“靴紐”
「靴紐、ほどけてるけど」
「知ってる」
「知ってんのになんで結び直さないかなあ」
口調は不満げだけれども、本気でないのはわかっていた。だからこちらも喉奥で笑って、めんどくせーんだもん、と、どうしようもない返事をかえす。
「めんどくせーけど、しょうがねえから結ぶか」
「最初っからそうしとけばいいものを」
人通りの少ない路地ではあるが、一応端に寄ってしゃがみ込む。軽口を叩くのが趣味な友人は、思いのほか律儀に足を止めて、俺が結び終わるのを待っていた。
「……なんか、そう見つめられると緊張するな」
「気持ち悪い言い方すんなよ。できるまでちゃんと見ててやるから」
「どの口が言ってんだ?」
わざとらしく甘ったるいトーンで告げられた後半部分に本気で疑問符を投げつければ、この口、とやっぱり軽口が返ってくる。宣言通り、じいと見つめられて居心地が悪い。
「お前、不器用だよな」
「うっせ」
モタモタしていると容赦のない言葉で切りつけられる。貶した割に、愉快そうに口元を歪めた彼は、「またほどけるよ」と縁起でもないことを言った。
「そりゃ……いつかはほどけるだろ」
「そういうことじゃなくて。多分30分もしないうちにほどける」
「なんでだよ?」
「結び方が素直すぎるし、緩いから」
そんなことを言われても、これが俺の技術力の精一杯なのだから他に打つ手がない。
「ほどけたらまた結ぶから、別にいいよ」
投げやりになったのが半分、心からの本音が半分。そんな言葉に、何故か虚をつかれたように瞬いて。
「ははっ」
笑い出すのだからわからない。突然の友人の奇行に引けている腰を、引き寄せられる。急になんだよ、怖ぇよ。目でそう訴えれば伝わったのか、更に笑われた。それからおもむろに俺の足元にしゃがみ込む。
「……っくく、間抜け面。結んでやるよ、面白いから」
「はあ?」
元々変なやつだとは思っていたが、今日は輪にかけて挙動がおかしい。どうでもいいけど。
「はい、できた。これでしばらくほどけないよ」
「……別にほどけてもいいよ」
「なんだよ、人がせっかく結んでやったのに」
不満そうに口をとがらせるので、お礼を言えば満更でも無い顔をする。そういうところはわかりやすくていい。
「ほどけたらまた、お前が結んでくれるだろ?」
「……しょうがねえなあ」
ほら、やっぱり、わかりやすいのだ。
“答えは、まだ”
たとえば、偶然に触れ合った手が、妙に高い熱を持つだとか。
たとえば、他意のない笑顔を向けられて、おかしな動悸がするだとか。
たとえば、ただ一緒にいるだけなのに、なぜか呼吸がしづらいだとか。
最近、特定の人物といる時に限って体調が悪かった。そうは言っても、ソレが病院にかかる必要がある類のものではないことは薄々気がついていた。だからこそ、厄介なのだということも。
正しく言うのであれば体調不良ではない。調子が悪いのは身体ではなく、精神の方だった。どこかでボタンをかけちがって、致命的に後戻りができなくなっている。つける薬も飲む薬もありはしない。どんな名医だって、きっと治せやしないソレ。世間では、綺麗な名前でパッケージングされがちだけれど、自分はそうは思わない。
ズキズキと頭が痛む。
一緒にいないときまで具合が悪いなんて重症だ、と、苦く笑う。
考えたくなかった、なにも。
だって、知っているのだ。答えを出して、告げたところで、正解になる見込みなんて欠片もない。絶望的に間違っている。ただ、相手を困らせるだけ。それならば、思考停止した方が幾分もマシだった。同じ誤答でも白紙の方が、マイナスにならないだけずっといい。
どうにも持て余しているこの感情の。答えは、まだ。
“フィルター”
「フィルターかかりすぎ」
呆れ声で投げられた言葉に首を傾げる。なんの話をしていたんだっけ。そんな話はしていなかった、はずだけど。
「不思議そうな顔すんなよ。こっちが恥ずい」
ぶつくさと文句を言っている、その顔はほのかに赤みを帯びている。呆れているだけではなくて、照れているのか、と気づいて瞬いた。照れている。オレの言葉に?
「だって本当のことだろ」
オレはただ、キミはすごいねって。思ったことを言っただけだった。ぶっきらぼうに見えて気配り上手で、粗雑に見えて色々考えている。オレに人の温もりを分け与えてくれたひと。自分という人間でも、肯定されて良いのだと。根気強く、一生懸命、教えてくれた。世界を色鮮やかにしてくれたひと。
告げればまた、意味がわからないという顔で首を振る。その瞳をじっと見つめれば、落ち着きをなくして逸らされる。
「……お前さあ」
「うん?」
「なんでそんなに、オレが好きなの?」
心底理解不能だと声は言う。軽々とオレをすくいあげた癖に、平気な顔でオレの大事なキミを貶す。それがとても気に食わなくて──だけど、そんなところを愛しく思う。
「理由なんて、もうないよ」
「はあ?」
しかめっ面には微笑みを。眉間のシワをゆるりとなぞる。嫌がるようにのけぞった顔の、頬はやっぱり少しだけ赤く。他人のことはすくえるのに、自分のことはすくえないひと。だから、今度はオレの番。
「理由があるから好きってさ、理由がなくなったら嫌いだろ。好きだから好きなんだよ」
「なんだそれ」
キミがね。キミであるだけで。
「フィルターなんて、かかってるに決まってる」
オレの人生をこれだけ幸せにしておいて。贔屓目なしで見れるわけがないだろ。
“君が見た景色”
なんの変哲もない、ありふれた道だった。バス停があって、横断歩道があって、少し足を伸ばすとちょっとしたレストランが軒を連ねている。人々はひとりだったり、家族と一緒だったり、友達と肩を並べていたり、それぞれの形で存在している。空は高く青く澄み渡っていて、その色につられてなんだか空気が美味しいような感じがして。ごくごく、その辺に転がっていそうなこの風景は──君が見た景色なのだ、と思うと。ひどく特別なものに思えて、掻き乱された。
毎朝この景色を見て、君は育ってきたのだ。なら、今見えているこれらは、もはや君の一部と言っても過言ではないはずだった。
はあ、と大きく息を吐く。ため息ではなかった。身のうちに溜めておけない衝動を散らすための行為。
――心臓を、吐き出してしまいたい。
景色を眺める。君の気配を探して。
手を伸ばす。
こんなにも色濃く感じられるのに、どうして。
君が、いない。
ただいま、夏。