世の中は 夢かうつつか うつつとも
夢とも知らず ありてなければ
──この世は、夢か現実か。
現実とも夢とも分からない。
在って無いのだから。
古今和歌集の詠み人知らずの歌。
無常感や虚無感がにじんで、ちょっとカッコいい和歌である。
夢と現実の「夢」が睡眠時の夢や見えない世界を指しているとき、対して現実は現(うつつ)、覚醒時に見ている世界のことになる。
上の一首は、諸行無常の仏教的な歌ともとれるが、詠み人が個人的な経験からその境地に至った可能性はある。
何もかもが存在しているのに存在していない、と思うまでに何があったのだろう。願望や理想を表すほうの「夢」が崩れ去ったのかもしれない。
現代人の自分も、精神的に疲れてくると現実感が失せてくる感覚なら分かる。すべてが不確かで、すべてがどうでもよくなる感じ。
「どうせみんな消えるんだから」
実際にはもっと崇高に詠まれた歌なのだろうが、千年以上たっても実は人の感覚はそんなに変わっていないのではないかと、そんな気がしている。
『夢と現実』
最近は「さよなら」というフレーズをあまり使わなくなった。
バイバイ。また今度。失礼します。
それは、さよならという言葉が、別れを強調するからかもしれない。
昏睡状態の知人のお見舞いに行ったとき、おいとまの際に口をついて出たのが「さようなら」だった。
普段ほとんど使わない言葉で別れの挨拶をしたことに自分でも驚いたが、どこかでこれが最後だと予期していて、実際その通りになった。
あの時、私の別れの言葉は横たわる本人の耳には届いていただろうか。
しばらくは、なぜ言ったのだろうと悔やんだ。
さよならを言えてよかったと思えるようになったのは最近になってからだ。
『さよならは言わないで』
小学校でスライド投映があったとき、黒いカーテンを閉めて照明を落とした瞬間、暗闇の中で子どもたちのわあっという声が響いたのを思い出す。
スライドが終わって照明がついたときの眩しさとざわめきも。
今でも映画館で本編上映前に一瞬だけ真っ暗になると、期待も込みで少しだけ緊張する。
明るさにゆっくり馴れてもらうためか、最近の劇場のライトは控えめだ。だから上映後は余韻を静かに味わいながらスクリーンを後にする。
柔らかな光は目に優しいけれど、かつて体感したことのある、強い光を浴びて暗闇の世界が一変する瞬間を懐かしく感じる。
『光と闇の狭間で』
人との距離感について普段からよく考える。
近づきすぎると相容れないところも見えてくる。それでも一緒にいられる関係性を作れればよいが、多くの場合そこで一歩引く。
つかずはなれずの間柄が平穏なのは間違いない。
この人とは合わないと感じても、どうしても切れない関係もある。家庭、学校、職場などで。
物理的な距離は置けないけど、心理的な距離は置きたい。双方が暗黙の了解で適切な距離感を保つのがベストだが、自分が遠ざかろうとしても向こうがずずいと詰めてくるときもある。
世の中には、寂しがりやなのに人付き合いを避けている人が意外にいそうな気がする。
仲良くなりたい気持ちはあっても、いろんな目に遭ううちに最初から人と距離を置くようになる。
自分だって人間関係の煩わしさと一人の孤独感のどちらを取るかと問われれば、迷わず後者である。
お互いに距離感を持って仲良くできればそれが一番いい。──距離感というか、遠慮というのはどんな関係性であれ大事だとつくづく思う。
『距離』
「泣かないで」というと舘ひろしの同名の歌がまっさきに浮かんで、他のことが出てこなくなった。
それくらい曲の中で連呼している。低音ボイスで。
俳優の印象のほうが強いが、はじめはロックグループで出てきた人である。といっても自分もその時代をリアルタイムで見たわけではない。
歌手としては他に『あぶない刑事』のエンディング「冷たい太陽」も有名だが、たぶん「泣かないで」が代表曲になるのだろう。
いわゆる歌謡曲はメロディが複雑ではないせいか歌詞がストレートに伝わるものが多いように思う。
『泣かないで』の歌詞を改めて読むと、別れ際の男の心情が綴られている。女のほうは一方的に泣くなと言われて困りそうだが、舘ひろしが低く甘い声で歌うといい感じに聴こえてくる。
あまり古く感じないが、調べてびっくり、リリースされて40年近く経っていた。
『泣かないで』