“もしも過去へと行けるなら”
「もしも過去へと行けるなら?」
唐突な問いかけを復唱すれば、ブンブンと首を縦に振る。向かいに座る青年の顔色はやや悪く見えた。
「なんで急にそんなこと……」
なんだか面白くなくて、思わず眉間に皺が寄った。それに気づいたのかますます顔が曇る。
「とっ、友達と! その話になって……」
どう思うかなって。気になったんだ。
しりすぼみに小さくなっていく声に苛立ちを覚えると同時、これでも進歩した方だ、と感動にも似た感情が芽生えた。
出会ったばかりの頃はこんなに上手に意思疎通できなかった。オレたちは今よりもっとずっとチグハグで、周囲に心配ばかりされていた。
それが今やこうやって、部屋を半分こして、たわいない会話ができるようになったのだから。思えば成長したものだ。オレも、お前も。
「別に、戻りたくねえな」
「え?」
返答に意外そうな顔をした彼は、きっと戻りたい分岐点があるのだろう。それがやっぱり、少しだけ面白くなくて、だけどオレは――オレたちはあの頃よりも大人になったのだから。できるだけ穏やかに聞こえるように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「今っていうのは、過去と地続きだろ。オレは今に満足してるんだ。だから、別に戻りたくないね」
後悔がないわけではない。むしろ、後悔だらけだ。でも、その後悔がなかったら、きっと今、お前と語り合っているこの時間は存在しない。それは後悔している過去よりも、嫌だと思う。だから『もしも』なんてオレはいらない。本人には、言わないけれど。
「……楽しかった時間に戻れても?」
「思い出だからいいんだろ。あんなこともあった、こんなこともあったって、『今』振り返るのが楽しいんだよ」
あの頃にしか味わえない楽しさは確かに存在しただろう。今ではもうできないこと、今となっては同じ熱量で楽しめないこと。そんなものは世界にありふれていて、言い出したらキリがない。
青春の終わりを経て、人は大人になっていく。
「楽しかった思い出があるから頑張れるんだ。戻っちまったら何にもなんねえだろ。もう一回やってみて、思っていたより楽しくなかったってなっても最悪だしよ」
過去は今を生きるために必要な、自分が歩んできた道のりであって、それ以上でも以下でもない。戻りたいなら戻ればいい。『今の自分で』だから、形は違ったものになるだろうけど。それが人生ってものだろう。
「まー、結局、オレは今に満足してるから、そんな風に思えるんだな。きっと」
そんで? と、呆気にとられたような顔で話を聞いていた男に問いかける。お前はいつに戻りたいんだ、と。
君と出会ったことを無しにしたいとか言われたら流石に泣いても許されるだろうか、などと考えながら。
「……すごいや」
「は?」
思っていたものと異なる反応に首を傾げる。会話になっていない。視線が合って、その瞳がチカチカと光を孕んでいることに気付く。懐かしい、あの頃と同じ温度をしていた。
「オレ、オレも、ね。今がすごく楽しくて、大事だって思うんだ」
だから――もし、戻れたとしても、ビデオみたいに見るだけでいいんだ。楽しかった思い出を、このとき実はこうだったんだよって、『一緒に』見たいと思ったんだ。
誰と、なんて無粋なことは聞かなかった。だって、その爛々と輝く瞳は真っ直ぐこちらを見て逸らさなかったから。それだけで、十分すぎるほど、伝わったのだ。
「……後悔は?」
「もっと、いいんだ。だって」
一緒に乗り越えてくれたから。
ニカッと笑う。昔から、変わらない笑顔。
「オレ、知らないだけで実はそろそろ寿命だったりする?」
「え、なんで、そうなのか……!?」
「いや……だって、なんか、急に、お前が……」
「泣っ!? ど、どっか痛い!? 救急車!?」
あまりの慌てぶりに笑ってしまう。大丈夫だと窘めても、心配そうにこちらを見つめるから、白状した。これは嬉し涙だから。気にすんな、と。
「ど? どういう……?」
「いーからいーから! なあ、昔よく行ったファミレス、この辺にもあるよな?」
「え? あ、一応チェーン店だから、探せばある、と思うよ。あんまり近所にはないかもだけど……」
「電車圏内ならジューブン。地元のはさあ、遠くて今からは行けねえけど、今度帰ったら行こうな」
「う、うん!」
なんか、ゴキゲン、だね? と問いかける彼の口角もオレにつられたのか上がっている。
「おかげさまで、な! さー、飯だ飯。行くぞー」
「おー!」
積み上げてきた過去があるから今がある。楽しい時間も苦しい時間も、通り抜けてしまえば次の瞬間にはもう過去だ。
変わるものもあれば変わらないものもあって。自分にとって本当に譲れないことさえ手放さなければ、過去は過去だって割り切れる。
だから、どうか。愛おしいこの今が、地続きの未来でありますように――。
“星を追いかけて”
柔らかそうな色素の薄い髪に、陽の光が反射する。チカチカと眩い。寝起きの身体には少し厳しい。輝度の問題だけでなく、会話のテンポ的にも。
「だ、だからねっ」
「おー」
「楽しいねって。嬉しくて。一緒に行きたいって、思ったんだ」
「……どういう意味?」
普段から考えなしに会話をできるような相手では到底ないのに、回らない頭では噛み合わなさに拍車がかかる。今は確か、彼が友人と遊びに行った話をしていたはずだ。それが、楽しくて、嬉しかった。だから、一緒に行きたいと思った──。
相変わらず、文の構成要素がどこかしら抜けているやつだ。
心の底から首を傾げれば、アワアワと、元々少ししか持ち合わせていない落ち着きを無くす。恐らく、脳内ではもう少し上手く話せているのだろう。彼が苦手なのは国語ではなく、言葉の出力なのだ。
いつもならもう少し冷静に問いかけられるのに、どうにもこの時間は調子が出ない。今朝はここで会話終了かな、と遠くを見つめれば、遮るように視線を合わせられて瞬きした。
「よ、かったら。一緒行こ!」
えいや、と声が聞こえる勢いだった。珍しいほどに意気込んで、手なんか掴んじゃったりして。掴まれているのは自分の手なのに、どこか他人事に感じる。冷たい手。緊張、してるんだな。
「あ? え……」
予想外の展開に言葉を失って処理落ちすること数分。あまりにも長すぎる沈黙に恐れをなしたのか、涙目でピューンと逃げていく。コラ、待て。せっかく、格好良かったのに。
『一緒に行きたい』『一緒行こ!』キラキラしているその瞳は、まごうことなくこちらを射抜いていた。ただの友人相手にしては、ずいぶんと、熱量の高い。
「……待てってば!」
手のかかる星を追いかけて。一目散に駆け出した。
“真昼の夢”
「いちばん、スキだよ」
何を考えているんだかイマイチわからない──ポーカーフェイスだからではない、むしろ彼の喜怒哀楽は激しすぎるくらいで、中でも“哀”が強すぎるのだ――少年に、満面の笑みでそんなことを言われて、自らの頬をつねった。
オドオドしていることが多い彼は、言葉が雑な自分に対しては怯えている印象が強い。もちろん、そればかりではないけれど。でも、彼にはオレよりも話しやすそうな友人がいて、オレのことは――バッテリーだから、好意を抱いているように思っていた。期間限定の特別枠、みたいなものだ。気は弱いものの良い奴だから、本人はそんな嫌な捉え方はしていないだろうが。
“彼にとっての自分”の認識はそんなものだったので、冒頭のセリフはあまりに想定外だった。きっと、いつの間にか寝てしまって、夢でも見ているのだろう、 と確認してしまう程度には。
――だってもう、部活は引退したのだから、魔法は解けた、はずなのに。
つねった頬は普通に痛くて、顔をしかめる。おかしいな、と思う。それ以上に不思議そうな顔をした目の前の少年に名前を呼ばれる。続けておっかなびっくりといった様子でかけられた心配の言葉に本人だと確信する。
どうやら、真昼の夢、ではないらしい。
“夏”
「あっちぃ……」
あまりの暑さに耐えかねて低く呻けば、パピコの片割れをかじっている隣人がびくりと肩を震わせる。気が弱いやつは声が大きいだけでビビるのだ、という友人の忠告が過ぎる。が、茹だった頭では上手いフォローも思いつかず、無心でパピコにかじりついた。部活終わりの帰り道。
「うまい、コレ」
「お前ほんと、食べるの好きな。確かにうめーけど」
キョドっていたかと思えば、次の瞬間には、冷たい甘味に顔を綻ばせているのだからよくわからない。オドオドしている割に、マイペースなやつだと思う。
「嫌い?」
「なわけねーよ。夏に食べるのは別格だよな」
「わかる? オレも、スキだ」
ふふ、と笑う横顔を見て、どうやら今日は上機嫌だ、と気づく。機嫌が悪いところ、は見たことがないけれど。気分が下がっているとき、はわかるようになってきた。そういう日は会話が弾まない。つまり今日はその反対で――上手に話せていると思う。オレたちが。
「はんぶんこ、だから」
「うん?」
「これ。もっと、美味しくなった」
言葉足らずにもほどがあるだろう、と突っ込むのにはもう飽きた。彼の意図に思考を巡らせて――ワンテンポ遅れて、頬が熱くなる。
「……お前、サラッとそういうこと言うよなあ」
「?」
小っ恥ずかしいことを言ったくせに何も知らん顔で首を傾げている。あるいは、恥ずかしいと思う自分の方が恥ずかしいのか。
「オレも、うまいよ」
はんぶんこ、だもんな!
強調して言ってやっても、嬉しそうに頬を緩めるだけ。勝手に負けた気持ちになって、残りのコーヒー味をガツガツと吸い尽くした。甘さの中の程よい苦味は今のオレの心境に似て。
「いい、食べっぷり」
にこにことマイペースにアイスを口にする、隣のコイツに、きっと、一生かないっこない。
“冒険”
「人生で一度は言ってみたいセリフがあるんだけど、言ってもいい?」
隣に座る幼馴染が勉強に飽きたのか意味不明なことを言い始める。
「勝手にすれば」
またくだらねえことを言ってらぁと問題集に視線を落としたままテキトーな対応をするも、めげる気配がないのはすごいところ。
「冒険に出よう!」
「はあ?」
それより何より、こちらが思わず顔を上げてしまうほど、突拍子のないことを臆面もなく言い始めるその精神性が本当にすごいと思う。いや、冗談ではなく。無駄にキラキラしているその瞳から、本気であることが伝わってより思考停止する。幼稚園からかれこれ両手じゃ足りないほどの付き合いだが、いつまで経ってもコイツのことはよくわからない。相手もそう思っているらしいが。
「なに? 旅行にでも行きたくなったのか?」
「ちがう、冒険」
「その一点張りでいけるとでも? わかんねえよ」
なんでわかんないかなあと肩に顔をグリグリ押し付けてくるのはやめろ。絵面を客観視してから行動に移してほしい。
「ちっちぇ頃さあ、どこ行っても楽しかったじゃん」
「そうだっけ。覚えてねえな」
「まーたそうやって話の腰を折る~。楽しかったんだよ、どこ行っても初めてがいっぱいで、目新しくてさあ」
「……ふうん」
それで? と先を促せば、愉快そうに目を細める。ノせられたと気づいたときにはもう遅い。
「場所は関係ないんだよ。“初めて”ってところに価値があるんだ。冒険ってのは未開の地を切り拓くことを言うんだからさ」
「つまり?」
突然立ち上がったそソイツにぐいっと両手を引かれて「うおっ」と声が出る。よろめきながら俺も立ち上がる。危ねえだろうが、と文句をつけそびれた。
「アイスでも買いに行こうぜ! 普段は通らない道を使ってさ」
やっぱり飽きたんじゃねえか。なんて、言うのは野暮か。結局のところ、“冒険”という非日常的な響きに俺も心掴まれているのであった。
──ったく、しょうがねえなあと付き合ってしまう程度には。