涙の跡
今日は一日を通してダメな日だった。昨日のめんどくさい飲み会のせいで一限は遅刻するし、英語の授業で当てられても答えられなかったし、室内にいる時間は曇りなのに外を歩くと降り出すし、ヘッドフォンは家に忘れるし、バイトあることも直前まで忘れてたし。間に合ったと思ったら、ピアスつけっぱなしで店頭出ちゃって近所のおばさんにちょっと引かれながら注意されたし。なんか全部ついてない。ふぅとため息を吐いて、思考を放棄するように目の前の花を愛でる。うん、今日も綺麗。こんな小さい花屋でも大型店顔負けの品揃えなのは店長である叔父さんの努力そのものだ。色とりどりの花が所狭しと並んでいるそのお店は意外と居心地が良い。バイトが長続きしないでおなじみの自分でさえ働けているのだから、割と花屋は自分の性に合っているのかもしれない。いっそ正社員として雇ってはくれないだろうか、なんて考えながら手を動かしていると、いつも使ってるバケツが周りに無いことに気づいた。
「あ、叔父さん。あのバケツってどこ置いてたっけ。」
「あぁごめん。昨日使って裏口のとこに置いてたんだった。」
「あ、そなの?全然いいよ。ちょっと取りに裏入るね。」
「はいよー。あ、あと今日人少ないし早めに閉めちゃおうと思う。」
「雨だもんねー。了解。」
就職したって敬語を使わなくて楽だなぁなんてぼんやり思いながら裏口のドアを開けた。あったあった…とバケツを持ち上げ、すぐに戻ろうとした時のことだった。雨が強まってくる中、見知った顔の人が遠くにいるように見えてじっと目を凝らす。ああやっぱり。常連の川崎さんだ。俺と同じぐらいの歳の花が好きな人。声をかけようか迷っているうちに、こちらに気づかずに近づいてくる姿を見て違和感に気づく。まあまあ雨強くなってるのに傘も手に持たず、濡れたくないからと急ぐ様子もなく、さらにはいつもより元気の無さそうな表情に赤い目元。雨に濡れて見えないはずの涙の跡が見えた気がして、気がつけば道に飛び出していた。
「…え」
挨拶も無しにその手を掴み、屋根のある裏口のところまで連れて行く。手がひどく冷たい。返事も聞かずに数メートル歩いてきてしまったことに後から気づいたが、そんなのどうでも良いほど大事なことだったから。連れてきたは良いものの、そこまで大きくない屋根の下で無言の中、雨の音が強く響く。ちょっと待っててくださいと言って急いでタオルを取りに行く。叔父さんへの説明は後ででいいや。
「これ、使ってください。」
「す、すみません。」
最初は遠慮するような素振りを見せていたけど、なんとか受け取ってくれた。なんて言おう。大丈夫ですか?なんで傘もささずに?違う、そこも重要だけどそれだけじゃなくて…もっと聞きたいことはあるのに、それに触れて良いものか躊躇してしまう。思考をフル回転させている中、沈黙を破ったのはあっちだった。
「タオル、すみません。洗って返すので。本当すみません。じゃあ。」
「え、待ってください。そんな姿で一人でそのまま帰せるわけないじゃないですか。」
「え?!」
今日はダメな日だ。でも、このままこの人を帰してしまったら、一生後戻りのできないダメな人間になってしまう気がした。帰ろうとしていた格好のそのまま、目を大きく見開いて固まっている川崎さんに告げる。
「川崎さんが辛そうに見えたのは自分の思い違いですか。」
「え、や、あの…」
「少しでも、何か助けになりたいと思っちゃダメですか。」
綺麗なその頬につーっと水滴が落ちるのが見えた。押し付けがましい優しさをぶつけるつもりも、涙の訳を訪ねるつもりも無い。ただ、ただこの目の前の人の涙が、それを覆い隠す雨が、後戻りできない決定打になってほしくないだけだ。川崎さんの手からタオルを取って、頬に優しく当てた。
半袖
「なぁ、今日から半袖なん?」
「うん!今日暑いし……え、なに?」
通学路の途中のいつもの自販機前で待っていた彼は、まじまじと自分の姿を見てどこか不満げな顔をしていた。
「露出多いやん。腕見えてるー。いやや。」
決して細くはない自分の二の腕をむにむにと触りながら、ため息を漏らす彼の言い分はめちゃくちゃだ。ああ、いつものだる絡みかと理解して、腕を触る彼氏をそのままに歩みを進める。
「いや、露出って…これ学校指定だし。てかどうせもうすぐ夏服の移行期間でしょ。」
自分の至極真っ当な意見を聞いても、このわがままな彼氏様は眉を顰めている。納得がいかないという感情が見え見えだ。それにしても学校が近づいてきて同じ制服を着た人が増えてきたのだからいい加減腕を揉むのをやめてくれないだろうか。
「そういう問題ちゃうねん。こんなさー、綺麗な腕出してたら狙われんで?悪い男寄ってくるで?」
「いやどこが?言いたかないけどそっちの方が白いし細いでしょ。こんな太くて黒い腕見たって誰も何も思わないから!」
綺麗という言葉に照れたわけではないがなんか恥ずかしくなって手を振り払う。こっちが本気で振り払えばすぐに離れてしまった。運動部で週6はグラウンドで焼かれている自分の腕よりも彼の腕は白くて細いから。そのことを自分自身気にしていないわけは無いのに「綺麗」なんて見え透いた嘘をつかないでほしい。
「いーや思う!実際に俺は思ってるもん!」
何を思っているのか聞こうとして、馬鹿らしくなってやめた。本当にこの男は物好きにもほどがある。もっとかわいくて、素直で、性格の良い、腕も白くて細い人なんてたくさんいるのになぜ自分を選ぶのか。当たり前のようにかわいいだとか好きだとか甘い言葉を投げかけて、自分を彼女と呼ばれるポジションに置くのか分からない。自分が彼なら自分を選ばない。だって、彼は自分と違ってモテるのだ。それはもう羨ましいくらいに。顔も良いし、清潔感もあって、性格も明るくて、こんなにも付き合う人に一途で、そりゃあモテるわって感じなんだけど。だとしたら尚更なんで自分と付き合ってんの?
「なぁー、カーディガン貸すから着てー。」
「嫌だわ。こんなあっついのに。」
なんて、本人には聞けないけど。もしそれを聞いて確かになんで?って思って別れるなんて言われたら笑えない。そもそも、なんで自分が良いのかなんて聞くなんて自意識過剰すぎないか?めんどくさいと思われたくない。だから、自分が傷つかないように、今日もそっけない対応をとる。この時間が続きますように、と誰よりも願いながら。
もしも過去へと行けるなら
仲の良かった同僚たちとの飲み会。安い大衆居酒屋で、一列になった細長いテーブルに10人くらいがぎゅうぎゅうと詰めて座っている。職場を離れた今でも集まりに呼んでもらえるのはありがたいし、例えお酒は得意でなくとも、飲み会というこの雰囲気は好きだ。一杯目だけみんなに合わせて、あとは合コンで女子が頼みそうなほとんどジュースみたいなものをちびちび飲む。もう十年以上の付き合いだし、ほどほどのお酒で顔を赤くしてしまう自分をよく理解されているからか食べる方に専念していても特に何も言われない。遠慮なく、大皿に積み上がったからあげの一番上の大きいやつをもらう。というか、みんな酔って楽しくなってくだらないことで大盛り上がりしてるから誰も自分のドリンクなんて特に気にしていない。今は仕事の話も終わり、誰かが買ったという宝くじが当たるかどうかという話になり、三億円当たったらどうかるかという話題もほどほどに他愛もないもしも話が続いている。
「じゃあさ、もしも過去に行けるならどうする?」
なんて目の前の座席に座る奴が呟いた時、自分の視線が無意識に一番遠くに座るあの人へと吸い込まれていった。会った時と変わらない綺麗な顔はこちらを見ていて、視線がぶつかるとふと微笑んだ。別に気まずいことなんてないのに、なぜかその人の方にあったからあげに手を伸ばして、「からあげが食べたかっただけで、あなたを見たんじゃありませんよ」感を出して、本当は食べるつもりも無かったそれを口に放り込んだ。うまいけど。自分がそんな変な挙動をしているうちに話は盛り上がりを見せていて、自分の右隣に座る奴はなんとか記念に全財産をかけて…みたいなあまり夢のない話をしていた。度数が弱くても、量が少なくても、日本人男性の平均身長よりもちょびっと、ほんのちょびっとだけ低い自分は酒のまわりも早く、体質的にも得意でないからみんなと同じ時間は楽しめない。いつもは早めにストップをかけて介抱にまわることが多かったのだが、久しぶりの飲み会にリミッターが馬鹿になっていたらしく、とてつもない眠気に襲われてしまった。あくびが止まらずに机に突っ伏そうとする自分を目の前に座る奴が茶化す。
「おい、そろそろ時間も遅いし帰ったら?誰かー、こいつ送れるやついない?」
ふわふわした意識の中、何かを言うのも億劫で話の流れに任せて目を閉じようとする。
「ん、じゃあ自分一緒に帰るわ」
少しハスキーなその声が響いて思わず顔を上げた。空にしたジョッキを置いた奥のあの人が飄々と手をあげているのが見える。まじか。眠気も酔いも一気に冷めたけど、何か言葉を紡ぐほどの思考力は戻ってきてなくて目の前の光景をぼーっと見ることしかできない。
「お前も結構飲んでたくね?いける?」
「うん。帰れなくなる前に一緒にタクシーで帰らせてもらおっかなって。」
「あ、そう?じゃあ頼むわ。任せた。」
待って待って任せないで。
「おっけ。はい、これ2人分。」
自分がもたもた財布を探している間に2人分の飲み代を幹事に渡して「タクシー着いたみたいだから行こ?」なんて笑う目の前の人についていくしか無かった。
「肩貸そうか?」
「あ、歩けるし…」
頭はちょっと働かないし、アルコールで気持ち悪いけど歩くことができないほどではない。それに、自分の何倍も細いその腕や肩につかまると折れてしまいそうだしとてもできない。微妙に距離をとって歩く中、居酒屋の喧騒に紛れる沈黙が流れる。
「…確かに肩貸せないか。自分の方が背高いしもたれづらいよねー。」
「はぁ?!違うし!…その靴高さあるからだろ。」
わざとらしく悪態をついてきたから、こちらも反射的に返す。当時と変わらない距離感で言葉を並べてきたことにちょっとだけホッとした。待ち構えていたタクシーに乗り込み、ふぅと息を吐く。あっちがタクシー降りるまで寝てやろうと思って目を瞑ったところで目的地を聞かれた。
「とりあえず〇〇駅の方まで行ってください。」
「えっ、なんで?」
澱みなく告げられた自分の最寄駅に疑問が止まらず、思わず体を起こして聞いた。
「送迎係任されたから先にそっちの方行くの当然でしょ。」
話を聞いていなかったのか?と言うように眉を顰めて言うからこっちがおかしいのかという気にさせられる。自分が聞きたいのはそんなことではない。
「じゃなくてなんで知ってんの…」
今日の幹事である目の前に座っていたあいつは自分の家を知らないはずだし、記憶の限りではそんな会話もしていなかったはずだ。じゃあなんで…
「めっちゃ飲んでたし、一人で帰れなそうだなと思ってたから聞いておいた。」
「誰に?」と聞けば、答えられたのは自分の右隣に座っていたギャンブラーの名前。たまたま引っ越した先が近かったから二人でご飯に行くことも多かったあいつ。明るくてユーモアのある良いやつだけど口が軽いのだけは難点だった。
「ま、詳しい場所は知らないし、近くなったら運転手さんに案内して。それまで寝ないように話付き合ってあげるから。」
「はぁ…?寝ようと思ってたのに…」
「自分にはなんも言わずに引っ越した仕返し。」
怒っているようには見えなかったが、いつもの冗談にしては芯の食った理由と真顔に何も言えなくなってしまった。暗い中、ぼんやりと浮かぶ目の前のこの人の顔はいつもに増して綺麗だった。作り物だと疑ってしまうほどに。
「…なんてね。いつも送ってもらってたから、今日くらいは送らせてよ。」
その細い体のどこに入るのだと問いたくなるほど、自分とは対照的によく飲むこいつを毎回家に送り届けるのは、確かに自分の役目だった。毎回酔って前後の記憶を無くし、体の力も入らないほど飲んでは自分の名前を呼ぶから仕方なく毎回肩を貸していた。「お前ら付き合ってるの?」の言葉は幾度となく聞かれた。その度に否定してきたけど、自分の送別会のその日まで、送り届ける役目は変わりたくなかった。
「きて…?寂しい。」
酔うと、ベットに勢いよく倒れ込んではいつも同じこの言葉を呟いてくる。目を潤ませて、精一杯手を伸ばしてくるこいつの姿を誰にも見せたくなかった。その手をゆっくり下させて「早く寝ろ」と布団をかけさせる役目を自分以外の誰かに明け渡したくなかった。付き合ってるだろとからかわれて、「さぁ、どうだろうね?」肩を組んでくるこいつの隣に違う人が立つのが嫌だった。
「ねぇ、早く。」
ああ、本当に嫌。こいつ嫌い。どうせこんな言葉を言ったのは忘れるくせに、決定権と責任だけこちらに渡すのはずるいだろ。こっちは、何度、何度我慢したと思ってるんだ。もし理性を捨てて目の前の綺麗な人に飛びついた夜があったとしても、もちろん二人とも大人だし、何も無かったなんていうふりをして友達を続けている人はこの世にごまんといるのだろう。だけど自分はできない。そんなことできるほど器用じゃないし、今まで通りなんてできるわけがない。それに、こいつは、同僚である前に友達で、友達である以上に、一緒にいると居心地が良かった。好きだったと言ってもいいかもしれない。でも俺は日和った。寂しいを真に受けて寄り添って一夜を超えた先、この綺麗な顔をした人は何と言葉を紡ぐのか?責め立てられたとしたらこっちも返す言葉はあるけど、本気で絶望していたらどうする?心を許して軽口を叩いて笑い合ってきた友人が、いつもは無視するようなそこらへんの言い寄ってくる奴らと同じ人間の欲を露わにしていたら?その綺麗な顔と見た目に寄ってくる人間が多いというなんとも羨ましい愚痴をこぼしていた相手もその寄ってきた人間の一人に成り下がってしまったら?働かない思考をぐるぐると動かしているうちに悩ませている本人と目が合った。暗いからか、真顔だからか、その感情は読み取れない。
「もしも、過去に戻ったら何する?」
「…は?」
「あの質問、答えてなかったでしょ?気になるじゃん。」
遠くにいたから聞いていないと思っていた。今日も元気で、隣にいた後輩と仲良さそうにお酒を飲んで、肩なんか抱いちゃって。ああ、今はあの子が自分のポジションですかなんて、拗ねて、いつもよりお酒を煽って。この職場を離れると決めたのも、壁を作ったのも、自分なのに。一番遠い場所に座ってるくせに、そっちなんて気にしていないですよなんてふりをしているくせに、過去を変えれると仮定したら真っ先に浮かんだ顔が目の前のこいつなんて、マジでだせぇ。
「で、どうなの?」
「……会社離れなかったら、今でも俺が、お前のこと送ってた?」
予想外の自分の言葉に目を丸くした後、優しく笑った。
「……うん、そうだろうね。てか、わざわざ戻らなくたって今でもそうじゃん。そっちがめっちゃ飲んだからこっちがセーブしたんじゃん?いつも通りにしてくれたらもっと飲めたのにさー。」
「え…?」
「本当ちゃんとペース考えて。次奢り確定ね?」
「…あ、飲み代、今日の、ごめん出すわ。」
「だから良いって。次奢りっつってんじゃん。」
「……ありがと。ここ、タクシー代は出すから。」
「それも良い。いらない。いつも出してもらってるし今日はこっちが送迎係だから。」
なんて会話をしているうちに駅に近づいていて、運転手さんに道を指示するように言われて会話は途切れた。うちのマンションの前に停まって、あっちに払ってもらう場面を見届ける。ドアが開くのはあっちだから支払いが終わるまではこちらも降りれない。カードの決済音が鳴ってからドアが開く。
「…ありがとう。」
「ん。全然。」
なんかどこかやり切れないような複雑な感情が溢れる。そんな微妙な表情をしている自分に笑いかけながら、先に降りたその人が手を差し伸べる。
「じゃ、行こ?寂しかったんでしょ?」
その綺麗な人の手を初めて取った日だった。
揺れる木陰
あつい。駅から地上に出てきて、自分を取り巻く空気が一気に変わってくらくらした。今日の最高気温は何度だっけ。照りつける日差しの中、わざわざ立ち止まって天気を調べる気はさらさら無い。適当に34℃かな、なんて無意味な予想をする。あとで調べよっと。気温と体感温度は違うみたいなことを前に誰かが言ってたような気がする。難しいことはよく分かんない。勉強は苦手だ。どの教科も別に得意じゃなかった。あ、体育は好き。けど、特に化学だとか数学だとかそういう理系と言われる分野の授業は特に瞼が重かった。テスト前になると勉強会だって家に集まる割に課題は進まずにくだらない話でずっとゲラゲラしてたっけ。そんな思い出を思い返しながら公園のコンクリートに腰掛ける。ちょうど木陰になっていてひやっとした感覚が気持ち良い。まだ集合時間より五分も早いけど俺の方が先に着くなんて珍しいなー、なんて考えながら携帯を見ていた。すると、不意に自分の前に大きな傘の影が止まり。明るい声がした。
「なぁ、おにーさんかっこいい。今からお祭り一緒に行こーや?」
その聞き慣れた声に顔を挙げると、さっきまで「すぐ行くわー」なんてLINEを交わしていた相手が、その整った顔をニヤニヤ歪めながら佇んでいた。
「…なに、そのノリ。」
暑さか何か知らないがぶっきらぼうにしか返せない自分。そんなこと気にしないように楽しそうに続けるその人に相変わらずだなって笑みが漏れた。
「ドキッてした?ナンパされたって思った?」
「思わねーよ!てか声で一発で分かったし!」
「えー、久しぶりやのにすぐ気づくとかめっちゃ愛深いやん。」
「ちげーから!」
「そんな怒らんといてやー。ほら、これあげるから。待たせてごめんな?」
そう言いながら渡してきたのはレモン味の炭酸水。高校の時いつも飲んでたやつ。思わぬプレゼントにちょっとだけ勢いを無くして、小さい声でありがとうと受け取るとまた笑われた。水滴がつたうそのボトルを受け取って喉を潤した後、「よし、行こ。」とコンクリートから離れて隣に立つ。すると目の前の人はまた笑った。
「あんま日傘で相合傘見たことないねんけど。」
「別に良いじゃん、暑いし。」
照れを隠すようにぶつぶつ言いながら早く行こうと急かす。神社の前の通りにはもう出店が出ているだろうし、駅の西口からすぐのこの公園から人通りの多いその通りに出るまでは五分もかからない。だから、少しだけ、甘えてみたのだ。
「今日は最高気温35℃らしいしな。」
思わぬタイミングで今日の最高気温を知ったけど、さっきの予想は忘れてしまったから意味がない。うん、分かんないけど正解ということにしておこう。そんなことよりも今は、からかいながらも一人分のスペースを空けてくれるこいつの顔を見つめるのに必死だから。高校一年の夏、この綺麗な顔をした関西人が転校してきた。最初は明るすぎて仲良くなれなそーなんて思ってたのに、いつの間にか隣にいることが多くなった。「さっきの化学も寝てたやろ」とくすくす笑いながらノートを見せてきたり、あれだけ勉強しない勉強会を2人で開催してたくせにちゃっかり高得点取ってきちゃうこいつに何度レモンの炭酸水を奢ってきたことか。当たり前に横にいて、その当たり前の延長線で付き合って、ずっとくだらない話をして笑う楽しい日が続くと思ってた。
「大学は地元帰ろうと思うねん」
いつも笑っているくせに泣き出しそうな顔をしていたから何も言えなかった。そもそも学力が違うから大学は別になるなんて分かってたはずなのに、まさか遠距離になるとは考えたこともなかった。あの言葉を聞いた夏の日からちょうど一年ぐらいだろうか。新しい環境にも慣れて、電話もLINEも毎日していて意外と楽しくやれてると思っていた。でもやっぱり会えたら、会えた分だけ感情が溢れる。人の少ない道を通って近くの神社を目指す。
「なぁ、自分から入ってきたのに照れるんやめて?顔真っ赤やで。こっちが恥ずかしいやん。」
「うるせー。暑いからだし!」
暑いからと身を寄せ合って入る日傘の中で、またくだらない話をして2人で笑い合った。
真昼の夢
普段乗らない地方の特急電車に、暖かい日の光を背に感じながら席に座っていた。平日の昼の電車は人もまばらで、ざっと十人くらいは座れそうな席に間隔を空けて二、三人座っている程度の混み具合。電車自体も中々止まらないから、人の乗り降りもアナウンスも少なくとても静か。次の駅に着くまであと何分か気になって落ち着かず、何度もロック画面を確認する。あと二十分と理解したところで、ふとロック画面の本人の存在が気になり、左肩に目を向ける。
朝に「絶対今日は寝ない!寝ないから!」と意気込んでいたその口は、今やすーすーと優しい息を立てるのみになっていた。どうりで、さっき変えたロック画面にも食いついてこない訳だ。自分が選ぶベストショットは大抵お気に召さないようで、もっと良いのあるでしょとぶーぶー言われるのが定番になっていた。
窓から見える風景に緑が増えてきた頃、不意にもぞもぞ頭が動いて、また寝息が聞こえ出した。「寝ない」という宣言通りに寝なかったことなんてないし、今日も確実に寝るだろうと思って自分の左隣に座らせたから良いのだけど。眠るといつも頭が右に傾くと気づいたのはいつだっただろうか。少なくとも、自分以外の肩で眠って欲しくないと言う嫉妬心が芽生え出した後ではあるが。最初の頃はこくりこくりと動き出す頭にどぎまぎして、誰にも触れられないようにと警戒してキョロキョロしていたのが懐かしい。今では当たり前に預けられる茶髪の重みが愛おしくて、肩を動かさないように寝顔を覗き込む。いつもはこっそり自撮りで寝顔をおさめるぐらいで大人しく専用枕に徹しているけど、今日はちょっとした悪戯心が顔を出した。むにっという擬音がぴったりな柔らかい頬を人差し指で突き刺す。こういう時に傷つけなくて済むからやはり爪は伸ばさなくて正解だと思った。抵抗してこないのを良いことに、好き放題頬を弄ぶ。こっちは、もうすぐ到着する知らない土地で、初対面の両親へ挨拶するからこんなにも緊張していると言うのに。いつになく焦っているこちらのことなんてつゆ知らず、幸せそうに微笑んでいるこの子はどんな夢を見ているのだろうか。