子供のままで
自分がまだ生まれてもいない頃に、この自分と背丈が変わらない人間が息をして、それから自分と出会うまで生き続けてくれていたと思うととても言い表し難い感情が溢れる。ソファに横に座っている距離を詰めて、じっと顔を見つめる。どうしたの、なんて苦笑するその下がる眉毛を観察しながら無言。だって、そのまま伝えたってきっと笑われるし、まともに受け取ってくれないだろう。自分が生まれてもいない頃に、綺麗な幼稚園教諭でさっさと初恋を済ませてしまった彼を恨めしく見つめる。
近所の遊んでくれるお兄ちゃんはいつの間にか憧れの人になって、忙しくて遊んでくれないお兄さんになって、そのいつの間にか追いついた小さい背丈さえ愛してやろうと思わせてくれる特別な人間になった。しかし、いつまで経っても彼にとっての自分は子供のままらしい。その恩恵にあずかってちゃっかり甘えちゃう時だってあるけども、いい加減自覚してほしいのだ。お前がかわいがっている目の前の人間はもうすっかり成人した大人なのだと。ただ、それを理解させるのも怖いのだ。自分が大人だと分かってしまって、もし興味を無くされたら?他にかわいがるべき対象の若くてかわいくて素直な子が現れたら?いくら歳上の綺麗なお姉様好きの彼だって、例外が目の前にいるのだから靡かないとは言い切れない。ただ、一生その例外が自分だけであってほしいと言うのは、まだ自分を子供だと思っている彼にとってかわいい我儘で済むだろうか。子供扱いされるのは癪だが、かわいいかわいい子供のふりをしてうっかり取り返しのつかない約束をさせてやろう。
「ねぇ、一生のお願いがあるんだけど。」
子供じみたその口調に彼は愛おしそうに笑い、優しい目で自分の言葉を待った。一生のお願いなんだから、断るのは無しね。
初恋の日
あまりにも、笑っちゃうくらいに、まっすぐだったあの頃の自分。みんながドッジボールやら鬼ごっこで遊ぶ中、端の鉄棒にぶら下りながら花壇をぼんやりと見つめているその子を見つけて目が奪われた。入園したばかりの幼稚園で誰とも仲良くなる前に見つけた、綺麗な目の子。ゆらゆらと自分のペースで鉄棒につかまりながら揺れていて、花壇に咲く綺麗な花を見て少し微笑んでいるその子がどうしても気になり、持っていたスコップもそこそこに砂場からそろりと鉄棒に近づいた。鉄棒から落ちたと思ったら、案の定土に膝と手がびたんと張り付いた。三歳児の軽い体重と高さのない鉄棒だったために大きな音も無く、一瞬の出来事だった。土がついて擦りむけた手のひらを見て状況を理解したかのように目に涙を溜め出したその子。
花壇の下の端に咲いていた、意図的に植えられたのではない綿毛になる前のたんぽぽを根っこごとむしりとった。本当はもっと水色とか淡い色の方が似合いそうだったけど、花壇から取るのは違うし、罪悪感なくむしり取れるのが黄色い花だけだったから仕方なく。花の色よりも、自分の気持ちを早く伝えたいという独りよがりが勝っていたのかもしれない。いや、ただ単純に泣いているその子を泣き止ませたいという良心の塊だったのかもしれない。
「おれと、けっこんしてください。」
自分の求婚で涙が止まるという仮説には多少の傲慢さが見えるが、まぁ幼かったので許してほしい。しゃがみ込んで泣いているその子は大きな目を瞬いて、突き出された咲きかけのお世辞にも綺麗とはいえない黄色の花と自分を交互に見比べて、言葉を理解するまでに少しの時間を要するかのように固まっていた。涙が止まったことにほっとしつつ、何も言わないことに痺れをきらしてまた尋ねた。
「ね、いいの?だめなの?」
今考えると強心臓すぎる。
「…だれ?」
そりゃそうだ。話したこともない初対面の男子に話しかけられたらそりゃあ戸惑うだろう。今ならそう分かるけども。ただ認識されていなかったことにも何とも思わずに名乗り、困っているような顔のその子を立ちあがらせた。
「いたい?」
「うん…」
またじわじわと涙が溜まったその子を見兼ねて大声で先生を呼んだ。先生に連れられていく瀬戸際、こちらを振り返ってありがとうと言われたその小さな声と、やっぱりまだ困惑したような顔に恋を知ったのだ。それがおれの、初恋の日。
「初恋の日?ええ、んー…覚えてない……けど、好きなアイドルとかだった気がする……」
「は、それいつ?」
「3歳…?いや、4歳…?」
「いや、もうおれにプロポーズされた後だろ。浮気だ、浮気。」
「えーーーー?!あの時返事したおぼえないんだけど?!浮気も何もありません!てか初対面でプロポーズとか本当に意味わかんなかったからね?!」
「ま、それはそうだけど。」
「結局あれが今んとこ人生で最初で最後のプロポーズだったし…」
「は?だから今のとこって何?こっから先誰かにプロポーズされる気?」
「違うわ!あんたでしょうが!!あれからプロポーズされてないのが問題なんでしょうが!!」
「え、一回したからいいじゃん。本当に結婚してるし。」
「たしかに、結婚はなんでかしてるけどね!!!でもあれを一回とカウントするな!!!」
何もいらない
通勤鞄の奥底から出てきたのは、何年前に買ったか分からないような今の趣味とは違う花柄のキーケース。ここ数年出番が無かったのは、わざわざ家に帰るたびにキーケースを探るのが面倒で、家の鍵と自転車の鍵だけ束にして上着のポケットに入るようになったからだ。実家の鍵やら何やらその他の諸々の鍵も取り出したはずだから今はもう空だろう。なんとなしに開いてみたら、一番右の列に小さな黒の鍵がかかっているのが見えて一気に胸を締め付けた。あぁ、そうだ。返すのを、忘れていたんだっけ。
久々の口喧嘩は日に日にヒートアップして、ついには自分の方から家を出た。彼の前で、素面で泣いたのは後にも先にもあの一回だったっけ。彼がいないところでは幾度となく流した涙を思い起こして、条件反射のように鼻の奥にじんわりと嫌な味がした。分かっていたはずだったのに。涙を流すのも、言い返すのも、全部駄目だって。彼は面倒な女は嫌いで、私がそのポジションを割と長い間務められたのも我儘を言わなかったからだって。家を出て次の日も仕事で休めるわけは無くて。忙殺されそうな身体とボロボロの精神で周りに心配されるぐらいに顔を腫らして。2日も続いてこれはいい加減断ち切らなければとやっとの思いでLINEをブロックしたんだっけ。
これ、どうしよう。キーケースから外すこともできずに机の上に置いたその小さい鍵を睨みつける。鍵って、普通に捨てていいんだっけ。なんか防犯上駄目なんじゃ…てかそんな後味の悪い別れ方をした奴の防犯なんて考えなくても良いんだろうけど。もうあそこ引っ越したのかな。合鍵無くしたって言って大家さんとか管理会社の人に怒られたりしたのかな。久々に思い出したはずなのに鮮明にその金髪の綺麗な顔を描けていることに自分でも驚いた。あぁ、でもそうか。ごく偶に、未だに夢に見るもので。まだ幸せを感じていた頃の、あの美化されたはずの甘い記憶を反芻しながら、潤んだ目で起きて現実へと引き戻されるという最悪な寝起きは別れてから何度もされていたっけ。
じっと黒と金属のその塊を見ているうちに、恐ろしいことに気づいた。あることを検索してから震える指でその緑のアプリを開く。「設定」から「友だち」を開いて、現れた「ブロックリスト」。通知が鬱陶しくなってブロックした公式LINEばかりの中に埋もれていたあの名前。懐かしいアイコンを見てじんわりとまた涙が滲む。トーク画面の一番上に固定されていたはずの金髪も落ちぶれたものだ。完全に消したつもりでいて、それでも消しきれずに残っていたのはあの時の呪縛だ。考えあぐねてその金髪を選択し、ブロック解除を押す。あっちだってブロックしているかもしれないし、届かないかもしれない。もし届いても無視されるかもしれない。
だけどさ、どうせ返事が来なかったって一緒じゃない?こっちもブロックしてたんだしあっちもブロックしてたっておあいこだ。今まで通り、何も無かったふりして生きていくだけだ。ああ、返信来ないなって思うだけで。会いたいなんて思わないし。そのうちあの家への行き方だって忘れて、涙も忘れて、あの憎らしい金髪の男性な顔も忘れてしまおう。数日経って返信が来ないのを確認してから、本当にブロックリストからも記憶からもあの男に纏わる全てを消してしまうだけだ。一応ね、鍵持ち逃げしてるのに罪悪感はあるからね。返事が来なかったらそこまで。そうそう。
「突然ごめんね、鍵だけ返すべきかなって思って連絡しました」
久しぶりーとか元気?とか打ちかけたけどそれは違うなって。何回か打ち直して決めた簡素なメッセージを送って携帯の電源をオフにする。本当に送ってしまった。いや、そんなドキドキしなくてもいいはずで、このまま宙に浮いたメッセージが彼の目に入ることはないかもしれないのに。何もいらないはずだったのに、全てを絶ったはずだったのに、なぜか心臓がうるさいのはなぜだろう。舞い上がっちゃうほど嬉しかった鍵を返してあげようとしちゃうほどに時を進めた自分と、もういなくなったはずだった彼に会いたい自分が少しだけ現れただけで。また時が経てば、反応がなければ消えてしまうような小さい自分と既読がつくまではもう少し向き合おう。
「久しぶり。色々言いたいことはあるけど、いつ時間あるん?」
遠慮も何もない。即既読からのレス。そうだった。こんな感じの文だっけ。
「直接会うの気まずいでしょ?ポスト入れとくのでいい?」
「気まずくないけど?」
なんでだよ。
「こっちが気まずいの」
「勝手に終わらせといて鍵持ち逃げして気まずいなんて卑怯やろ」
ぐっと喉が鳴る。確かにね、そうだけども。
「会いたい」
あぁ、このLINEに何度騙されて家に行ったっけ。
「泣かせたこと、謝らせてもくれへんの?」
自然と漏れ出たため息は少し湿っていて、また奥の方でじんわりと涙の味がした。何もいらないと思っていたはずだったのに。見つけちゃったからなぁ、鍵ほど小さくて、それでもまだ存在感を放っていたあの頃の自分が。
大切なもの
大切なものって何だろう。お金?そりゃ生きていくのには必要だもん。大切。水?身体的に無きゃ生きていけないよね。大切。衣食住?まぁ足りてない部分もあるっちゃあるかもだけど生活を営むには必要だよね。大切。じゃあ、この、何の変哲もない電子機器の中に入っているデータの容量を食うだけの写真は?生きていくのには全く必要ないはずの、金髪の顔見知りがくしゃくしゃな笑顔でダブルピースを決めている写真は?何年にもわたる月日を、好きというだけで無意味に過ごさせたこの憎たらしい人間の画像一枚。これから自分が生きていくのに排除したって痛くも痒くもないはずの画像を、お金や水や衣食住と同列に「大切なもの」に分類するなんてばかだよなぁ、と自分でも思う。ただこの、友達と呼ぶには近くて、それ以上の特別な関係なんて称することができないだけの顔見知りの写真を消さないように。消せないように。これからも無駄な大切なものが増えていくのだろうなぁとぼんやり思って、見慣れすぎた金髪と時計が映る画面を消した。
エイプリルフール
こんな日が記念日なんて縁起悪くない?なんて言うのに、覚えやすいやんと彼が譲らなかったからしぶしぶ窓口についていった。おめでとうございますなんて窓口の人に言われてもあんまりぴんと来ない。まるで壮大なドッキリみたい。4月の1日なのにいいのか?なんて思ってるのは自分だけ?まるで実感がなく自分が既婚者になった事実に驚く。それでも楽しそうに指輪を眺めている彼を見るとまあいいかと思った。幸せだから。