【沈む夕日】
「あっれ、酒井先輩、黄昏中っすか」
缶コーヒーを片手に屋上に出ると五年上の先輩が屋上の柵に腕を乗せ、どこか遠くを見ているところに出会した。思わず口から出たのは茶々を入れるような言葉だったが、当の酒井は気にした風もない。
「まあ、そんなとこ?」
赤い光が向こうから照らしてきて、酒井がこちらに向き直ると顔が見えなくなった。濃い影の中で、彼女の表情はわからない。
「そっちこそ、サボり?」
「息抜きっす、換気悪くて眠くなってきちゃって」
デスクに酸素の濃度計を置いてあるのは半分嫌味だ。オフィスは担当ごとに部屋が区切られているのだが、自分と同じチームの人間が歓喜で窓を開けるのを極端に嫌がる。冬は寒いとごねるし、夏は暑いと拒否をする。お前が四六時中眠そうなのは、酸素濃度が足りてないせいだよと、見せられるようにモニターの上に置いているのだ。そして実際濃度が低い時間が長いと、自分もいささか眠くなる。換気ができない以上、自分で酸素を取り込みに行くしかないのだ。
「アハハ、鉾田さんか。今度衛生員会に出しておこうか、換気奨励出せばやらないわけにいないだろうし」
「ぜひお願いしたいすね、マジで困ってるんで」
自分も、先輩に倣って柵の方に近づいた。腕を乗せて外を見る。オフィス街の外側の方にある背の高いビルなので、他の建物は大抵自分より下の方にあった。その向こう、さっき酒井が見ていた方を見ると、郊外へ続く道と、真っ暗な山、その間に火球のように燃える光が見える。
「日ィ伸びたっすね」
「ねー、そろぼち春ですよ春」
ああそうか、この人、この春新入社員の担当だったっけ。そんなことを思って隣を見ると、いつの間にか酒井もまた夕陽の方を見ていた。
「ちゃんとできるか不安になっちゃってね、営業頑張りたいと思ってたのに、教育係に回されるってことはさ〜、営業周りが減るんだよね」
笑ってはいるが、不満でもありそうだ。確かに自分が知っている限り、酒井は営業のエースと言える働きをしていた。女だてらに、なんて言い方をしている上の人もいるが、純粋にこの仕事があってて、楽しくて、やりがいも感じているんだろうなと思う。
いつか、この人が辞めてしまう日が来るのだろうか。なんだかそれがとても寂しいことに思える。
「……俺もサポートするんで」
元より技術部門における翻訳業務みたいなものをやっている。営業とはしっかり綿密にやっておきたい。となれば……新人教育を彼女に任せきりというのも、変な気がしたのだ。
「お、頼んだ!」
と彼女はニッと笑ったのだった。
ふと、その顔が陰る。表情が暗くなったのではなく、ただそこに当たっていた眩いくらいの光に影ができた。
「あ、ヤバ。結構サボっちゃった」
視線の先、山の向こうに見えていた光が、随分小さくなっていた。
「私戻るけど、まだいる?」
「もうちょっと酸素吸って戻ります」
「そ、じゃあまたね」
そう言って、酒井は屋上の出入り口になっている小さな建物の中に戻っていった。ドアを開くと、中は真っ暗に見える。酒井がスイッチを入れたのか、ドアの閉まり際、光が細く漏れた。
大きく深呼吸する。今日の業務はあとどれくらいやればいいんだっけ。もしできそうなら、酒井を飲みに誘ってみようか。サシで誘ったら、やっぱりそれはそういうことになっちゃうんだろうか。まだ温かい缶コーヒーを両手で遊びながら、そんなことを考えている自分に、ほんの少し頬が熱くなってしまうのだった。
4/8/2026, 3:13:33 AM