『風が運ぶもの』
きみが結婚したと風の噂にききました。
ぼくがまだひとりでいると、きみに届かなければいい。
男は名前を付けて保存、女は上書き保存、とはうまく云ったものだ。
過去を振りはらって前を向いて進むきみからぼくは眼を逸らすしかない。
ただ、それでも、あの頃ならまだ可能性としてあったかもしれないきみとの未来を、いまでも夢みているわけじゃないんだとは断言する。きみとの未来はもう絶たれているのだとさすがにわかっている。
ぼくが未だにひとりだと、きみに届かなければいい。憐れみとともにふりかえらないで。――憐れみさえきみのなかに芽生えようもないのかも、しれないけれど。
ぼくの日常はきみなしでもささやかな幸せに満たされているよ。恋という要素が欠けているだけで。
風の噂がきみの幸せをぼくの耳に運んできます。
ぼくの何もがきみに届きませんように。
きみがぼくを思い出すこともないのだと、ぼくに思い知らせないでください。
『question』
問いに解が常にあるか。
地上に希望が常にあるか。
あなたに選択肢が常にあるのか。
未来に可能性が常にあるのか。
そして私にあなたからの愛が?
There's no question of escape.
いまさらの前提でしょう、それは。
『約束』
約束を、破ることを前提で交わす者は多くはない。
約束が果たされたとき、それは信頼に加担する。
約束が重く誰かを絡めとるのは、誠実に交わしながらそれを反古せねばならないときだ。
だから。
エスタは部屋の壁にかけた暦を見ながら思考をつづけた。
待ち人はこの約束で苦しむことはない。そもそも約束というには曖昧なものだ。
――夏至の前後に、思い出せたら行く。
時季が夏至と限定されているわけではない。前後何日と決められてもいない。
そして、思い出せたら行く、という。
思い出さなければ来ない。それだけだ。
待ち人は、思い出せなかったら来ない。それだけのこと。
そしてだから、エスタも約束が破られたのだと悲観することも、ない。
待ち人が来ないのは約束を破ったからではない。思い出されなかった、それだけのことなのだ。
苦しいレトリックだが……。
明日。
明日で夏至から五日経つ。
明日、待ち人が来なければ今年は思い出されなかったのだと、思おう。
破られることのない約束。
いっそ破ってくれたほうがもしかしたら楽なのかもしれないけれど。
エスタは苦く微笑いながら、この年の夏至に区切りをつけると決めた。
『ひらり』
天にも地にも、己れと並ぶ者はないとばかりの傲然とした面持ちで、そいつは地を蹴った。
ひらり。
まさに牛若丸が五条の橋で見せたような跳躍だった。
そして、そいつは目測誤って門柱を越して。
明らかに空中姿勢を崩して門の向こうへ墜ちた。
降りた、ではない。落ちた、ですらない。
呆気にとられた俺に、そいつは取り繕ったようなドヤ顔を見せつけ、そそくさと去る。
なかなかに生意気で可愛い。
あんな猫もいるんだなぁ。
野良と思わしいが、あれでよく生き延びているもんだ。
これが、そいつと俺の出逢いというやつだった。
ちなみに、この野良猫はやがて俺の命名でひらりという名を冠することになる。が、まぁそれは別の話。
『誰かしら?』
庭先でうらうらと眠るように花が咲いている。春の風、地面で咲く春の桜色。そこに黒い鼻をつっこむように柴犬が丸くなっている。
黒い鼻のまわりはすっかり白い。若い頃、毛は黒く、髭を連想するからか、初対面のひとには大抵雄なのかと勘違いされていた。
喧嘩っぱやさは父犬に似たらしい。父犬はコンクールで賞をとるほどの柴だったが、とにかく喧嘩腰の犬だと聞いた。実際に会ってみたことはない。
この子ももう老犬の部類だった。
だが老いても散歩だけは欠かせない。雨、風、台風、夏の烈日に冬の大雪。どんな天候でも散歩は譲らぬ犬だ。世間で拒否柴という言葉が認知されているのが、正直いまも信じられない。
老婆犬はうとうと春の午睡を楽しんでいる。
傍らに食餌の皿が置かれていて、なかにはまだ多少のドッグフードが残っていた。
雀が来た。犬の残したドッグフードをついばみはじめる。犬も気づいたか、薄目を開けて皿を確かめる。雀の姿を認めて、何の問題もないとばかりにうたた寝を再開した。
この状態、家人は犬が雀を扶養している、と表現していた。
最近は眠る時間が増えた。耳も遠い。喧嘩も滅多に売らなくなっている。険のとれた穏やかさは好ましくはあるが、老いを証だてているようでもの淋しくもある。
いずれ、逝いてしまう。
生命を享けた以上、あたりまえのことだ。それでもその日が遠くないと意識するとき、どうしようもなく心が痛む。
犬は眼をあげた。
まるで飼い主の感傷が聴こえたように。
ふん、と鼻を鳴らす。
脚の組みかたを多少変えて飼い主を見ていた。
淋しくない。
そう語っていると思うのは、飼い主の驕りかもしれない。だがそれでもその眼差しに信頼を見た。見たかった。
「淋しくない。淋しさなんて語ってくれるな。きみは、何だ?」
そう云っているようだった。そう云ってほしかった。
(私はあなたの飼い主だよ)
飼い主は心で呟いた。
犬は後ろ脚で耳の裏をかいた。
「ん、ちょっと違うかな。やり直しで」
四肢をを突っ張るように伸びをする。
「きみは私にとっての誰なんだい?」
(私は)
庭に降りて、飼い主は犬を撫でた。
気持ちよさそうに眼を細めるこの子にとって。
(ああ、そうだ。初めてこの子を家族に迎えた日からずっと)
「私は、あなたの、家族だよ」
わふ、と気の抜けた鳴き声を犬は洩らした。
「合格!」
そんな吠え声だった。