【これからも、ずっと】
「さて、どうしたもんか」
と、作家が独りごちた。家から徒歩一時間の街に、タブレットとワイヤレスキーボード、それを充電するポータブル充電器、サイフと携帯電話と電子タバコ……の代わりのベイプを持ち込んで、コーヒーとパスタとデザートのパンで二時間粘って、大体原稿は仕上がった。この後編集に出して、校正が入って、仕上がりを少し歪めて叩き直してまっすぐに見えるようにしたら終わりだ。出力の部分が終わってしまえばあとはどうにでもなる。たとえ不本意だったとしても。
主人公は潜入捜査官。ある組織に潜り込んで、海外を経由するマネーロンダリングや麻薬の密売の捜査をしていた。その途中、自分の目的である、弟を麻薬中毒に陥れた男を見つけた彼は、時間をかけて上手く理由を作り上げ、その男を私情で殺害している。それに与したのは、その組織の中堅の男だ。彼は自分が知らないうちに、マネーロンダリングの取引で現地に行った自分の部下が、口封じのための殺されたのを知ってしまった。組織のフロント企業側にいた彼が、なんとか取り入ってその命令を出した男を見つけ出した。二人の男の目的は、同じ男だったのだ。
復讐を遂げた後、組織の壊滅を望んだ二人はありとあらゆる手段を利用し、そしきの所在がわかるように警察を動かした。最終的に組織は壊滅に追い込まれ、その首魁であった男は怨嗟の言葉を吐きながら警察に捕らえられる。
しかし潜入捜査官は殺人の罪を自白し、法の裁きにおいて収監。協力者となった男も、潜入捜査官が手配してくれた便で海外に逃げようとしたところ、警察官に捕らえられる。というのがエンディングだ。
作家はそこを読み返して唸っていた。少し前に編集からアニメ化の打診があり、その回答期限はまだある。ただ、それに際して「ハッピーエンドになりませんかね」と軽々しく、しかし理解もできる提案が出されたのだ。作家は悩んだ。このドライでシビアな世界観こそが作家の売りだ。そこを曲げたくない意識と、アニメでの新規ファンの獲得に揺れる気持ちがないわけではない。
しかし、作中であっても罪は償わなければならないと思う。元々なんでアニメ化の話が上がってきたのかわからないくらいハードボイルドな方向性で振っているのだ。ドラマではないんだ、という驚きもあった。軽く聞いたところ、深夜枠らしいので大人向けということではあるのだろう。
ハッピーエンドを目指すべきか。否だ。潜入捜査官は法の裁きを待たず、自分の手で殺した。協力者もそのためのお膳立てを行い、死体を始末する役割を負った。殺人と死体遺棄。その罪だけは、必ず償う必要がある。裁判において情状酌量の余地はあるのだろうか、そのあたりになると、友人の作家に問い合わせなければならない。
ふと、作家はスマートフォンに入れていた自作の前巻のデータを開いた。そう言えば、彼らを慕って組織を裏切る行動をしているのに同調した若いのが二人いたっけ。片方はブラック企業での労働に疲れて半グレに足を突っ込んだ男、もう一人は学のなさから職に就けず、拾われた男。この二人はお互いの不足を補うようなペアとして書いていて、終盤、組織に警察を介入させる段階になる前に、協力者の男が手引きして逃していた。二人の所属の証拠は潜入捜査官が消している。
そうだ、これだ。一応の補填を用意して、そこを描いておこう。編集がなんと言うかは分からないが、そのシーンを挟んでおけば、少しは雰囲気が明るくなるだろうか。
「……珍しい、ですね」
と編集が電話口でそう言った。自宅の寝室で、久しぶりに好きな作家の新刊を眺めていた作家は「そうか」と答えた。
「ええ、後日談的に、逃亡した二人が地方で飲食店を始める。その二人がもうそろそろ店の十周年記念でもやろうか、と言っていると、彼らの妻と思われる女性が身内のパーティーでもやるの、といい出して、そこにどこかで見た男が入店してくる。うーん、あの、そうか、スピンオフで十年書ける設定積んできたかぁ」
ちょっと面白そうに笑って、それからうんうん唸る。
「すみません、編集会議にかけます」
「はいはい、任せます、蛇足なら切っちゃうんでね」
「いや……」
ぱらり、と電話の向こうで紙を捲る音が聞こえた。
「先生、これ続き書く気があってやってますか」
そこだけは冷えた声で、問いかけられる。作家は少し考えてから、ふふ、と小さく笑った。
「ま、新しいシリーズの構想も頭の中にあるし、気が向いた時にこれから、適当にスピンオフで」
「あ〜なるほど、ゆるーく続けてく感じで」
わかりました、では、と電話は切れた。
思えばこうして、終わった後の話については考えたことはなかったかもしれない。王子様がお姫様にキスをして目覚めさせる童話よろしく、末長く幸せに暮らせる人物は書いてこなかった。幸せでなくたっていいのだ。自分だって、作家としてはそれなりに成功していても、変わらず独り身でいる。いつかそういう、幸せを得る日が来るのかもしれないが、それまではきっと、こんな生活なんだろう。その中にほんの少しだけ、変化があってもいいのだ。
【沈む夕日】
「あっれ、酒井先輩、黄昏中っすか」
缶コーヒーを片手に屋上に出ると五年上の先輩が屋上の柵に腕を乗せ、どこか遠くを見ているところに出会した。思わず口から出たのは茶々を入れるような言葉だったが、当の酒井は気にした風もない。
「まあ、そんなとこ?」
赤い光が向こうから照らしてきて、酒井がこちらに向き直ると顔が見えなくなった。濃い影の中で、彼女の表情はわからない。
「そっちこそ、サボり?」
「息抜きっす、換気悪くて眠くなってきちゃって」
デスクに酸素の濃度計を置いてあるのは半分嫌味だ。オフィスは担当ごとに部屋が区切られているのだが、自分と同じチームの人間が歓喜で窓を開けるのを極端に嫌がる。冬は寒いとごねるし、夏は暑いと拒否をする。お前が四六時中眠そうなのは、酸素濃度が足りてないせいだよと、見せられるようにモニターの上に置いているのだ。そして実際濃度が低い時間が長いと、自分もいささか眠くなる。換気ができない以上、自分で酸素を取り込みに行くしかないのだ。
「アハハ、鉾田さんか。今度衛生員会に出しておこうか、換気奨励出せばやらないわけにいないだろうし」
「ぜひお願いしたいすね、マジで困ってるんで」
自分も、先輩に倣って柵の方に近づいた。腕を乗せて外を見る。オフィス街の外側の方にある背の高いビルなので、他の建物は大抵自分より下の方にあった。その向こう、さっき酒井が見ていた方を見ると、郊外へ続く道と、真っ暗な山、その間に火球のように燃える光が見える。
「日ィ伸びたっすね」
「ねー、そろぼち春ですよ春」
ああそうか、この人、この春新入社員の担当だったっけ。そんなことを思って隣を見ると、いつの間にか酒井もまた夕陽の方を見ていた。
「ちゃんとできるか不安になっちゃってね、営業頑張りたいと思ってたのに、教育係に回されるってことはさ〜、営業周りが減るんだよね」
笑ってはいるが、不満でもありそうだ。確かに自分が知っている限り、酒井は営業のエースと言える働きをしていた。女だてらに、なんて言い方をしている上の人もいるが、純粋にこの仕事があってて、楽しくて、やりがいも感じているんだろうなと思う。
いつか、この人が辞めてしまう日が来るのだろうか。なんだかそれがとても寂しいことに思える。
「……俺もサポートするんで」
元より技術部門における翻訳業務みたいなものをやっている。営業とはしっかり綿密にやっておきたい。となれば……新人教育を彼女に任せきりというのも、変な気がしたのだ。
「お、頼んだ!」
と彼女はニッと笑ったのだった。
ふと、その顔が陰る。表情が暗くなったのではなく、ただそこに当たっていた眩いくらいの光に影ができた。
「あ、ヤバ。結構サボっちゃった」
視線の先、山の向こうに見えていた光が、随分小さくなっていた。
「私戻るけど、まだいる?」
「もうちょっと酸素吸って戻ります」
「そ、じゃあまたね」
そう言って、酒井は屋上の出入り口になっている小さな建物の中に戻っていった。ドアを開くと、中は真っ暗に見える。酒井がスイッチを入れたのか、ドアの閉まり際、光が細く漏れた。
大きく深呼吸する。今日の業務はあとどれくらいやればいいんだっけ。もしできそうなら、酒井を飲みに誘ってみようか。サシで誘ったら、やっぱりそれはそういうことになっちゃうんだろうか。まだ温かい缶コーヒーを両手で遊びながら、そんなことを考えている自分に、ほんの少し頬が熱くなってしまうのだった。
【君の目を見つめると】
っしゃーやったやったマジでやったや〜っとデートでキスから次の段階に進める〜!
という内心のガッツポーズをキメかましながら俺は胸をときめかせていた。そりゃ下心がないとは言わねえよ、見たい! シたい! 抱きしめたい! そこに嘘はつけない! が、一方でそれよりもどちゃくそに高まってるところがある。というのも、ぶっちゃけ彼女は十人並、容姿そこそこ、痩せてるかっていうと標準くらい、乳も尻もそこそこ。お分かりいただけるだろうか、説明が難しいレベルの「普通」なのだ。いや、それでもデートと思うとめちゃくちゃオシャレしてきてくれる。可愛い。夏場です。ハーフパンツの足元が眩しい。俺のためかどうかは別としてだよ、脱毛サロン行ったんかなみたいなツルッツルの太腿、ちょっと黒ずんじゃった膝、むっちりした脹脛。彼女の「デートに来ました」の姿がそれだと思ったら愛しいじゃんよ。
なんかねえ、聞くだに可愛いんですよ。中学生くらいまでぽちゃぽちゃしてたんだ。写真見せてくれた、恥ずかしがりながら。でも俺はもうなんか「あ〜〜〜〜彼女の存在を一ミリグラムでも多く感じられた世界があったのか羨ましい〜〜〜〜」ですよ。こんなの初めて。処女か。そうかも。運命みたいなクッサい言葉を信じたことなんかない。でも今まさに「この子しかいないんじゃね?」と思ってる。俺の頭じゃ軽い言葉しか出てこないのが悔しい。勉強なんか大っ嫌いなのに、あの子のためなら難しい言葉もたくさん勉強してもいいと思う。いや理工学部だしね、電子系の話ならできんの。
なんかさー今まで付き合ってきた女の子が悪かったとかじゃないんだよね、綺麗に光る発光ダイオード、いくつもキラキラ眩しく光ったり、珍しい色の再現ができたり、スケルトンケースに収まったスマートな回路だったり。めちゃくちゃ見た目がいい。でもフタ開けてみたら燃費が悪かったり消耗早かったり、思ったより複雑だったり細かすぎて理解できなかったり、組み込みにくかったりしちゃうとさ、ちょっとこっちが及び腰になっちゃうよね。まるで金属みたいに、あっちの熱が上がれば上がるほど俺の抵抗が上がっちゃう! こんなのどうしてって思うじゃん、もっと乗っちゃえばいいのにそんな気にもならなくてさ。まあそれでね、飲み会であんま喋んなくて、スマホばっかりみてるちょっとあの……言い方あれなんだけど、無理したオシャレをしてきた子がいてさ、チョロそう、いやもしくはめちゃくちゃ身持ち固いかな、ワンナイトいけっかなくらいの気持ちで喋ったんだよね。すっごい、聞いてくれる。発光ダイオードが「そんなことよりさー」「え、わかんなーい」と言ってくる話をさ〜、「それってどういう意味?」「私知らないことなんだけど、こういうことかな?」って真面目な顔してうんうんって。ママかな? いや最初はマジでそう思った。けどね〜連絡先交換して、つまんないことだろうなと思いながらですよ、ゲームとかSNSの話を振るわけですよ、俺は。なんでも「やったことないけど、楽しそうだね」「そういう話があるんだね」ってまず肯定してくれるんだよね。既読無視とかスタンプ終了じゃないの。
てなるとさ、そっちの話も聞きたいじゃん。何してんのって。英文学部の子でさ〜、俺には全然わかんないけど古い英語の詩の専攻なんだって。でも英語の成績いいらしくて、就職もそっち系かな〜って。真面目だ、すごい真面目。家でもドラマとか英語で見られるくらい。トーイックとかやったのって言ったら合格取ってた。俺と全然世界が違う。でもゲーム好きなんだよね、俺と違うやつ。わかんねーって返事しようとして、あ、違うなって思った。だからちょっと調べて、俺やったことないゲームだね、どういうとこ楽しいの、って聞いた。そうしたらさー過去一長い返事きた。だからマジで好きなんだなーって。そういうの、俺に見せてくれるんだなーって! なんか嬉しくない?
そんで、お付き合いを申し込んでね、色々デートもした。俺女の子側から「こういうとこ行きたい」って言われたの初めて。彼女は美術館が好きで、俺は水族館が好き。水族館の館内のいろんな電気管理って考えてると面白いし、魚の種類を少し覚えたら、あーここは温水なんだ、とか、こっちは冷たいんだ、どういう処理なんだろーって思うようになった。その話をしても「見てるところ面白い」って笑ってくれるような女の子。
それを、運命と、思うじゃん。でも下心はあるじゃん! めちゃくちゃその気がなさそうなのを頑張って頑張って口説き落として、本日やっと、初めてのラブホ!
シャワーを浴びて出てきた彼女が、ホテルの備品のパジャマに身を包みながら、タオルで顔を隠している。
「え〜……どしたの、やっぱやんなっちゃた?」
それならそれで、だっこして寝よう。全然いい。俺もヤりたくない時ある。嘘ない。ごめん。
「……カラコンの替え、忘れてきちゃったの」
ちいちゃな声でそう呟いて、俯いてしまう。もしかしてコンプレックスってやつなんだろうか。そういえば付き合った子たちはみんなカラコンしてたわ。流行り?
「いーよ、メガネ持ってきてんじゃないの?」
「私、目ちっちゃいんだもん……」
気にしなくていいのに。いや、本当言うとちょっと気になる。風呂上がりの彼女の髪の毛ってすとんとしてる。いつもウェーブしてたからパーマあててるんだと思ってた。毎回巻いてるんだ、この子! 俺のためかどうかは別として、その努力が可愛すぎる。つけまつげ苦手って言ってた。マスカラでぱっちりしてた目も、今はノーメイクだ、ないってこと。せめてカラコンだけはって思ったのかも。えー何マジで可愛すぎか?
「……もしさーあ?」
俺はベッドから起き上がって彼女を抱きしめていた。
「俺と一緒に暮らすってなったら、絶対見るもんじゃん。いいじゃん、見せてよ」
暮らすって何うわーと呟いているが、俺も同じ思いです。暮らすってなんだ。いやでも、そうしたい。いいと思う。すぐじゃないかもしんないけど。
「そんなことで嫌いになんないよ」
ちょっと強引にほっぺを挟んで上向かせちゃお。思いの外抵抗はない。
本当に、ちょっといつもより目そのものが小さい気がする。カラコンのない瞳もちっちゃい。ちっちゃいったって1mmとかでしょ、誤差!
「なんかさ〜、こー、見てるとさ」
吸い込まれそうなくらい、深い黒の瞳。こっちを見てられなくてふいっとそれちゃうシャイな瞳。
「つやっつやで、舐めたくなっちゃうね」
「……もう」
またタオルで隠されちゃう前に、おでこに一つキスをした。
【星空の下で】
男は必死に駆けていた。いや、もう足音は聞こえない。自分の荒い吐息ばかりが聞こえる。
「あーくそ」
悪態が口をついた。
組織というにはあまりにも小さな、それでも悪い奴らの寄せ集めの一人。男はその一人だった。組織に十年所属して、他の奴らがなんだかんだと手柄を立てて肩書きがつくのを、まぁいいことじゃないの、と祝うばかりの十年だ。それでも自分が何の役にも立っていなかったとは思っていない。世話役の世話は自分がやってきたわけだし、倉庫番だって何度もしてきた。鉄砲玉にもなったし、アガリの回収に回ることもあった。
だから、まさか飲み屋でたまたまちょっと意気投合した相手が警察官だった、って、たったそれだけのことで情報を漏洩したと糾弾されるとは思わなかったのだ。散々喋って最後に「実は俺警官なんですよ、明日も早いんでそろそろ」と席を立って行ったのだと、それを話しただけだったのに。
「くそー……」
その悪態がか細くなっていく。なの悪いのは、どうやら自分がこれを機会に厄介払いされたということだった。今の組織はリーダーを筆頭に、ほぼ年功序列だ。つまり、リーダーが最年長で、その下にもう少し年下が、下っ端たちはもっと下、という構造になっている。自分だけが、イレギュラー。それで何かの役職を男に与えるという選択はなかったらしい。あれだけ色々やってきたのに、この始末か。
追っ手がもう来ていないのにも腹が立つ。逃げる間際、「どうせ何も知らせてない」と言われたのが悔しさを何倍にもしていく。つまり、信頼を得ていたと、それなりの仕事をさせてもらってると、そう思っていたのは自分だけだ。「それくらいしかできない、年功序列と言いたいのに邪魔で無能な年長者」、そう言われたに等しい。些かの被害妄想はあれど、そういうことだ。
足が止まる。散々使った見つかりにくい路地裏を抜けて、走って、知らない街も駆け抜けて、郊外に出ていた。まっすぐな道に沿って、ぽつぽつと民家があって、バカでかい駐車場のあるショッピングモールがあって、その向こうに、うっすらと街灯に照らされた畑や山が見えている。
「くそ〜……」
男は情けなくべそをかきながら、空き地に大の字になった。何にもならない十年だった。何にもならないまま十年過ごしただけだった。のしあがるような野望はなく、仲間と言ってくれた奴らの望む働きをし、組織に必要な若い奴らを育ててきたのに。
ひとしきり泣いて目をこする。満点の星が浮かんでいた。
「……なんか、バイトでもするか……」
幸いにして身分証は持っているし、少し手持ちもあった。今更まっとうな職に就けるかわからないが、やるだけやってみるしかない。ただ、今はもう少し、名前も知らない星を見上げていたかった。
「親分もバカだよね」
「うるさい」
「大好きならちゃんとなんか役職にしたやらよかったんよ」
「うるさい」
「巻き込んだ責任感で手放したいなんてさ、本人がこっちやりたがってんだから」
「黙らせるか」
「やれるもんならやってみなよ、金庫開かなくなるぞ」
♡700ありがとうございます。短期間で増えてびっくりしてます。
【1つだけ】
昔々。小六という男がいた。竹取をしては竹籠を売って、母と二人で慎ましく暮らしていた。
今日も小六は竹籠を山ほど積んで、山を越えて、隣の里まで売りに行った。竹籠は飛ぶように売れて、今日はたくさんの食べ物を買ってくることができた。
その、帰り道だった。
「おい」
と、山の中で声が響いた。小六はぐるりと周囲を見回す。山のちょうど村と村の間のところで、何かに声をかけられている。妖怪か何かだと思い、無視して早足に歩く。
「おい、小六」
びくり、と身を竦ませた。名を知られているのは危険だ。しかし足が怖くて動かなくなってしまった。
「小六、お前今日はたくさん売れたろう」
カラカラと笑う声に混じって聞こえてくる。
「そのしょってるもんから、一つよこせ」
小六はあたりを見回した。
「だ、誰じゃ!」
「お前の村の守り主だ、ほら、さっさと一つ置いていけ」
一つ、と言われて小六は荷籠を見た。ああ、せっかく買った魚の干物も干し柿も、鳥の肉も野菜も、どれも一つだって渡したくないのに。
しかし仕方なく小六は楽しみにしていた干し柿を取り出した。紐に通してあって、暗がりでは外せそうにない。仕方なく、六つ通してある干し柿を地面に置いた。
「ほら、干し柿一つじゃ」
「おう」
そうして小六がひとつ瞬きすると、それはなくなってしまっていた。
「ああ柿じゃ柿じゃ、小六、帰ってええぞ」
そう言われて、なんだかひどく悔しくなった小六は、ぎゅっと拳を握る。他のものも取られては敵わない、と走って山を下っていった。
母に山であったことを伝えると、ずいぶん困った顔をして、「そいじゃあ怖いねえ」と悩んでしまった。
「もう、向こうの里に行くのはやめたほうがいいんじゃないかえ」
「そんな、まだ売れそうじゃ、それにほら、柿はやられたが、こんなに色々買えたぞ」
小六としても諦めたくなかった。
そうして、小六が時々山を越えるたびにこんなことが起こっていた。守り主は姿を現さないが、小六が渋って何も出さずにいると、大きなものが林の中を動く音がしていた。結局そうして何か置かざるを得なくなってしまう。
「小六、柿は飽きた。他のものをよこせ」
「小六、この前は魚だったろう、魚じゃないものにせい」
と、こんな具合なので小六はせっかく母に買った肉や野菜を諦めることもしばしばだった。どうにも悔しくてやりきれないが、竹籠を売れるうちは今の里に売りに行きたい。そんなことでうんうん悩んでいた。
ある日、竹籠を売りに行く前のことだった。
小六は村の守り主、守神様のいる祠に向かった。そこで少し前に村に来た商人から買った、小さな金平糖を備えて、手を合わせてなむなむと祈る。
「守り主様、無礼は承知で、どうか、どうかお願いです。おっかあに買って帰っているもの、横取りしないでください。どうか」
そう祈って祠を後にする。
すると、村の外に向かう道で、知らない子供がにこにこしながら、小六に手を振っているのを見つけた。小六が手を振り返すと、子供は駆け寄ってきた。
「一つだけ、って言うんだよ」
と、子供は唐突にそう言った。
「いいね、小六、一つだけって言って、今日は小豆を買って帰るんだよ」
小六が瞬きした瞬間……子供はいなくなっていた。
ああ、もしかして、もしかして、と小六はもう一度そこから祠の方に手を合わせた。
その日も小六は山道を歩いていた。今日も竹籠は売れてくれた。とても質がいいのだと言って、随分大事に持っていってくれる人もいた。
そして、懐に小豆を入れてある。子供が言った通りにしてみようと思ったのだ。
「おい、小六」
と、いつもの声が聞こえてくる。
「一つよこせ、今日もよう売れたろう」
小六はごくっと息を呑むと、口を開いた。
「一つだけじゃぞ」
「おう、一つだ、一つよこせ」
懐からしずしずと取り出した袋を開き、小豆を一つ、しっかりと握る。それから、そおっと地面に置いた。冷や汗が背中と伝っていく。
ざっと風が鳴る。しばしの沈黙。
「あ、あ、小豆だと」
ぶるぶると樹木が震え出した。
「く、そ、くそ、小六のくせにー!」
そう叫んで何か大きな影が覆い被さってこようとして……気が付くとあの子供が目の前にいた。
「私は小豆一つを大切にしているのだよ」
「ひゃあ!」
と、悲鳴が上がって、どろろん、とそこに小さな狐が現れた。
「随分私の村の働き者を困らせていたようだね、どれ、お仕置きをしないと」
「ひぇえ、ごめんなさい、ごめんなさい、出来心だったんです、本当です!」
しかし子供はひれ伏す狐の尻尾をむんずと掴む。そして、くるり、と小六の方を振り返った。
「さあ、早くお帰りなさい」
小六は手を合わせてしっかりと頭を下げる。
「お助けくださって、ほんにありがとうございます」
小六が頭を上げた時には、もうそこには誰もいなかった。
それから小六は「一つよこせ」と言われることなく、母に良いものを持ち帰ることができるようになった。
そして祠には、幾度も金平糖を備えてきた。ある時、金平糖を備えようとすると、そこに小さな紙が落ちていた。
「一つだけ」
と、小さく書かれていたが……小六は、それなら、と金平糖を袋に入れて、それを一つだけ備えるようにしたのだった。