子どもの頃、なぜか砂時計を見るのが好きだった。
砂が下にさらさら落ちると、真ん中に凹みが生まれる。その凹みがじょじょに広がってカルデラのようになるにつれ砂のかさが減っていく。下にはなだらかな円錐形の山ができている。
最後の砂がカーブをつたって流れ落ちるのを見届けると、逆さまにしてもう一回。飽きずに眺めていた。
三分間。
今ならそんな短い間でも集中して見ていられるだろうか。
それでも、久しぶりに砂が落ちる様子が見たい。歯磨きのときにひっくり返してみようか。
『逆さま』
眠れないほどスマホを見ている。深夜まで。依存症かというくらいずっと。いや、既にスマホ依存、ネット依存の域に達していると思う。
スマホで次から次へと情報が目に入ると脳内麻薬ドーパミンがどばどば分泌されて、分泌されなくなるともっと欲しくなる、この繰り返しらしい。
だから切り上げ時が分からず眠れなくなる。
自分の容量の少ない頭は日ごろからスマホ経由の情報が過多で、他が入る隙がないためまず本を読まなくなった。
なんとかすべく『スマホ脳』という本を買ったはいいけれど、まだ表紙すら開いていない有り様。
インプットばかりしていると、頭の中で情報の交通整理が追いつかず渋滞する。
情報はたくさん入る、しかし理解はしていない状態が続いて、睡眠不足と加齢もあって頭がどんどん衰えていくのを感じる。
というわけで、心身のためにもアウトプットをしようと書く習慣を始めたが、確かに頭を久しぶりに使っている感覚がある。もう息が上がるほど。
しかしスマホで打っているので、結局スマホの使用時間はそんなに変わっていない……。
『眠れないほど』
世の中は 夢かうつつか うつつとも
夢とも知らず ありてなければ
──この世は、夢か現実か。
現実とも夢とも分からない。
在って無いのだから。
古今和歌集の詠み人知らずの歌。
無常感や虚無感がにじんで、ちょっとカッコいい和歌である。
夢と現実の「夢」が睡眠時の夢や見えない世界を指しているとき、対して現実は現(うつつ)、覚醒時に見ている世界のことになる。
上の一首は、諸行無常の仏教的な歌ともとれるが、詠み人が個人的な経験からその境地に至った可能性はある。
何もかもが存在しているのに存在していない、と思うまでに何があったのだろう。願望や理想を表すほうの「夢」が崩れ去ったのかもしれない。
現代人の自分も、精神的に疲れてくると現実感が失せてくる感覚なら分かる。すべてが不確かで、すべてがどうでもよくなる感じ。
「どうせみんな消えるんだから」
実際にはもっと崇高に詠まれた歌なのだろうが、千年以上たっても実は人の感覚はそんなに変わっていないのではないかと、そんな気がしている。
『夢と現実』
最近は「さよなら」というフレーズをあまり使わなくなった。
バイバイ。また今度。失礼します。
それは、さよならという言葉が、別れを強調するからかもしれない。
昏睡状態の知人のお見舞いに行ったとき、おいとまの際に口をついて出たのが「さようなら」だった。
普段ほとんど使わない言葉で別れの挨拶をしたことに自分でも驚いたが、どこかでこれが最後だと予期していて、実際その通りになった。
あの時、私の別れの言葉は横たわる本人の耳には届いていただろうか。
しばらくは、なぜ言ったのだろうと悔やんだ。
さよならを言えてよかったと思えるようになったのは最近になってからだ。
『さよならは言わないで』
小学校でスライド投映があったとき、黒いカーテンを閉めて照明を落とした瞬間、暗闇の中で子どもたちのわあっという声が響いたのを思い出す。
スライドが終わって照明がついたときの眩しさとざわめきも。
今でも映画館で本編上映前に一瞬だけ真っ暗になると、期待も込みで少しだけ緊張する。
明るさにゆっくり馴れてもらうためか、最近の劇場のライトは控えめだ。だから上映後は余韻を静かに味わいながらスクリーンを後にする。
柔らかな光は目に優しいけれど、かつて体感したことのある、強い光を浴びて暗闇の世界が一変する瞬間を懐かしく感じる。
『光と闇の狭間で』