“君が見た景色”
なんの変哲もない、ありふれた道だった。バス停があって、横断歩道があって、少し足を伸ばすとちょっとしたレストランが軒を連ねている。人々はひとりだったり、家族と一緒だったり、友達と肩を並べていたり、それぞれの形で存在している。空は高く青く澄み渡っていて、その色につられてなんだか空気が美味しいような感じがして。ごくごく、その辺に転がっていそうなこの風景は──君が見た景色なのだ、と思うと。ひどく特別なものに思えて、掻き乱された。
毎朝この景色を見て、君は育ってきたのだ。なら、今見えているこれらは、もはや君の一部と言っても過言ではないはずだった。
はあ、と大きく息を吐く。ため息ではなかった。身のうちに溜めておけない衝動を散らすための行為。
――心臓を、吐き出してしまいたい。
景色を眺める。君の気配を探して。
手を伸ばす。
こんなにも色濃く感じられるのに、どうして。
君が、いない。
ただいま、夏。
“8月、君に会いたい”
話す気も失せるほどの日差し。気温が高すぎるせいか、もはや蝉の鳴く声も聞こえず、耳の詰まるような静寂だけがそこに存在した。見えない何かに包まれて、削られて、そのうち命すら落としてしまいそうな暑さ。
――それでも。
「あっちいなあ」
軽い調子で沈黙を破って、マイペースに額の汗を拭う。君がいるから、夏は嫌いじゃなかった。半袖のワイシャツをパタパタと動かして、ちらりとこちらを見つめる。
「大丈夫か?」
ぶっきらぼうな、その優しさが好きだった。憎たらしいくらいの太陽も、君が背負っていれば絵になると感動するほどだった。
「ほら」
買ったばかりの、よく冷えたスポーツ飲料を投げて寄越す。邪気のない笑顔は、日光なんかより、ずっと。
――8月、君に会いたい。
“眩しくて”
「なあ、聞いてっか?」
「……は!」
声をかけられて我に返る。は、じゃねーよ、と呆れ顔で息を吐かれた。今のはどう考えても自分が悪いとわかっているから、何も言えずにまごつく。その様子を見た彼は、ますます不服そうに口を尖らせた。
「何考えてんの、オマエ」
言葉は強いが別に怒っているわけではないのだと。最近ようやくわかってきた。今の場合、ただ純粋にオレが何を考えていたのか知りたいだけなのだ、彼は。
そう、わかっていても怯んでしまうのは、元来の気の小ささと──あとはほんの少しの気まずさだ。とはいえ口を噤んでいても彼は納得してくれないだろう。それどころか、次こそ本気で怒らせてしまう。
「ま……眩しくて」
「はあ?」
意味がわからないと顔をしかめるのも道理だ。だって、今日は曇っていて太陽など欠片も出ていないので。よくわかんねえやつ、と流してくれればいいのに、律儀に意味を問うてくる。真っ直ぐに視線を向けられては、誤魔化す気すら起きなかった。
「笑ったでしょ」
「誰が? ……オレが?」
聞き返してから少し考える素振りを挟んで、彼は正解を口にする。こくん、と頷けば、それで? と言葉が返る。それでも何もなかった。それだけがすべて。
「あんな風に笑うの、珍しかったから」
見慣れなくて、眩しかったんだ。
観念して正直に告げれば、じわじわとその頬が赤くなっていくので首を傾げる。どうしたの。尋ねても答えはない。
──ただ、直視できないとでもいうように目を逸らされた。
“タイミング”
人生全てがタイミングだ。タイミングが良かったことをロマンチックに言うと運命になる。たまたまそのときその場所で出会えたことで、人生が好転すれば運命なのだ。なんて都合の良いことか。だからそう。
「お前のそれは、勘違いしてるだけだ」
出た声は、出そうとしていたそれよりも硬質だった。思わず舌打ちしそうになる。自分自身に腹が立って仕方がない。もっと冷静に、穏やかに──“説得力があるように”、言葉にしたかったのに。
相手の反応を想像する。泣くだろうか、感情的に喚くだろうか。もう嫌いだと睨んでくれれば好都合。胸に巣食ったこの感情を殺すのにちょうどいいタイミングだ。それなのに。
予想外に冷えた瞳で見つめられて唇を噛んだ。ざらりとした声で名前を呼ばれる。聞きたくなかった。何も与えられたくないのに、耳を塞ぐことも、目を逸らすこともできずに追い詰められる。いつの間にか、崖っぷち。
「べつに、いいよ」
勘違いでも。
視線は真っ直ぐで、呼吸が苦しい。
「だって、こんなに好きなんだもん」
わざとらしいくらいに冷ややかな、瞳の奥に。熱っぽく浮かぶその感情はなんだろう。ああ──嫌だ。取り返しがつかなくなってから失うよりも、最初から手に入らない方がずっとずっと楽だと、わかっているのに。
「ね、君もそうでしょう?」
──なんて、タイミングの悪い。