ぼくの彼女は髪が長い。そして、とても綺麗だ。艶々で、ツルンとした黒髪を背中の中ほどまで伸ばした彼女は、凛とした佇まいでとても美しい。だからぼくはいつも彼女の髪を褒めていた。もちろん、髪以外も。彼女はとても素敵な女性なのだ。
ぼくはたびたび、そんな彼女の髪を梳かしてもらっていた。梳かすといっても、普段から手入れの行き届いた上質の髪に一点の曇りもない。ないので、櫛通りもまるで空を梳かしたような心地で、櫛の必要すら無さそうな髪だった。
あくる日、ぼくに稲妻が走った。だって。なんと。
彼女が! 髪を切ったのである!
その時のぼくの衝撃といったら。ショック過ぎて震えながら彼女に理由を問うと、彼女は少しだけ申し訳無さそうな表情を浮かべた。
「知り合いの子が病気で髪の毛が抜けちゃってね。その子、いつもわたしの髪の毛を褒めてくれてたから。わたしの髪の毛でウィッグを作ってプレゼントすることにしたの。……相談もなくやってごめんね?」
その時、ぼくに稲妻が走った。二度目である。いや、だって。
彼女が! あまりにも優しい!
そんなの怒れるわけがない。いやそもそもぼくが勝手に執着しているだけで、彼女の髪を彼女がどうしようが彼女の勝手ではあるのだが。
短くなってしまった彼女の髪はそれでもやっぱりとても綺麗で、そしてとても似合っていた。櫛で梳かすというぼくの楽しみは失われてしまったけれども。短髪の彼女もたまらなく美しいのだから、仕方がない。
仕方がないので、ぼくは今日も彼女の髪を褒める。短いのも似合っているよの言葉も忘れない。実際似合っている。
彼女の長い髪を梳くために買った、ちょっとお高い櫛の出番がしばらくは無いだろうことだけは、残念だけど。
テーマ「喪失感」
どうせ私なんてだなんて、言わないで。
わたしにとって、あなたはかけがえのない存在なのです。
あなたの声のぬくもりが、あなたのことばのぬくもりが。確かに、わたしの冷えた心を温めてくれたのだから。
数多の雑音のなか、あなたの声だけが、わたしの心を震わすの。
わたしの声は、あなたに届かないかしら。
届いたならば、どうか、応答して。
数多の願いに埋もれた細やかな願い。わたしが思い、わたしが祈る。わたしだけの。
――あなたがあなたを愛せるように。
テーマ「世界に一つだけ」
楽しいとき。
驚いたとき。
怒りに身を震わせたとき。
恐怖に身がすくんだとき。
わたしは精いっぱい今を生きているよって、心が、叫ぶんだ。
今日も私の心臓はつよく、あつく、脈打っている。
あらゆるモノを薪にして、足掻きながら、生きているから。
テーマ「胸の鼓動」
「今日は天気がいいから、散歩をしよう」
久方ぶりに聞いた父の言葉は、思ったよりも溌剌としていた。
長らく雨が続いていた。降水確率は常に80%を下回らない。そんな日々。空と地の境界を雨が埋め尽くして、ひとつの海になるんじゃないか、だなんて空想をしてみる程には長かった雨との付き合いも、どうやら終わりを迎えるらしい。
定年退職を迎えた父は、外に一歩も出ず、日がな一日小窓から外を眺めていた。年季の入った、柔らかい桃色の二人掛けの小さなソファの上。左側の肘置きにそっと手を添えて、じぃっと外を見るのだ。
機械のようになってしまった父は、幾分ぶりかに人に戻ったようで。凪いだ瞳でわたしを見つめている。
簡単に身支度を整えて玄関をくぐると、ゆるゆると陽射しが体をやくのを感じた。夏の陽のように猛火ではなく、真冬の切ない温もりのようなか細さでもなく。優しい陽光が照らしこむ。父はわたしを一瞥すると、何も言わず歩き出した。何処に行くつもりなのかは知らない。ただ、父の行くほうへ、ついて行く。
地面はまだ雨の気配を色濃く残している。いつもより濃い色の地面。水溜り。艶やかな植物。水溜りを避けながら、右に左にゆらゆら動く父はなんだか楽しそうだ。ホップ、ステップ。ジャンプは、ほどほどで。
周囲の景色は次第に緑が多くなっていく。緑に混じる、ピンク、白、赤、たまに黄色やオレンジ。ああ、そっか、ここは。
「……母さんは、もう、いないんだな」
「うん。……うん、そうだね」
母が散歩でよく立ち寄っていたコスモス畑。小柄なひとだったから、ノッポのコスモスたちに囲まれて、姿を見失ってしまうこともよくあった。
今にもコスモスの隙間からひょっこりと姿を表す母を幻視してしまいそうだ。もういない、そう言いながらも、父の瞳は確かに母を映している。
「雨が、止んだからな」
「うん」
「散ってしまうまえに、会っておこうと、思ったんだ」
「……うん」
「こんなにいい塩梅に晴れて。あいつと来たら、神様におねだりでもしたんだろうなぁ」
「うん。そうかもね。愛され上手なひとだったから」
「妬けるなあ」
「ふふ。神様に?」
「そうだ。神様にだって、譲っちゃやれないんだ」
おどけるように話す父の様子は、わたしのよく知る、明朗闊達ないつもの父で。……ああそうか。お父さんは、もう、大丈夫なんだな。
帰路も、やっぱり地面は水溜りが点在していて。相変わらず父は、踊っていた。
あれから父は、よく散歩に行くようになった。家に居るときは変わらず、小窓を覗き続けている。
母の定位置の、年季の入ったピンクの二人掛けのソファの左側。そこには母のお気に入りのブランケットを。父は見づらいだろうに、窓から少し遠い右側にゆったりと座っていた。たまに愛おしげにブランケットを撫ぜて、そおっと小窓を、眺めている。
テーマ「踊るように」
小さな教会の、小さな庭の片隅で、ぼくはきみと出会った。家にいるのがいやで、逃げるように駆け込んだ出入りの少ない街外れの教会。最初、驚いたように毛を逆立てていたけれど、ぼくに慣れてくれたのもすぐのこと。
きみとの出会いは、偶然だろうけれど。ぼくにとってはとても大切なことだった。きみにはそんなつもりはなくとも、たしかにぼくの心の無聊を慰めてくれたのだから。
それから毎日、ぼくはそこに通っていた。そうしているあいだは、心穏やかでいられた。時は緩やかに停滞していた。それでいいと思った。
あくる日、きみは物言わぬ存在となっていた。生まれたての小さな体では、箱庭のようなこの庭でも過酷な環境だったのだろう。きみはもう、ぼくの手を舐めたり、にー、と言ったりはしない。
教会の鐘が鳴る。立ち止まるな、と言うように。きみだったものをそっと土に還して、立ち上がる。
宝箱に仕舞っていたいくらい、たいせつな、陽だまりのような時間だったけれど。時間はぼくの手の中からこぼれ落ちてしまったみたいだから。
湿った土の小山に花を添えて、ぼくは箱庭から抜け出した。
テーマ「時を告げる」