ふたり
「ごめん。今日やっぱり仕事遅くなるから会えないかも。」
何度見ても変わっていない文字列にため息をつきながら電車に揺られる。せっかくの休日で、会えると思っていた大好きな友達からのLINE。いつもなら一人に断られても他を探してどこかに合流するのは簡単なのに。これがこの人でなければ。
ひとりでいるよりふたりでいた方がいいに決まっている。その真理に気づいたのは、自分のために用意された部屋で、買い与えられたゲーム機を横目に大きなベッドに寝転がっていた小学校低学年の春のことだった。兄も姉も欲しい。弟も妹も欲しい。くれるなら、自分は弟にだって兄にだってなる。誰でも良いから自分の他にもう一人いてほしい…なんて、仕事で忙しそうな両親の前ではそんなことをたったの一度も言えなかったけど。
人の懐に入るのは簡単だった。誰もの"接しやすいあの子"でいれば良いだけだから。最新のゲーム機があると言えば人気者になれる小学校の頃よりは、環境が変わるごとに難易度は少しずつ高くなっていったものの、一定の期間さえあれば誰とも良好な関係を築けるのは自分の数少ない特技だ。最初は明るく、物腰柔らかに、人当たりの良いまるで聖人のような自分。非の打ち所がない明るい人を見て拗ねてしまうような、その"良い子ちゃん"だけでは納得してくれないような人たちには、その人たちが望んでいるようなちょっとだけ悪い自分も見せる。この二つを使い分けていけば、誰にも疎まれず、蔑まれず、拒絶されずに済む。なるべくみんなと、楽しい方へ。悪巧みをするのだって、先生にバレないように画策するのは、まるで兄弟と両親に内緒でする遊びのようで心が湧きあがる。ただ怒られたくはないし親に心配はかけたくないので、本気でダメなことは避けるし、矢面には立たずにバレないようにうまくやる。先生とだって一定の関係をつくる。本当にうまくやれていたし、今だってどこにいってもうまくやれていると思う。
ICカードをかざしたのに電子的な音と物理的な壁に止められて思わず舌打ちをする。まぁ、めんどくさいことを後回しにしがちな自分が悪かったんだけども。これが朝の急いでる時でも、後ろに誰かを待たせているような時でもなくて良かったと思う。料金をチャージする機械にカードを入れながら思う。今の改札に止められた自分は、ただ一人の人気者でもなく、二人だけの秘密を共有する悪友でもなく、本当に何者でもない素の自分だったかもしれない。それが本当なら、こんな自分と一緒にいてくれる人なんていないんじゃないか、なんて後ろ向きな気持ちが顔を出す。
いつもの良い子なら、「そっかー、残念。また都合の良い日教えてー。」。いつもの悪い子なら、「まじか。次埋め合わせしろよー。」。でも今回はどっちも違う気がして、何度も打ち直しては送れずにいた。そうこうしている間に当初の待ち合わせ場所だった駅前につき、行き場もないのでカフェに入った。コーヒーを片手に窓を見る。一人じゃなければなんでも良かった。誰でも良いから一緒に笑い合ってれば寂しくないと思っていたはずだった。年齢を重ねるごとに、兄弟のようなどこか温かみのあるような関係性の友達ばかりではなくなってきた。姉妹のようだと思っていたあの子には、親愛だけでは終わらない思いを告げられ、普通に友達だと思っていたあいつは、自分と仲良くなることの利益を考えていたらしい。恋愛だとか利益だとかそんなよく分からないつまらないことよりも何も考えずに笑っていようよ。なんて綺麗事だろうか。それでも、自分はこの綺麗事に頷いてくれる人をひとりだけ知っているのだ。
「暇だし待ってていい?遅くなっても良いから会いたい」
自分の素のわがままな部分。余裕が無くて、見栄もなくて、ただ純粋な願望。会いたい。笑いたい。どうしてもこの人とが良い。これは恋愛でも利益でもない。自分の追い求めて来た兄弟にも家族にもなりようがない関係性なのかもしれない。それでも良い。ただただこの人といたくて、いるのが良くて、いなきゃダメ。
「まじで?嬉しい!ありがとう。なるべく早く帰れるよう頑張るわ。」
そんなメッセージを見て安堵した。不器用ながらもパソコンを忙しなく叩く彼の様子を想像しては頬が緩む。ひとりでいるよりふたりでいた方がいいに決まっている。他の誰でもなく、自分とあの人のふたりで。そんな新たな真理に気づいたら、なんだか体は軽くなって、疲れた顔をしながら会社を出てくるあいつにどんな差し入れをしてやろうかと思考を巡らせた。
心の中の風景は
今だって楽しいはずなのに、思い出す心の中の風景はいつもあなたとの狭い部屋。
夏草
綺麗やなぁ。ベランダに飾られた水色の花のプランターを見つけて思わず頬が緩んだ。そういえば家にお邪魔するのは何度もあったけど、ベランダに足を踏み入れたのは初めてだったかもしれない。倒さないように気をつけながら二人分の洗濯物を干す。部屋にも至る所に観葉植物が置いてあったりして緑が多いなと思っていたけどこんな綺麗な花を育てていたのは知らなかった。いつも自分よりも早く起きて、ベッドを抜け出してはこっそり水をやっていたりしたのかなと想像する。そう考えたら一人分のスペースが空いていた時の寂しさも納得してあげたくなる。度々生えてくるであろう雑草も丁寧に手入れされて立派な花が咲いているそれをじっと見る。小学校の頃学校で育てていた朝顔をすぐに枯らせてしまってからは敬遠していた植物。帰ってきたら何の花か聞こう。
素足のままで
黒のシンプルなハイヒール。形が綺麗なそれはお気に入りのブランド物。埃ひとつないシューズケースからどのヒールにしようか迷うのは毎朝の楽しみだ。今着ているミニ丈のワンピースとブランドが同じだし今日はこれにしよう。コツコツとアスファルトを鳴らすヒールの音が好きだ。いつだっけ、まだ小学校に通う前、パパの会社の集まりに連れて行かれた時、同い年ぐらいの男子に言われたチビの二文字。バレエを習っていたから長い手足に憧れていた私は初めての侮辱にショックを受けて固まってしまった。すぐにその子の親らしい人が血の気が引いたように謝ってきたから大丈夫ですと笑いかけることができたが、その呪縛が消えることはなく、いつしかヒールの高い靴を好んで履くようになった。
靴を脱ぐのは嫌いだ。ありのままの自分の身長を曝け出すのが怖い。普段見下ろすようにして威圧感を与えていた男たちの前で、弱い自分を見せる訳にはいかない。それに、とても惨めに思えるから。ヒールを履くことで大人の女性になったと思っていたのに、靴が脱げると途端に魔法は消える。シンデレラだってわざわざガラスの靴を履いていない姿を探されたくなかったと思う。私はシンデレラになんかなってやらない。綺麗な靴を履いて、着飾って、王子様なんて探さずに一人で女王様になってやる。そう意気込んで今日も姿勢を伸ばして街を歩いた。
もう一歩だけ、
18の春。大学に入って初めての授業日。降りる駅を間違えないか緊張しながら電車内のモニターを気にしていた時のこと。向かい側の席で姿勢よく座る女性に度肝を抜かれた。上品な金に染められた髪に、光沢のある黒のシャツに細身のスキニーパンツ。高いヒールの靴を履いた足は綺麗に揃えられていて、座っていたって分かるようなスタイルの良さ。恐ろしく綺麗な人だとしばらく目を奪われていたら不意に顔が上がって目が合う。思わず逸らすと、自分の下半身が目に入る。太いふくらはぎを隠すために買ったセール品の色褪せたロングスカート。朝は何も思わなかったのにすごく見窄らしく思えてきてそのくたくたのスカートをきゅっと掴んでいた。都会には綺麗な人がいるなと思っていたけど、まさか同じ駅で降りて大学まで辿り着くと思わなかった。
19の春。学年が上がって最初の授業日。看護実習のためかみんなの髪色はほとんど暗い黒で統一されていた。一年を通して組まれる演習のペアの紙が張り出されていたのをぼーっと見ていた時だった。ねぇねぇと優しく声をかけられ、振り返るとそこには黒髪だったとしても美しさが変わらない紛れもない美人。この一年、目立つその子を見かけて目で追っていても、きっかけもなしに話しかけることができなかった。言葉を交わせる距離にいるのが嘘みたいだと固まる私に、その綺麗な子は、ペアだからこれからよろしくねと目を弧に描いた。
20の春。春休みの実習にへとへとになりながらも間髪入れずに始まった授業日。相変わらず綺麗な彼女は髪を出会っていた頃のように明るくしていてどこか懐かしい。大きいホールでキョロキョロと辺りを見回しては私を見つけ、ブーツをコツコツと鳴らして同じテーブルのところまで来ていつものように一人分席を空けて座る。他愛もない話をしながら講義が始まるまでの時間を過ごした。
21の春。辛くて、辛くて、学校に行かなければならないのに、なぜだか涙が止まらずに家から一歩も出ることができなかった。夕方、やけにうるさいインターホンで目が覚める。のそのそと起き上がってモニターを見ると、今日だって綺麗な彼女の姿。ドアを開けると、なぜか彼女も目を潤ませて佇んでいた。何も声を出せない私の手を取って優しく包む。全てを許してくれている気がしてまた涙が止まらなくなった。玄関でしゃがみ込む私の涙が床とスニーカーを濡らしていった。
22の春。お財布に優しいカウンター席の居酒屋は彼女にはだいぶミスマッチだ。少し狭い店内で、一人分のカバンだけ間に挟んで座る店内で仕事はどうだとか上司がどうだとか溢しながら笑い合う。少しお酒も入って思考があやふやになった頃、思う。あぁ、本当に綺麗だ。グラスを傾ける指先から少し堅苦しい靴を履いた足先まで。つい見惚れていたら酔ってしまったと勘違いさせてしまったようで大丈夫かと顔を覗き込まれる。そして、いつもより近い距離で目が合う。あと一歩、踏み出したら触れる。もう一歩だけ、踏み出したら私たちの関係は変わる。今なら良いだろうか。許されるだろうか。間に置いてある私のカバンを手探りで掴み、膝の上に避け、踏み出す。その綺麗な目が大きく見開かれる。靴の先が当たった。