“眩しくて”
「なあ、聞いてっか?」
「……は!」
声をかけられて我に返る。は、じゃねーよ、と呆れ顔で息を吐かれた。今のはどう考えても自分が悪いとわかっているから、何も言えずにまごつく。その様子を見た彼は、ますます不服そうに口を尖らせた。
「何考えてんの、オマエ」
言葉は強いが別に怒っているわけではないのだと。最近ようやくわかってきた。今の場合、ただ純粋にオレが何を考えていたのか知りたいだけなのだ、彼は。
そう、わかっていても怯んでしまうのは、元来の気の小ささと──あとはほんの少しの気まずさだ。とはいえ口を噤んでいても彼は納得してくれないだろう。それどころか、次こそ本気で怒らせてしまう。
「ま……眩しくて」
「はあ?」
意味がわからないと顔をしかめるのも道理だ。だって、今日は曇っていて太陽など欠片も出ていないので。よくわかんねえやつ、と流してくれればいいのに、律儀に意味を問うてくる。真っ直ぐに視線を向けられては、誤魔化す気すら起きなかった。
「笑ったでしょ」
「誰が? ……オレが?」
聞き返してから少し考える素振りを挟んで、彼は正解を口にする。こくん、と頷けば、それで? と言葉が返る。それでも何もなかった。それだけがすべて。
「あんな風に笑うの、珍しかったから」
見慣れなくて、眩しかったんだ。
観念して正直に告げれば、じわじわとその頬が赤くなっていくので首を傾げる。どうしたの。尋ねても答えはない。
──ただ、直視できないとでもいうように目を逸らされた。
“タイミング”
人生全てがタイミングだ。タイミングが良かったことをロマンチックに言うと運命になる。たまたまそのときその場所で出会えたことで、人生が好転すれば運命なのだ。なんて都合の良いことか。だからそう。
「お前のそれは、勘違いしてるだけだ」
出た声は、出そうとしていたそれよりも硬質だった。思わず舌打ちしそうになる。自分自身に腹が立って仕方がない。もっと冷静に、穏やかに──“説得力があるように”、言葉にしたかったのに。
相手の反応を想像する。泣くだろうか、感情的に喚くだろうか。もう嫌いだと睨んでくれれば好都合。胸に巣食ったこの感情を殺すのにちょうどいいタイミングだ。それなのに。
予想外に冷えた瞳で見つめられて唇を噛んだ。ざらりとした声で名前を呼ばれる。聞きたくなかった。何も与えられたくないのに、耳を塞ぐことも、目を逸らすこともできずに追い詰められる。いつの間にか、崖っぷち。
「べつに、いいよ」
勘違いでも。
視線は真っ直ぐで、呼吸が苦しい。
「だって、こんなに好きなんだもん」
わざとらしいくらいに冷ややかな、瞳の奥に。熱っぽく浮かぶその感情はなんだろう。ああ──嫌だ。取り返しがつかなくなってから失うよりも、最初から手に入らない方がずっとずっと楽だと、わかっているのに。
「ね、君もそうでしょう?」
──なんて、タイミングの悪い。
“虹のはじまりを探して”
「うあ」
「あ?」
あまりの暑さにお互い無言で足を動かし続けていた帰路に。隣から謎の声が聞こえて顔を上げる。なに? と問いかけるよりも早く、その指が示す方向に目を向けて同じような声を上げてしまった。
「虹、だ。すごい、キレイ」
「雨降ってねえよな。なんで虹?」
「途中で、力尽きたから?」
「は?」
「雨粒が、ね。地面に届く前に……ええと」
もだもだとなにか言葉を探す。アツくて、水じゃなくなるヤツ、なんだっけ。と問われて考える。考えて。
「蒸発?」
中一レベルの単語を出せばそれだ、とすごい勢いで頷かれる。彼の科学の成績が心配になるが、彼の場合教科を問わず、勉強全般心配であることを思い出して、ため息を堪えた。まあ、今はそんなことはどうでもいいのだ。
「雨粒が地面に届く前に蒸発するから、雨が降ってないのに虹が出るってこと?」
「そう! オレたちのわかるところでは降ってない、けど。空の上のほうでは降ってたから、虹、出る」
「へえ?」
わかるような、わからないような。蒸発は出てこないくせに妙なことを知っているんだなと感心する。そんなこちらの眼差しに気づいたのか、少し得意げに、彼は続けた。
「虹のはじまりのところがさ。地面にくっついてないでしょ。あそこで、力尽きたんだよ」
「雨粒が?」
「そう」
言われてみれば、なるほど、確かに。普通の虹と比べて、随分と高いところで途切れている。
「やるな、お前」
「お母さんに教わった」
「お前のそういう素直なところ、キライじゃないぜ」
「スキってこと!?」
なんだか楽しそうに目を輝かせているから、引っ張られてこっちまで楽しくなって、口が軽くなる。
「虹のはじまりっていえばな」
「うん?」
「オレ、探しに行ったことあるんだよ」
「え!」
「ちっちぇ頃。はじまりまで行くぞって、一人で頑張って走ったんだけどさ」
──辿り着く前に消えちまった。
今思えばとんだ笑い話である。それなのに、当時の自分はなんだかとても悔しくて悲しくて、泣いていたのだから、それも含めて笑い話だ。そう思って話した、のだけれど。
「え?」
不意に右手を掴まれて目を見開く。笑うどころか大真面目な顔をした彼は、行こう、と言うが早いか駆け出して。
「は!? お前、行くってどこに!?」
「リベンジ、だよ! 虹のはじまり!」
「物理的に無理だろ!?」
「わかんないだろ! 成長したし、二人だし!」
はぁ!? と叫ぶ。走りながら声を出すのには慣れている。運動部の、別に悲しくもないサガだ。
「どうしたんだよ、急に」
「負けっぱなし、なんて。らしくない、よっ!」
「ええ?」
なぜか変なスイッチが入ってしまったらしい彼は、持ち前の俊足で走り続ける。もちろんそれに手を引かれているオレも一緒に。
本当に届いてしまいそうな勢いだ、とおかしくなって、頬が緩んだ。すごいやつ。
もはや、辿り着けなかったとしても構わなかった。ちょっぴり切ない笑い話が、コイツとの楽しい思い出に書き換えられるなら。それはなんだかすごく、嬉しいことだと思うのだ。
“オアシス”
「あ、あの子ね。オアシスだよねー」
オレが今まで築いてきた人間関係の中で、いちばん関係値が濃いといえるであろう人物が、そう評されていた。何を言っているのかわからないという気持ちが思い切り顔に出たらしく笑われる。納得がいかなかった。オアシスっていうのは、体力とか精神力とかそういうあれこれを、回復させてくれるものだろう。アイツはその正反対だ。だって、オレは、アイツといる時がいちばん忙しい。嬉しいのも、悲しいのも、楽しいのも、怖いのも、痛いのも――ぜんぶ、いちばんなのだから。回復どころか疲れて仕方がない。
「……なあに?」
ジッとその顔を眺めていたら、困ったように微笑まれた。顔になにかついてる? と強めに頬を擦るので慌てて否定した。なんでもない、なんにもない。すうとその目が細められてドキリとする。
「うそ、だ」
「嘘じゃない! なんもついてねえって」
「そうじゃなくて」
「わっ」
子供の戯れのように、あるいは大人の嗜みのように、床へと押し倒される。視線があって、なんだか相手がとても怒っていることに気がついた。
「なにか、隠してる」
でしょう?
声は否定を許さずに。心拍数は上がる一方で、いつまでたっても落ち着かない。
ほら、やっぱり。
オアシスなんかじゃ全然ない。
“涙の跡”
「えっ」
戸惑って、その目元に思わず手を伸ばした。すうすうと穏やかな寝息に反して、そこには穏やかでない水分の跡がついていた。優しくなぞれば、うぅんと眉間に皺が寄る。かわいいな。かわいいけれど。
「どうしたの」
問うても答えがあるはずもなく。今はただ、安心しきった様子で寝ているから、少しだけホッとした。きっと、嫌な夢でも見たのだろう。強いくせに変なところで脆いこのひとは、こうやって、見えないところで弱っているからタチが悪い。自分を甘やかすことをよしとしないその頑固さが好ましくもあって、だけど、時々無性に悔しくなる。他の誰に頼れなくても、オレにだけは頼って欲しいのに。
「かなし、かったんだね」
きみが何に心を痛めて、何を思って泣いたのかなんて。わからない。わからないし、きっと知られたくもないんだろう。
それでも、かなしいって気持ちの半分だけでも、抱いた痛みの欠片だけでも、請け負わせて欲しいと思う。だって――オレはずっと、きみに救われてきたのだから。