空に向かって
空。かわいいかわいい妹。顔が似ていると言われることが多いが、自分達では似ていないと思っている。そもそも空にとっては兄と顔が似ていると言われて良い気はしないだろう。空は昔から自分のあとをつけまわしてくるのがとてもかわいかった。自分がピアノを習えば空も習い始め、水泳も、習字も、ダンスも…真似しようとしてもやはり年齢のハンデがあるのか、空は苦手なことが多かった。それでも置いてかれないようにと人一倍練習する空がかわいくてまぶしくてたまらなかった。
そんなかわいい空が、ある日好きな男に振られたとすごく落ち込んでいた。どうやらクラスの男子にからかわれてひどい言葉をかけられたらしい。自分が中学に入って学校が離れてしまったせいで空を守れなかった。悔しい。許せない。空に向かってそんな言葉を投げかけた奴らが許せない。空はかわいくて優しくて明るくて綺麗で正しくて…そんな空を傷つけるなんてありえない。というかもう空を傷つけるような奴は近寄らせない。空にはおれさえいればいい。そう思っていた。
空は男性不信が強まり、ついに自分と話せなくなった。いつものような弾ける笑顔が見れなくなった。なぜだ。おれが空に何をしたっていうんだ。男というだけでシャットアウトされるならもうやりようがない。自分が姉なら今でも空の一番近くで慰めてやれるのだろうか。それなら、女に生まれれば良かった。自分は空と生きるために生まれたのだから。空を守るために生きているのだから。いつかそのことを空に伝えることができる日が来ることを願う。
はじめまして
「はじめまして」と言われればこちらも「はじめまして」と返す。日本人として当たり前のコミュニケーション。例えこっちが知っていても。
習ったことは無かったけど、小さい頃から踊ることが好きだった。パソコンを買い与えられた中学一年生からはYouTubeで色んな音楽に触れてより一層のめりこんだ。なんかの流れで町内の小さなイベントで踊らせてもらうことになって、当時好きでよく踊っていた曲をステージの上で披露した。二十人もいないくらいのパイプ椅子の埋まり具合だったがすごく緊張した。踊っている間の記憶はほとんど無くて、気がついたら曲が終わってお辞儀をして帰るところだった。裏に戻ると最前列で記録用にカメラを構えていたスタッフさんがさっきの自分のステージの動画を見せてくれた。そこには緊張で顔が終わっている自分とごちゃごちゃしているダンス。振りを覚えてなんとかやりきっているもののとても人に見せれるような完成度ではない。恥ずかしくてそそくさとその場を後にしようと市役所の方へ歩いていた時、一人の女の子が駆け寄ってきた。同い年、いや、小学生六年生くらいだろうか。
「あの、さっき踊ってた人ですよね?」
「え…あ、まぁ、一応…」
「ダンスすごく素敵でした。あの、サインもらえますか。」
「え…さ、サインですか…?」
こんな一般人にサインなんてあるものか。そう思ったけどダンスを褒められたのが嬉しくて渡された単語帳の後ろのページに適当に名前をそれっぽく書いた。
「えーと…これで、いいですかね?」
「はい!ありがとうございます…ファンになってもいいですか。」
「ファン…はぁ、そんな大層な人間じゃないんですけどいいですか。」
「大丈夫です。」
「あ、ありがとうございます…あ、じゃあ…さよなら。」
「はい。では、また。」
女の子は満足そうに去っていった。
それから五年後、紛れもなくその女の子が自分の前に現れた。まさか同じ高校、しかも部活動の後輩になるとは。
「はじめまして。」
「はじめまして。」
自分のファン第一号の彼女は当時と変わらぬ笑顔で自分にそう挨拶した。自分だけ覚えていることに少しだけ恥ずかしかったが、この子のおかげでダンスを嫌いにならずに済んだ。自分を嫌いにならずに済んだ。いつかこの子が思い出した時にはありがとうと伝えよう。
またね!
大好きな先輩で、初恋の人。後輩としてでもいいからずっと一緒にいたくて、想いを伝えるなんてことはとうの昔に諦めたはずなのに。お酒も入っていい感じに酔いが回ったころについに長年溜め込んでいたそれが口をついて出た。出会ってから十年。先輩は高校に入ってから知り合って五年ぐらいだと認識しているだろうけど、それよりも前からずっと恋焦がれていたのだ。先輩は私をそういう対象として見ていないことも知ってる。ただ、春から始まった新しい生活と、社会人として慣れないことばかりで疲弊していた心に、久々に聞いた先輩の声が優しくて、あたたかくて、ああ好きだと思ってしまえば止まらなくて。先輩はその綺麗な瞳を節目がちにしながら私の話を黙って聞き、答えが先輩に委ねられたらさっきまでの酔いが嘘のように冷静に丁寧に断られた。一つ一つにお礼を言われて、ありがたいと笑ってくれて、申し訳なさそうに謝られて、やがて気まずそうに俯いた。予想していた答えのはずなのに、もうなんか目の前が真っ暗で適当に理由をつけてその場を離れようとした。こんな終わり、嫌だなぁとは思うもののもう恥ずかしさで合わせる顔がない。一生の別れを込めたつもりの精一杯のばいばいを告げ、カバンとコートを準備して席を立とうとした時だった。
「またね。」
…え?言葉の意味が飲み込めなくてまるで時が止まったようにそれまでの忙しない手の動きを止めた。先輩は私の目をしっかり見ながら念を押すように言った。
「またね!」
「…"また"があるんですか?振った相手にまた顔を合わせることが?」
「うん。あってほしいと思ってる。そっちが嫌じゃなければだけど。」
「……自分勝手ですね。」
「自分勝手でごめん。でも分かってほしい。会えなくなるのは嫌だ。」
その目が、声が、先輩を形作るものが全て好きだ。それほど好きな人に「会えなくなるのは嫌だ」と言われ、振られたことも忘れて危うく照れてしまうところだった。本当にこの人はずるい。このまま終わらせてくれないところがずるくて、優しくて、好き。
春風とともに
春風に桜の花びらが運ばれて彼の髪に落ちた。少し傷んでいる派手な緑色の髪の上に薄いピンクの桜の花びらが乗っているのが春らしくてかわいい。
「…何?」
自分があまりにじっと見ているのを面白くなさそうに睨みつけてくる彼。コロコロ変わる派手な髪色、耳にはゴツゴツしたピアス、それに加えて目つきが鋭い彼は、あまりにも近寄りがたい見た目をしている。こうなる前のサラサラな黒髪の幼い姿を知っていなければ話さえまともにできなかったかもしれない。
「桜、ついてたのがかわいいなーって。」
優しく取ってあげると、面白くなさそうにぶすっとした顔をしながら「…ありがとう。」とお礼を言ってきた。かわいいとからかわれているのは不満だが、取ってくれたこと自体にはお礼を言ってしまう彼がかわいかった。彼の髪色が何度変わっても、ピアスの穴が増えても減っても、何度春が来ても、こんな風に桜を取ってあげるのは自分がいいなと思った。
涙
「別れろよ。」
「むり、付き合ってないもん。」
鬼のようなLINEが入ってたから何かと思って来てみれば、またあのクズの話題。既に酔いが回っている彼女は机に頭を突っ伏していた。付き合ってないから別れないなんてどんな頓知だ。
「問い詰めたの?前に女といたこと。」
「うん…はぐらかされたけど。」
また一口グラスを煽るからそろそろ水にしろと自分のお冷を押し付ける。グラスを替えたことに気づかないほど酩酊状態ではないようだが素直に水を飲むようになった。
「大体さ、嘘つくの下手なんだよねあいつ…すぐ目泳ぐし、へらへらしてさぁ……でもさ、そんなあいつのペースにのまれてへたくそな嘘信じようとする自分がバカすぎてむり…」
ついには泣き出してしまった。もうこうなったら自分の声は耳に入らないだろう。瞼が重くなってきている彼女に黙って目をやる。早く縁を切ればいいのにと思う。さっさと別れて早く次を探せ。ドラマなんかだと自分がもらってやるみたいな流れがあるがそれは残念ながらできない。彼女はあくまで友達。自分とは違うところで幸せになってほしい友達。だから、自分はマスカラの滲んで黒くなった涙をおしぼりで優しく拭いて、閉店までの数時間を寝かせてあげることくらいしかできない。彼女のこの涙の跡が綺麗に消えて、真っ暗な闇から早く抜け出せますようにと願った。