きっと明日も
*
声が聞こえる
*ブロマンスです。
地面を掴むスパイクの音と自分の荒い息遣いが、うるさいほどに脳内を締める。
赤茶色のトラックを走る白いラインは、終わりなくどこまでも続いていく。
カーブを曲がって、限界まで力を出し切る。前へ、苦しくてもただ、君の元へ。
「ナギ!」
手を挙げて、俺の名前を呼ぶ。
聞こえるのは君の声だけ。
「ハイッ」
スタートを切った律の背中を追いかけて、その手にバトンをぐっと押し込む。
数え切れないくらい練習したから、阿吽の呼吸でスムーズにバトンは渡る。
速度を緩めてトラックから外れた瞬間、体に力が入らなくなって行く。
こんなにも騒がしかったのかと思うほど、競技場内は喧騒に包まれていた。
律がひとり、追い抜いて行く。湧き上がる歓声。
「行け! リツ!」
届かなくても、声を振り絞った。
秋恋
*ブロマンスです
「位置について! よーい!」
大きなピストルの音に、心臓が早鐘を打ち始める。それどころか、アナウンスされて指定の場所に来た時点から、ずっと自分だとは思えないくらいにそわそわとして、落ち着かなくて、緊張している。
「え、ナギまさか緊張してんの?」
隣から顔を覗き込むリツ。
「ああ」
思わず素直に頷いた。緊張どころか、ビビっている。おもいっきり。
「うそ、ナギに緊張してるとか言われたら、なんか俺も緊張してきたし! どうしよっ」
そう言って胸を両手で押さえるリツ。その肩からはアンカーの印のタスキが掛かっている。
真っ青に澄み渡った清々しい空の下での、体育祭。
俺は去年みたいに、適当に綱引きと玉入れなんかに出てクラスのみんなを応援して楽しく過ごす予定だった。
それがどうしたのか、突然陸上部のリツがクラス対抗リレーでどうしても陸上部のチームメイトがいる二組に勝たねばならないと、俺を無理やりリレーに選出した。
俺が陸上部だったのは中学の時で、引退してから運動は体育でしかしていない。丸一年以上走ったことがない。それがリレーで百メートルを走るなんて、もう完走できる自信すらないくらいだった。
それを、リツに言っても聞き入れなさそうだから、必死にクラスメイトの前で訴えた。だけど、元々面倒な競技に出たいものなんてほとんどいない。
「ナギは四百メートルの選手でめっちゃ速かったんだよ」
なんて言葉をまるっと鵜呑みにして、体は覚えてるよきっと、なんて適当なことをそれぞれに言って結局、俺は選手に選ばれることになってしまった。
ピストルの音も、トラックを必死で走ったのも。もうずっと前なのに。
結構本気で嫌だなと思って、ため息を吐いた時、リツに肩をグッと掴まれた。
「俺、またナギとリレーしたかったんだ。ありがと」
振り返ると、満面の笑みのリツ。
そんな風に……言われたら。
「ああ、そう?」
弾けてしまいそうなくらい膨らんだ心がバレないように、平静を装ってそう言った。
その日の夜。ずっと使っていなかったランニングシューズを引っ張り出すと、家から近所を回って駅の方までジョギングして帰って来た。あれから二週間。気が向くとジョギングをしたから、きっといきなり走って体がびっくりするようなことはないだろう。
「大丈夫! ナギなら。俺、今日めっちゃ楽しみで、楽しみ過ぎて眠れなかったんだよ」
「いや、ちゃんと寝ろよ」
「うん、でも、ナギからバトンもらうの。久しぶりだろ?」
肩をすくめて微笑む。
ああ。あの瞬間を、リツも覚えていたんだって。胸が熱くなる。
部活の中で、競技の中で、俺が一番愛していた瞬間を。
「よし! 大丈夫、なんとかなる!」
「えっ、びびった」
突然大声を出した俺に、リツが体をビクつかせて、それからケラケラと笑い出した。
バトンを受け取って、必死に走った。思っていたよりもずっと体は軽い。嘘みたいに足が動く。他のクラスの走者が何処にいるのかは気にならなかった。ただリツの元へバトンを届ける。
視界にリツが入って来る、俺の名前を呼んで、大きく手を振っている。
「いけっ」
バトンゾーンが近付いて笑顔のリツと目が合う。スピードを落とさずにリツに声を掛けた。リツがスタートを切る。スピードをキープしたまま、リツを追いかける。ゾーン終わりのラインの前に、後ろに差し出されたリツの手のひらにバトンを押し付けた。
「いけ! リツ!」
ぐいっと引っ張るように力強く受け取られるバトン。
ほっとした瞬間、足の力が抜けて俺はその場にへたへたと座り込んだ。
視線の先に、風を切って走っていくリツの姿が見える。
リツのフォームはクセがなくてお手本みたいに、綺麗だ。それだけじゃない、太陽の光を浴びて駆け抜けるリツは、眩しくてすごく綺麗だ。
クラス対抗リレーは、見事に一位だった。バスケ部やバレー部で繋いだバトンは俺が受け取った時点で二位で、律がひとり追い抜いたからだ。
「ちょっと、あれなに、反則だよ。リレー選手ふたりとか」
「だから言ったじゃん、絶対に勝つって」
「いやそうだけどさ、え、藤田君、陸上部入んない? マジで」
リツが陸上部のメンバーと話している。何をどう話していたのか知らないけれど、リツはご機嫌だ。
「いや、もう走らない。今ももう足つりそう、」
それは本当で、ガクガクと震える足を引きずってその場を離れた。絶対明日筋肉痛になるだろう。だけど、心は達成感で晴れ晴れとしている。
その後しばらく、ことあるごとに陸上部の人が勧誘に来たり、あんな熱くなるタイプだったなんて、ってクラスで言われたりして、なんだか居心地の悪い日々を過ごすことになった。
だけど、目を閉じると瞼の裏に焼きついている。バトンを待つリツの笑顔。
あの瞬間をもう一度共有できただけで、走った甲斐はあったなって、思うんだ。
君からのLINE
*ヴァンパイア×ブロマンスです
夜十時から朝五時までオープンする夜カフェを営んでいる。店を閉めて薄暗い中、徒歩十分のマンションまで歩いて帰る。
家に帰るとシャワーを浴びて、体に栄養を補給する。冷凍庫から出した冷凍の血液パックをレンジで解凍する。それをマグカップに移して、温める。
ヴァンパイアになった頃は人の体から直接飲む方法しかなくて、その罪悪感と空腹感の狭間で気が狂いそうだった。我慢するほど渇望が強くなり、本能に抗えなくなる。先生に教えられた手順を守って、なるべく人を傷つけないようにさっと血を吸う。それから自分の血液を傷口に少し塗りつけると、傷口は塞がって行く。吸われた人間は、どういう訳かその記憶はないようだった。
伝説や小説のように、相手の記憶を消したり操作したり、そんな魔法のようなことはできない。ただ人間よりも体が頑丈で、五感が鋭く、力が強く、長生きする。それだって無敵というわけじゃない、太陽の光には弱い。ヴァンパイアになって日が浅いものが、本当に目の前で灰になって風に消えて行くのを、見たことがある。
人間だった頃に美味しかったもの、好きだったもの、何もかもを、体が受け付けなくなってしまった。人間を装うために胃袋に詰めた食事は、あとでもれなく吐くはめになる。
今は人を襲ったりする必要がなくなって、本当に良い世の中になったと思う。僕の師匠である先生は、元々医者だった。今となっては、日本で一番大きな医療会の創始者だ。血液を自由に流通できるし、海外から輸入するという裏の副業も取り仕切っている。
ブラインドをきっちりと下ろした暗い部屋。その隙間から、一筋光が漏れていて、外が明るくなっているのが分かる。百八十二年経った体は、より頑丈になり。もう僕は太陽の光を浴びても灰になりはしない。そうはわかっていても、目の前で仲間が死ぬ様子はトラウマを植え付けるのに十分だったし、今でもやっぱり太陽を怖いと感じてしまう。
血液を飲むと、体がじんわりと温まって、満たされて行く感覚がある。満腹に近い感覚だろう。
従業員である乙都(おと)くんにメッセージを毎日送るのが日課だ。
昼の間にやって置いて欲しいこと、店の買い置きの補充や雑事。元々は夕方に伝えていたのだが、営業中に思いついたことを伝えるのに、メッセージの方がいいだろうということになった。
乙都くんは働き者だ。仕事量が足りないらしく、僕が指示をしないとどこまでも店を磨き続けてしまう。僕は毎日仕事を絞り出して、負担にならない程度のリストを頑張って考えている。
まだ眠っているか、とメッセージを送るのを躊躇して、体がだるくなって眠気に抗えなくなるまでスマホを握りしめる。
「了解です。まだ起きてるんですか? 早く寝なきゃだめですよ」
「今から寝るよ」
「おつかれさまです、おやすみなさい」
朝八時のチグハグなやりとり。
それが、毎日の幸せだ。
百八十二歳にもなって、何をしているんだか。
それでも体は素直で。真っ暗な部屋のベッドで乙都くんから来た返信を見て幸せな気分になると、自然にすとんと眠りに落ちた。
夜明け前
*ヴァンパイア×BLです
明治二年。
世間が文明開花とうたう頃、僕は肺を患ってもう命が長くないことを悟っていた。
日々街が変化していく様子も、肌で何も感じることが出来ず、一日中布団に横たわり、少しマシな日は座って本を読むことが出来た。
夜な夜な、まだ若い妻が声を殺して泣いているのが聞こえて来る。残していくことが心配で、調子のいい日には、僕がいなくなったら、いつかいい人を見つけて幸せに暮らしてほしいと冗談めかして言って聞かせた。そう言うたびに妻は顔を青ざめさせて、そんなことを言うなんて酷いと僕を責めたけれど、それは本心で、死ぬ間際の切なる願いでもあった。
その日は、本当に体調が良かった。手の施しようがなく、治療法もない。そう医者に告げられたし、常に息が苦しく、咳き込むと血を吐く。そんな毎日だったのに、不意に夜中に目が覚めると、いつもよりも体が軽く感じた。少しまともに息が吸えて、立ち上がってもふらつかない。
これが最後かもしれない。そうはっきりと頭に浮かんだ。
寝巻きの上に妻が用意してくれた暖かい半纏を羽織り、襟巻きをしっかりと首に巻いて、外に出た。きっと一緒に来ると言うだろうから、隣に眠る妻を起こさないように、そっと抜け出して、少ししたら戻るつもりだった。
しんと冷えていて、吐く息が白い。これで体調をさらに悪くしたら妻に申し訳ないから、家の周りを少し歩いて明るい満月をしばらく眺めたら、すぐに家に入るつもりだった。
一瞬のことだった。迫り来る黒い影に何の抵抗もできず、ただ恐怖で固まって突っ立っていた。
最後に覚えているのは、目の前に迫って来た男の瞳孔の開いた瞳と鋭い牙。そして、首に感じた痛みだった。
次に目が覚めた時には、真っ暗闇だった。暗闇に座って、眠っていたらしい。酷く喉が渇いて空腹で。病気をしてからどんどん食が細くなっていたのに、食への渇望で気が狂いそうな程だった。それに、息もまともに吸えるし、何よりも、体のどこにも辛いところや痛いところがなかった。
奇跡が起きた。そう思った、あの時調子がいいと感じたのは、本当に快方に向かっていたからだったのかと、頭の隅に浮かんだ。
けれど、そんな考えもすぐにかき消されてしまうほどの、空腹だった。
自分がどこにいるのか分からず、ただ小さい場所に閉じ込められていることに気がついた。恐怖の中でただ、生きようともがき、暴れ、自分の中にまだそんな力があったのかと、興奮した。どのくらいの時間そうしていたのか、在らん限りの力を使って、ようやく外に出ることが出来た。
土の中から這い出て最初に見た光景は、今もまだ覚えている。それは、月明かりに照らされた墓地だった。
僕は、埋葬されていた。
わけがわからず、何が起きたのか教えてくれる人もおらず。ただ、空腹で混乱していた。
飢えと渇きを抑えたくて、本能のままに、体が勝手に動く。そんなことはしては駄目だと知っているはずなのに、理性は全く働かなかった。
先生に捉えられるまで、僕は動物のように闇雲に人を襲い飢えを凌いでいた。
後になって聞いた。僕をヴァンパイアに変えた男は気が狂っていて、ルールを破り無作為に僕をヴァンパイアに変えてしまったのだと。
ヴァンパイアの社会にも掟があって、簡単に人を殺したりはしないし、ましてや、人をヴァンパイアに変えるのには多くの約束や条件があって、それを理解して契約を結ぶのだと言う。変える方は親が子に教えるように、責任を持って生き方を教えるらしい。
だけど僕は間違いから生まれた存在だった。先生は僕を拾って、何もかもを教えてくれた。
僕は本能のまま、動物のように幾人もの人を襲っていた。目撃もされていて、騒ぎになって気が散ったおかげか、命を奪うまで血を吸うことはしていなかった。それは、不幸中の幸いでもあった。
街に現れた化け物に、本当は胸に杭を打つはずだった。そう言われて、その後、なぜそうしてくれなかったのかと何度も先生に泣きついた。
そんな君だから殺せなかった。そう言って先生は僕を導いてくれた。
血への渇望をコントロール出来るようになってからも、妻の元に戻れるとは到底思えなかった。
僕は一度目の命を終えた。
そして、別のものとして生を受けた。
妻は僕とはもう関わらずに暮らした方が幸せになれるに違いないと思った。
ときどき、遠くから妻を見に行った。元より格段に鋭くなった聴覚と視覚で、妻が少しずつ元気になっていく様子も見ることが出来た。
そうやって、長年かけて妻が新しい家族と幸せになっていく様を見守った。
不思議と、悔しさや虚しさは感じなかった。ただ、彼女に幸せでいて欲しいと心から願ったし、彼女はそうやって人生を歩んで行ってくれた。
長い時間に、出会いと別れを何度も経験した。いくら経験しても、別れは辛い。惚れた腫れたの別れではない、本当の意味でのお別れ。
僕は、永遠とも言える生を受けた。
どんなに大切な人とも、いつかは別れることになる。
もう、これ以上その別れには耐えられない。だから、もう人とは深く関わらないはずだった。
適切な距離を保って、穏やかな関係で人々と関わって。老けないことが不自然になる前に住居を移す。
そうやって、気楽に過ごして行くと、決めたはずだった。そうやってこの数十年は、うまく行っていた。
ステンドグラスの窓から、ほんの少しだけ光が射し始めた。
夜が明ける。
二度目の生を受けた当初は、夜明けが恐ろしくてたまらなかった。ほんの少しの太陽でも火傷をして、何度か命を落としそうになったこともある。
体は歳とともに強靭になり、皮膚は強く滑らかに、簡単には傷つかないようになった。
スースーと静かな呼吸で眠る乙都(おと)くんの息遣いが、耳に心地いい。
大雨でカフェにひとりもお客の来なかった夜。思いがけずふたりで過ごすことになった。従業員の寮として二階に暮らしている乙都くんが、下で過ごしたいと降りて来てくれた。
誰も来ないと仕事という仕事もない。彼が来なければ閉店していたかもしれない。乙都くんの好きなお酒やドリンクを振る舞って、話をした。
最近読書にハマっている乙都くんは、ソファに座ったまま寝落ちしてしまった。
ヴァンパイアになってから、あらゆる感覚が鋭くなったし、腕力も格段に上がった。眠った乙都くんを抱き上げて部屋に運ぶことは容易だけれど、さすがにそれはやり過ぎだろうと、毛布を掛けるに留めた。
ステンドグラスから透けた光が、乙都くんの頬を彩る。なんて美しい。
ただそばで見ていたい。その気持ちが、日に日に強くなる。けれど自分を律していないと危険だとわかっている。
幸せな時間を過ごすと、それと同じだけ不安になる。
踏み出したら、今度こそ耐えられないかもしれない。いつか来る別れを今から想像してしまう。そんなのには、到底耐えられそうにない。僕もそのうちに、あの狂った男のようになってしまうんじゃないかと、いつも心のどこかに引っ掛かっている。
乙都くんの絹のように滑らかな黒い髪に手櫛を通す。とくん、とくん、と静かに打つ乙都くんの鼓動を掻き消す、自分の心臓の音。ドコドコと荒々しく、落ち着きのない鼓動。
血への渇望ではない。
ただ。君のそばに。