茂久白果

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夜明け前
*ヴァンパイア×BLです


 明治二年。
 世間が文明開花とうたう頃、僕は肺を患ってもう命が長くないことを悟っていた。
 日々街が変化していく様子も、肌で何も感じることが出来ず、一日中布団に横たわり、少しマシな日は座って本を読むことが出来た。
 夜な夜な、まだ若い妻が声を殺して泣いているのが聞こえて来る。残していくことが心配で、調子のいい日には、僕がいなくなったら、いつかいい人を見つけて幸せに暮らしてほしいと冗談めかして言って聞かせた。そう言うたびに妻は顔を青ざめさせて、そんなことを言うなんて酷いと僕を責めたけれど、それは本心で、死ぬ間際の切なる願いでもあった。

 その日は、本当に体調が良かった。手の施しようがなく、治療法もない。そう医者に告げられたし、常に息が苦しく、咳き込むと血を吐く。そんな毎日だったのに、不意に夜中に目が覚めると、いつもよりも体が軽く感じた。少しまともに息が吸えて、立ち上がってもふらつかない。
 これが最後かもしれない。そうはっきりと頭に浮かんだ。
 寝巻きの上に妻が用意してくれた暖かい半纏を羽織り、襟巻きをしっかりと首に巻いて、外に出た。きっと一緒に来ると言うだろうから、隣に眠る妻を起こさないように、そっと抜け出して、少ししたら戻るつもりだった。

 しんと冷えていて、吐く息が白い。これで体調をさらに悪くしたら妻に申し訳ないから、家の周りを少し歩いて明るい満月をしばらく眺めたら、すぐに家に入るつもりだった。


 一瞬のことだった。迫り来る黒い影に何の抵抗もできず、ただ恐怖で固まって突っ立っていた。
 最後に覚えているのは、目の前に迫って来た男の瞳孔の開いた瞳と鋭い牙。そして、首に感じた痛みだった。

 次に目が覚めた時には、真っ暗闇だった。暗闇に座って、眠っていたらしい。酷く喉が渇いて空腹で。病気をしてからどんどん食が細くなっていたのに、食への渇望で気が狂いそうな程だった。それに、息もまともに吸えるし、何よりも、体のどこにも辛いところや痛いところがなかった。

 奇跡が起きた。そう思った、あの時調子がいいと感じたのは、本当に快方に向かっていたからだったのかと、頭の隅に浮かんだ。
 けれど、そんな考えもすぐにかき消されてしまうほどの、空腹だった。

 自分がどこにいるのか分からず、ただ小さい場所に閉じ込められていることに気がついた。恐怖の中でただ、生きようともがき、暴れ、自分の中にまだそんな力があったのかと、興奮した。どのくらいの時間そうしていたのか、在らん限りの力を使って、ようやく外に出ることが出来た。
 土の中から這い出て最初に見た光景は、今もまだ覚えている。それは、月明かりに照らされた墓地だった。

 僕は、埋葬されていた。
 わけがわからず、何が起きたのか教えてくれる人もおらず。ただ、空腹で混乱していた。

 飢えと渇きを抑えたくて、本能のままに、体が勝手に動く。そんなことはしては駄目だと知っているはずなのに、理性は全く働かなかった。

 先生に捉えられるまで、僕は動物のように闇雲に人を襲い飢えを凌いでいた。
 後になって聞いた。僕をヴァンパイアに変えた男は気が狂っていて、ルールを破り無作為に僕をヴァンパイアに変えてしまったのだと。
 ヴァンパイアの社会にも掟があって、簡単に人を殺したりはしないし、ましてや、人をヴァンパイアに変えるのには多くの約束や条件があって、それを理解して契約を結ぶのだと言う。変える方は親が子に教えるように、責任を持って生き方を教えるらしい。
 だけど僕は間違いから生まれた存在だった。先生は僕を拾って、何もかもを教えてくれた。
 僕は本能のまま、動物のように幾人もの人を襲っていた。目撃もされていて、騒ぎになって気が散ったおかげか、命を奪うまで血を吸うことはしていなかった。それは、不幸中の幸いでもあった。
 街に現れた化け物に、本当は胸に杭を打つはずだった。そう言われて、その後、なぜそうしてくれなかったのかと何度も先生に泣きついた。
 そんな君だから殺せなかった。そう言って先生は僕を導いてくれた。

 血への渇望をコントロール出来るようになってからも、妻の元に戻れるとは到底思えなかった。
 僕は一度目の命を終えた。
 そして、別のものとして生を受けた。
 妻は僕とはもう関わらずに暮らした方が幸せになれるに違いないと思った。
 ときどき、遠くから妻を見に行った。元より格段に鋭くなった聴覚と視覚で、妻が少しずつ元気になっていく様子も見ることが出来た。

 そうやって、長年かけて妻が新しい家族と幸せになっていく様を見守った。
 不思議と、悔しさや虚しさは感じなかった。ただ、彼女に幸せでいて欲しいと心から願ったし、彼女はそうやって人生を歩んで行ってくれた。

 長い時間に、出会いと別れを何度も経験した。いくら経験しても、別れは辛い。惚れた腫れたの別れではない、本当の意味でのお別れ。
 僕は、永遠とも言える生を受けた。
 どんなに大切な人とも、いつかは別れることになる。
 もう、これ以上その別れには耐えられない。だから、もう人とは深く関わらないはずだった。
 適切な距離を保って、穏やかな関係で人々と関わって。老けないことが不自然になる前に住居を移す。
 そうやって、気楽に過ごして行くと、決めたはずだった。そうやってこの数十年は、うまく行っていた。


 ステンドグラスの窓から、ほんの少しだけ光が射し始めた。
 夜が明ける。
 二度目の生を受けた当初は、夜明けが恐ろしくてたまらなかった。ほんの少しの太陽でも火傷をして、何度か命を落としそうになったこともある。
 体は歳とともに強靭になり、皮膚は強く滑らかに、簡単には傷つかないようになった。


 スースーと静かな呼吸で眠る乙都(おと)くんの息遣いが、耳に心地いい。
 大雨でカフェにひとりもお客の来なかった夜。思いがけずふたりで過ごすことになった。従業員の寮として二階に暮らしている乙都くんが、下で過ごしたいと降りて来てくれた。
 誰も来ないと仕事という仕事もない。彼が来なければ閉店していたかもしれない。乙都くんの好きなお酒やドリンクを振る舞って、話をした。
 
 最近読書にハマっている乙都くんは、ソファに座ったまま寝落ちしてしまった。
 ヴァンパイアになってから、あらゆる感覚が鋭くなったし、腕力も格段に上がった。眠った乙都くんを抱き上げて部屋に運ぶことは容易だけれど、さすがにそれはやり過ぎだろうと、毛布を掛けるに留めた。

 ステンドグラスから透けた光が、乙都くんの頬を彩る。なんて美しい。
 ただそばで見ていたい。その気持ちが、日に日に強くなる。けれど自分を律していないと危険だとわかっている。
 幸せな時間を過ごすと、それと同じだけ不安になる。
 踏み出したら、今度こそ耐えられないかもしれない。いつか来る別れを今から想像してしまう。そんなのには、到底耐えられそうにない。僕もそのうちに、あの狂った男のようになってしまうんじゃないかと、いつも心のどこかに引っ掛かっている。

 乙都くんの絹のように滑らかな黒い髪に手櫛を通す。とくん、とくん、と静かに打つ乙都くんの鼓動を掻き消す、自分の心臓の音。ドコドコと荒々しく、落ち着きのない鼓動。
 血への渇望ではない。
 ただ。君のそばに。

9/13/2024, 4:36:42 PM