいだけであろう酒を片手にやってきた彼はそうぼやいた。あまり家族がどんな人かという話題は聞かないものの、姪がかわいいだの何だのと写真や動画を見せてきていたので頻繁に実家に帰っているのは知っていた。だから彼がそんなことを言い出すのはかなり驚いた。訳を聞くと、妹が結婚してからというものの親から早く結婚しないのかと言われることが増えたらしい。特に去年は妹が出産のために家を空け、十何年ぶりかの家族三人での年越しで肩身が狭くなったと言う。彼が言うには、今は仕事も忙しいからそんなことを考えている暇はないし、第一そんな相手もいないらしい。不貞腐れていたかと思うと、彼は名案だというように口を開いた。
「なぁ、年越しここでしたらあかん?」
そこから、二人での年越しが恒例になった。新幹線代だってバカにならないはずだし、仕事が忙しいのか、29日、30日…とこちらに着く日も遅くなっているのに、彼はここに来ることをやめない。手土産は相変わらずの酒と、ちょっと良い蕎麦。午前中は二人でスーパーに行って、蕎麦と一緒に食べる天麩羅や明日食べるお餅、そして酒を買い足す。夜は、ソファを背もたれにしながらコタツにくるまり、だらだらとテレビを見る。そして日付が変わり、二人で空いた缶で乾杯して静かな年明けを迎える。
彼は冗談まじりにウチのことを「実家」だと言う。彼の本当の実家には「彼女の家」に泊まると言いつつ、難を逃れているらしい。本当はそのどちらでも無いのに。彼の中で自分の存在は本当に家族に近いような親友なのかもしれない。気を許してくれているのは分かるし、居心地が良いと楽しそうにしているのだって分かる。でも、彼は知らない。彼が開けっ広げに話す過去の恋愛の話にどれだけ心を痛めているかも、実家と言われることをどれだけ複雑に思っているかも。ジャーン!と嬉しそうに笑いながら薬指のリングを見せて、「会わせたいわ」なんて間延びした声で酒を煽る姿を夢に見ては、最悪の寝起きを迎えていることだって知るはずがないのだ。年末はウチで過ごしたって、所詮会えるのは片手で数えられるぐらいの日数。LINEや電話は頻繁にしていても、毎年クリスマスなんていう恋人のイベントはどこで何をしているのかを知る由も無い。自分に言ってこないだけでもう既に良い人がいるのかもしれないと焦っていても、どうにもならない。ただじっと、彼からの帰りの連絡を待ち、コタツを温めて迎え入れる。いつか、ここが「彼女の家」となり、「実家」となることを心の底で願いながら冬支度をする。
行かないでと、願ったのに
度数の弱い缶チューハイを二人で半分こ。その250mlだけでも自分の顔を赤くするのには十分だったが、彼はまだ足りないと缶を開ける。お酒は得意じゃないし、別に好きでもない。だけど、一緒に飲めるとなると、彼はすごく嬉しそうな表情をするから。その笑顔が見れるなら、少し苦手な酔いが回る感覚もへっちゃらだった。彼を背もたれにしながら、ドラマの1話が終わるまでのわずかな間に襲ってくる眠気の波を潜り抜ける。こんなにも幸せな時間が少しでも長く続きますようにと、このまま彼が自分のもとにいて、どこにも行かないでと、願ったのに。
冷蔵庫を陣取る缶チューハイを見るたびに胸が痛む。ねぇ、早くきてよ。一人じゃ空にできないじゃん。硬い背もたれだと寝られないじゃん。ドラマも見れちゃうじゃん。二人で茶々を入れながら見ないとストーリーがつまらないって気づいちゃうじゃん。寂しいじゃん。のびのびと足を伸ばせる布団も、二日酔いに悩まされずに起きる朝も、嬉しいはずなのに嬉しくは思えない。自分ではないその喉が、おいしそうにアルコールを吸い込んでいく音を聞こえないなんて本当に嫌だ。それなら、行き場のないあのチューハイと同じように冷蔵庫に並んで、じっと時間を過ぎるのを待っていたい。いつか、彼が外に連れ出してくれるのを願いながら暗闇に目を閉じる。