『誰かしら?』
庭先でうらうらと眠るように花が咲いている。春の風、地面で咲く春の桜色。そこに黒い鼻をつっこむように柴犬が丸くなっている。
黒い鼻のまわりはすっかり白い。若い頃、毛は黒く、髭を連想するからか、初対面のひとには大抵雄なのかと勘違いされていた。
喧嘩っぱやさは父犬に似たらしい。父犬はコンクールで賞をとるほどの柴だったが、とにかく喧嘩腰の犬だと聞いた。実際に会ってみたことはない。
この子ももう老犬の部類だった。
だが老いても散歩だけは欠かせない。雨、風、台風、夏の烈日に冬の大雪。どんな天候でも散歩は譲らぬ犬だ。世間で拒否柴という言葉が認知されているのが、正直いまも信じられない。
老婆犬はうとうと春の午睡を楽しんでいる。
傍らに食餌の皿が置かれていて、なかにはまだ多少のドッグフードが残っていた。
雀が来た。犬の残したドッグフードをついばみはじめる。犬も気づいたか、薄目を開けて皿を確かめる。雀の姿を認めて、何の問題もないとばかりにうたた寝を再開した。
この状態、家人は犬が雀を扶養している、と表現していた。
最近は眠る時間が増えた。耳も遠い。喧嘩も滅多に売らなくなっている。険のとれた穏やかさは好ましくはあるが、老いを証だてているようでもの淋しくもある。
いずれ、逝いてしまう。
生命を享けた以上、あたりまえのことだ。それでもその日が遠くないと意識するとき、どうしようもなく心が痛む。
犬は眼をあげた。
まるで飼い主の感傷が聴こえたように。
ふん、と鼻を鳴らす。
脚の組みかたを多少変えて飼い主を見ていた。
淋しくない。
そう語っていると思うのは、飼い主の驕りかもしれない。だがそれでもその眼差しに信頼を見た。見たかった。
「淋しくない。淋しさなんて語ってくれるな。きみは、何だ?」
そう云っているようだった。そう云ってほしかった。
(私はあなたの飼い主だよ)
飼い主は心で呟いた。
犬は後ろ脚で耳の裏をかいた。
「ん、ちょっと違うかな。やり直しで」
四肢をを突っ張るように伸びをする。
「きみは私にとっての誰なんだい?」
(私は)
庭に降りて、飼い主は犬を撫でた。
気持ちよさそうに眼を細めるこの子にとって。
(ああ、そうだ。初めてこの子を家族に迎えた日からずっと)
「私は、あなたの、家族だよ」
わふ、と気の抜けた鳴き声を犬は洩らした。
「合格!」
そんな吠え声だった。
3/2/2025, 11:08:14 AM