「今日は天気がいいから、散歩をしよう」
久方ぶりに聞いた父の言葉は、思ったよりも溌剌としていた。
長らく雨が続いていた。降水確率は常に80%を下回らない。そんな日々。空と地の境界を雨が埋め尽くして、ひとつの海になるんじゃないか、だなんて空想をしてみる程には長かった雨との付き合いも、どうやら終わりを迎えるらしい。
定年退職を迎えた父は、外に一歩も出ず、日がな一日小窓から外を眺めていた。年季の入った、柔らかい桃色の二人掛けの小さなソファの上。左側の肘置きにそっと手を添えて、じぃっと外を見るのだ。
機械のようになってしまった父は、幾分ぶりかに人に戻ったようで。凪いだ瞳でわたしを見つめている。
簡単に身支度を整えて玄関をくぐると、ゆるゆると陽射しが体をやくのを感じた。夏の陽のように猛火ではなく、真冬の切ない温もりのようなか細さでもなく。優しい陽光が照らしこむ。父はわたしを一瞥すると、何も言わず歩き出した。何処に行くつもりなのかは知らない。ただ、父の行くほうへ、ついて行く。
地面はまだ雨の気配を色濃く残している。いつもより濃い色の地面。水溜り。艶やかな植物。水溜りを避けながら、右に左にゆらゆら動く父はなんだか楽しそうだ。ホップ、ステップ。ジャンプは、ほどほどで。
周囲の景色は次第に緑が多くなっていく。緑に混じる、ピンク、白、赤、たまに黄色やオレンジ。ああ、そっか、ここは。
「……母さんは、もう、いないんだな」
「うん。……うん、そうだね」
母が散歩でよく立ち寄っていたコスモス畑。小柄なひとだったから、ノッポのコスモスたちに囲まれて、姿を見失ってしまうこともよくあった。
今にもコスモスの隙間からひょっこりと姿を表す母を幻視してしまいそうだ。もういない、そう言いながらも、父の瞳は確かに母を映している。
「雨が、止んだからな」
「うん」
「散ってしまうまえに、会っておこうと、思ったんだ」
「……うん」
「こんなにいい塩梅に晴れて。あいつと来たら、神様におねだりでもしたんだろうなぁ」
「うん。そうかもね。愛され上手なひとだったから」
「妬けるなあ」
「ふふ。神様に?」
「そうだ。神様にだって、譲っちゃやれないんだ」
おどけるように話す父の様子は、わたしのよく知る、明朗闊達ないつもの父で。……ああそうか。お父さんは、もう、大丈夫なんだな。
帰路も、やっぱり地面は水溜りが点在していて。相変わらず父は、踊っていた。
あれから父は、よく散歩に行くようになった。家に居るときは変わらず、小窓を覗き続けている。
母の定位置の、年季の入ったピンクの二人掛けのソファの左側。そこには母のお気に入りのブランケットを。父は見づらいだろうに、窓から少し遠い右側にゆったりと座っていた。たまに愛おしげにブランケットを撫ぜて、そおっと小窓を、眺めている。
テーマ「踊るように」
9/7/2024, 11:38:51 AM