【エイプリルフール】
「ゆっきー知ってる? 明日はウソついていい日なんだって!」
四つ年下の渚がニコニコしながらデスクに手をついた。
「うん、そうだね、エイプリルフール」
「そうそれ〜!」
隣の家の幼馴染だが、今年悠希が高校入学で通学路が別れる。寂しいのか、春休みは悠希が家にいると思うとしょっちゅう遊びに来ていた。思えば幼稚園の頃にまだよちよちしていた渚と公園で遊んだのが初めてだったなぁ、と思い出していた。それがもう小学六年生だ。
「んふふ〜どんなウソついちゃおうかな」
ずいぶん楽しそうだなぁ、と眺めている。元々くだらない嘘をつくような子ではないし、案外何にもなく終わるんじゃないか……そう思いながら、次々と飛び出す渚のお喋りに耳を傾けているのだった。
「ゆっきーなんて嫌い」
「おっ、そう来たかぁ」
玄関先で開口一番これである。しかもだいぶベソをかいている。ちら、と隣の家の玄関を見ると、渚の母が手を合わせている。なんとなく予想ができた。
「ゆっきーなんて嫌い!」
渚はそう叫んで駆け出してしまった。
「渚!」
追いかけようにも靴がすぐ履けなかった。
「あ〜もう、ごめんね悠希さん、やっちゃった……」
と、隣の家から渚の母が出てきた。
「光里さん、なんかあったんですか」
渚のおばさん、という呼び方に彼女が難色を示したので、悠希はそう呼ばせてもらっている。その分、彼女も悠希を「悠希さん」と呼んでいた。
「うん、渚がね、なんだか朝から本当に嘘ばっかり言うのよ。朝ごはん食べちゃってって言えばもう食べたって言うし、明見ておいてって言ったら見てるって言って見てないし。それで、そんな嘘ばっかり言ってる子、みんな嫌いだよって言っちゃったのよね……」
「あ〜……」
渚の家には、今下の子が二人いる。明に至ってはまだ幼児だ。そんな中で、手間のかかる状況は光里にとってきつかったのだろう、と悠希にも想像がついた。自分にも年の離れた弟がいるが、その時の母は本当に大変だったのだ。父と自分も協力したものの、夜泣きが多い子供を子供がどうにかするのは限界があった。
長女で、今まさに下がよちよちしていて、そしてもう一つ、悠希には思い当たるところがあった。甘えられる存在である自分が、もうすぐそうでない相手になるのだ。構って欲しい、こちらを見て欲しい、それが嘘という形で噴出した。悠希が洗濯した靴を干しに出てきたところでばったり出くわして、感情の整理がつかないまま言葉を投げつけてしまったのだろう。そして収拾がつかなくなって逃走した。ある程度は悠希の妄想だが、それでも大きく外れているとも思えない。
「探してきます」
「ごめんね、お願い」
家の中にいる両親と弟に声をかけて、探しに出る。
渚の居場所はだいたいわかっていた。橋の下のコンクリートの窪みにダンボールで屋根を作った秘密基地か、公園の滑り台の裏か、小学校の裏庭か。近いところから順に見て回る。昼下がりの通りには春休みだからか人が多い。道行く子供の顔を見ながら歩いて、結局、一番遠い小学校の裏庭にいた。
ぐす、ぐす、と涙をこぼしている。何もうわっていない花壇のレンガに腰掛けて、顔をぐしゃぐしゃに手で拭っていた。
何も言わずに隣に座る。声をかけるのもおかしな気がした。渚もそうなのだろう、何も言わない。が、そっと座るときに追い立てを、ぎゅっと握ってきた。
しばらくそうしていてから、渚は蚊の鳴くような声で「ウソついたの、許してくれる……?」と言ってきた。
「許さない」
そう言ってぎゅっと手を握る。びく、と渚が怯えたように手を引き抜こうとしたが、許さなかった。
「渚、千歳屋さん行こう。今日休校日だから、先生に見つかるとめんどくさいよ」
手を引っ張って、裏門に向かう。渚は諦めたように引っ張られてきた。
千歳屋で、百円のお好み焼きを二つ買う。その間も手は絶対に離さなかった。渚は不安なのか時々おろおろと視線を彷徨わせているが、それでも悠希は手を離さない。
ぼーん、ぼーん、と千歳屋の古い振り子時計が鐘を鳴らした。
「渚」
呼ぶと、びくっと身を竦めた。
「エイプリルフールの嘘は午前中まで。ついた嘘は絶対にそうならないんだって」
「……え、と」
少し調べての受け売りだ。起源もわからないイベントだった。誰がどうして考えたんだろうか。
「でも、明の面倒見なかったのは良くないから、あとで光里さんに謝れる?」
「……うん」
ぐす、とまた鼻を啜る。
「じゃ、「許さない」って言ったの、ウソ」
「……!」
はぁ、と渚が息を呑んで目を輝かせた。
「い、いいの?」
「ちゃんと謝らなかったら本当にしちゃおうかな」
「謝る! ちゃんと謝る!」
うん、と頷いて悠希は手を離した。
「お好み焼き食べたら帰ろ、みんな心配してるよ」
「うん、帰る! 謝る!」
紙皿のお好み焼きを口に運んで笑っている。もう先ほどまでのことなど忘れてしまったように。
「……」
それを眺めてから、悠希も自分のお好み焼きに手をつけた。
あとで、「ゆっきーなんて嫌い」も嘘だったのかと、それだけは問い詰めなければいけないと思いながら。
【幸せに】*グロテスクな表現があります
川に流されながら、せめて何か掴めないかと腕をめちゃくちゃに振り回す。腹が重くて仕方がない。何も石ころを詰めなくなっていいだろう。縫い付けられた傷が今更痛んできた。ああくそう、と一瞬思い浮かぶが、それよりも死ぬ、という恐怖が優った。やがて川の流れが早くなった。大きな岩に頭をぶつけて意識が朦朧とする。ああもう散々だ、ここ俺は終わりだ。
それにしたって、そんなに酷いことをしたろうか。俺は狼なのだし、山羊を食うのは当たり前だ。子山羊だけになっているなんて、好都合じゃないか。子山羊が柵を開けるように努力もした。運と実力で勝ち取った成果なのに、どうして俺はこんな目に?
気が付いたら腹が裂けていた。中身はすっかり空っぽで、足元の方で声がしてる。
「あれは皮にして売ってしまおう」
そんな酷いことってあるかよ。俺は狼であっちは子供と老人だ。腹が減ってれば、食うのは当たり前だ。何がそんなに気に入らなかったろう。俺たちの中でも年老いたら置き去りにされるし、弱い子供は死んでいく。その手番がこいつらだっただけなのに。
ああそうか。俺もそうだった。死にそうなほど飢えていた時に、幸運にも獲物を見つけた。あいつらも幸運だったのか。二人分の幸運でかかってくるなんて、随分な話だ。
酷い火傷で持ち上がらない瞼を必死に持ち上げて、まだ死んじゃいないと主張する。口も喉もすっかり爛れて、ただの一言も声が出ない。
子豚が森にいたら、そんなの格好の獲物だろう。柵にも囲まれていない、牧羊犬もいない、親豚もいない、人間も見ていない。ご馳走だ。奴らが作れるものなんてたかが知れているのだ。ああそうだ、たかが知れているはずだった。
まさか火を起こすなんて思っていなかった。熱湯の鍋があるなんて思いもしなかった。くそう。
これを読んでる、そう、そこのあんた、あんただよ。
まぁ俺たちもわかってるんだよ。教訓ってやつだろ? 人間の悪いのを俺たちに置き換えたんだな。ああ分かるさ、今だからな。最近じゃこっちが幸せになる話もやってくれてるらしいじゃないか。嬉しいことだ。
よかったら増やしてくれよ。俺たち狼が「そして末長く幸せに暮らしましたとさ」と締めてもらえる物語をさ。勝手に罪にされた当たり前の行為をさ、人間の方が勝手にやったことなんだって思うなら、どうか人間の方で幸せにしてくれ。
【何気ないふり】
ちょっと席を立つ時にちらっとカップを見る。どうせ席を立つのだから、それくらい。用を足してから丁寧に手を洗い、お湯を沸かしにキッチンへ。ちょっといいコーヒーを淹れよう。挽いた豆を保存する容器を静かに開けて、フィルターにあけて。ポットは耐熱プラスチックで、少し曇ってきてしまっているけれど、自宅で使うなら問題ない。
ちら、と彼女の方を見る。真剣に文字を追っている。多分、決して美人というわけではないのだけれど、斜に構えないところが可愛いと思っている。なんでも面白かったものを共有してくれるし、悲しいことも辛いことも話してくれる。隠し事はあるだろうけれど、それはそれ。休日に家にいる時に、お互いリビングで本を睨んでいることができるなんて、最高だと思う。でもほんの少し……ちょっとだけ、気を引きたいとも思うのだ。そのためのコーヒー。少しお話ししませんか、と問いかけるように。
コーヒーがいい香りを漂わせる。近所のベーカリーで買ってきた、食パンの耳のラスクに、別皿で買い置きのホイップクリームを添えて持って行った。
「どうぞ」
かたん、とコーヒーカップを置いて、空になったマグを回収する。
「あ」
と彼女は顔を上げた。
「もうこんな時間?」
「そ、おやつにしませんか」
本をぱたん、と閉じる。プレゼントしたステンドグラス風の栞を使ってくれているのが嬉しい。空のマグをシンクに片して戻ると、彼女はまだコーヒーにもラスクにも手をつけていなかった。
「先に食べてていいのに」
「待ってたかったの」
うふふ、と笑いながらラスクにクリームをとって口に運ぶ。このパン屋のラスクは砂糖が控えめで、ほとんどカリカリに焼いた食パンの耳、といった感じだ。だがそれも、他に売っているチョコがけのものと併用する目的だと知っている。売り場にも「チョコレートがけのものと一緒に作っているため、お砂糖、甘さは控えめです」と正直に書いてあるのが良かった。
バターと生クリームのなめらかな甘味を楽しみながら、ブラックのコーヒーを飲む。
「ねえ、どこまで読んだ?」
「ああ、そっか、君これ読み終わってるのか」
傍に置いてあった文庫本を見る。
「そうだな……「どうしてそんなことをおっしゃるんです、私がまだ信じているのに」、かな」
「早い、三度目の挫折の章だね。本当に諦めちゃうのかハラハラした」
「君本当記憶力いいよなぁ」
ちら、と相手の方の本も見る。
「そっちは?」
ネタバレは気にしていない。基本的に、自分は自分が読むのと他の人の主観が入るものとでは違った受け取り方があると考えている。なので、彼女が「話していい?」という時は大抵オーケーしていた。時々は「すぐ読むから待って!」ということもあったが。
「ちょっと難しくなってきた、多分いわゆる中世ヨーロッパ風ファンタジーなんだけれど、硬貨の種類がたくさんあるの。行商取引で換金するだけで利益が出る仕組みの理解が追いついてないところ」
「あーそれ興味ある、後で一緒に考えたいかも」
コーヒーを啜る。砂糖もミルクもないそれは、苦味でちょっと眠たくなってきた思考をキリリと冴えさせる。
不意に、雷が鳴った。今日は一日そこそこ強く雨が降り続けていて、洗濯物を諦めて部屋干ししている。二人で窓の方を見てしまう。
「……夕飯、外食しない?」
「いいね、今日は一日家だったし」
「それもそうだし、読書の波が来てるから料理とか洗い物とかサボりたくて」
へへ、と、はにかんでいる。色々あって、早朝数時間の仕事をしている彼女と、いわゆる九時六時のサラリーマン勤務の自分とで、家事の分担は彼女の方がやや多めだ。掃除、ゴミ出しは率先して自分がやる中で、料理と洗濯は彼女のことが多い。正直にいうと、料理が一番手間だと思っているので、それを引き受けてくれることには頭が上がらないのだ。だから、休日には窓拭きや風呂掃除、シンクみがき、その他色々日頃から周期を決めて掃除をし、常に家の中をきれいに保っている。
彼女が、ゴミを捨てやすいようにしっかり分別してくれていることも、風呂の汚れが溜まりすぎないように時々カビとりのスプレーをしてくれているのも知っている。
「どこに行こうか、この前は中華だったけど」
「言っておいて迷ってるんだよね、ラーメンもいいし、ファミレスでもいい、イタリアンも捨てがたし」
「捨てがたしって」
笑いながら何が食べたいかを話し合える。また雷が鳴っているが、夕飯の頃には落ち着くだろうか。スマートフォンで定休日やメニューを確認しながら、顔を寄せ合った。
【ハッピーエンド】
「今度はハッピーエンドにしませんか」
と、編集が言い出した。カフェのざわめきに消えそうなそれを聞き取った作家は、眉を寄せる。
「ここから入れる保険があるとでも……?」
と怪訝そうな態度を隠さない。
今書いているのは、潜入調査官と犯罪組織の構成員のバディものだ。どちらにも事情があって、作中ですでに数人人を殺してしまっている。潜入調査官はそれでも成し遂げたい調査があり、構成員の方はそれを利用してでも組織を壊滅させて縁を切りたかった。そういう話の筋だが、初期プロットの時点で、潜入捜査官は警察官としての資格を剥奪の上、殺人の罪に問われることになっている。その判決までは考えていない。構成員も海外に逃げるが、空港で警察官の足音を聞く、という終わり方がいいな、というメモがあった。
作家は既に出版された前作のページをペラペラとめくる。
「あの〜ほら、参加組織のボスを「この先の展開を有利にするため」って利己的な目的で殺してますよ」
「そこをあえて、実は麻薬カルテルとのつながりがあった、とか後出しすればいいんですよ」
むぅ、と作家は唸る。
「なんでまた急にそんな話を。プロット見せた時点で、この終わり方を目指そうって話をしたじゃないですか」
メモの上にペン先をコツコツと当てる。編集はいやぁ〜と困ったように頭をかきながら、カバンの中からコピー用紙を数枚綴じたものを取り出した。クリアファイルに入ったそれの表紙に、「社外秘」と書いてある。作家が眼鏡を押し上げて眉を寄せ、じっとその文字を目で追うと、そこには「アニメ化企画 仮企画書」とあった。
「……ワオ、えっマジで?」
「そう、まぁハッピーエンドは単純にファン獲得というか、連載終了後のスピンオフやりやすいかと思ってのことなんですけどね」
ぱらっと表紙を捲ると、作家が見たことのあるアニメーションスタジオの名前と、配役のところに打診中の声優陣、空白の主題歌の項目があった。一番下のところに、「なお作家による許諾がとれるまで、プロジェクトは発足しないものとする」とあった。
「それでこう〜ね、ちょっとでも長く稼げるコンテンツにしないかなぁ〜って」
「あ〜ね……言いたいことは分かりました」
作家の売りはシビアな世界観だ。恐ろしく融通が効かず、奇跡も起こらないで脱落するキャラも当然いる。書評では「媚びないところがいい」「甘くない」「このヒリつきを楽しみたい」といったものが多い。一方で、「救いがなさすぎる」「悪くなったら最後まで悪いまま」「カタルシスに乏しい」といった評もあるのだ。
作家は腕を組んで悩み始める。自分にとってのハッピーエンドは、どうすることなのだろうか。じっと仮企画書の表紙を睨みつけながら、眉を顰めているのだった。
【ないものねだり】*BL *グロテスクな表現があります
生活というのは単調で、どうにも堪え難いものだ。起床、食事、ニュースのチェック、出勤、業務、昼食、業務、退勤、ニュースのチェック、就寝。一般的に言えば「良い生活」なのだろう。金に困ることもない、誰かに特段の迷惑もかけていない。胸が悪くなるほど普通だ。
裏で、人も殺していた。もう何がきっかけだった顔も覚えていない。ただ普通の生活が出来なかった。高校生の頃には、そういう仕事をしていたと思う。元締めにいつ誰を殺せと言われて、それを遂行する。死体の処理は、やってもらえることもあれば、任されることもあった。それももう慣れきってしまって、「普通」の一環だった。
仕事を始めた当初は良かった。知らないことも多かったし、ミスをどう挽回するかも考えるのは楽しかった。そういうことはあっという間になくなってしまって、ただ生きるための呼吸と同じように仕事をしている。そうなるまでそうかからなかった。
そんな中で、「刺激」があれば良いのではないかと思った。休日に各地の遊園地に赴き、絶叫アトラクションを乗り回す。バンジージャンプや登山などの、免許のいらないアクティビティもやりつくした。激辛や激臭などの食に関するものも少し試したが、そっちは面白くない気持ちが優ったのですぐにやめた。映画、ドラマ、アニメ、音楽、とにかくなんでも「刺激的だ」と評価されるものに触れてみたのだが、全くと言っていいほど心は凪いでいた。
そんな折に、本当に偶然、全くの偶然に、自分が殺すために捕らえた男が「喰われた」。得体の知れない化け物が、大きな口で男の頭を噛み砕き、首をもいで、咀嚼の後に飲み込んだのだ。首から引き摺り出される食道、肺、胃。肉だけでなく内臓も、骨も残さず飲み込んだ。足元に残った血溜まりだけが、さっきまでそこにターゲットがいたことを匂わせている。
「……あ、ど、なに、今の」
化け物が喋った途端に、しゅるしゅると顎が縮んで、手足も小さくなって、引き伸ばされてでろんでろんになった服を着た若い男に変わった。
見たことも、聞いたこともないことだった。それがどれほど紫堂の心を震わせたか。紫堂は若い男を捕らえて何者なのか問い詰めたが、彼自身もわかっていなかった。伊黒と名乗った彼を拘束したまま、あれこれ調べてみると、人の中に紛れて生きる、人を食う生き物がいる、という都市伝説が目についた。まさに、伊黒のことだ。伊黒は混乱した様子だったが、紫堂が都市伝説のことを話して聞かせると、「じゃあ、ボクはまた誰かのこと食べちゃうの……」としょげかえった。
しかし実際は相当本能のようなものに振り回されるらしい。拘束している時に依頼で殺した人間の死体を前に出してみると、伊黒は嫌だ嫌だと言いながら、口から涎をこぼしていた。拘束を外すと、異形の獣に変わって、またそれを貪り食った。その姿が、紫堂の心を鷲掴みにしていた。
ああ、これが、きっとこれが。この生き物を手なづけるなり、伊黒が望むように人として生きられるようにするなり、とにかくわからないこと、知らないこと、未知への挑戦だらけだ。
ようやく見つけた「何か」を目に、紫堂は交渉を持ちかけていた。
「おいし〜!」
にこにこと頬を押さえながら、ケーキにフォークを差し入れる伊黒の姿を見る。自分の前にはコーヒーだけだ。特に甘いものに興味はない。この前の死体の処理の褒美として、少し値の張るタルトを買ってきてやった。それだけでしょげていようが怒っていようが、ある程度機嫌がなおるのだから安いものだ。
「シドちゃん、あーん」
「……」
紫堂は差し出された一口分を眺める。クッキー生地の上にカスタードクリームとゼリー状のコートがされた苺、またクッキーのボロボロしたやつが乗ったタルト。上に緑の葉っぱも乗っている。これの何がいいのかわからない。卵と牛乳と小麦粉とバターと苺と、いくつかの製菓素材の組み合わせで作られた焼き菓子。いつまでも目の前から退かないそれをしばらく見つめてから、紫堂は口を開いた。差し込まれた焼き菓子を咀嚼する。思いの外、苺の果汁が甘酸っぱい。牛乳と卵黄を混ぜ合わせたクリームと合わさると、爽やかな甘みになった。バターの香りが鼻を抜けて、冷蔵されたタルトのはずなのに妙に温かい感じがする。
どうにも、この伊黒といると、いつもと世界が違ってくるらしい。それが紫堂が彼を手放せない理由になっていた。