夏のはじまりは朝の地面のにおいで感じ、冬のはじまりは夜の空の空気で感じる。
うんざりするほど続いた熱帯夜がようやく終わり、気温が下がっていくのに合わせるように、夜の空気がだんだん澄んでいく。
やがて賑やかな虫の声がおさまり、しんと静かな夜が来て、輪郭をくっきりとさせた月が夜空に映える頃、オリオン座が視界に滑り込む。
ひんやりと透き通った空気。
そんなとき、冬の気配を感じる。
秋と冬の境目が一番好きな季節だ。
『冬のはじまり』
勝手に話を終わらせないでほしい。
最近、人との会話中にそう思うことがあった。
こういうことはたまにあり、こちらとしては共有したいことを話しているのに、相手は自分の用は済んだとばかりになおざりな返事で終わらせる。
投げたボールがキャッチされない。返ってくることを予期して投げたボールが地面に落ちてコロコロ転がっていくのを眺める。前のめりのまま、え〜?と心の中で間の抜けた声を出す。
人の話を聞く気がない。もしくは切り上げたいときの会話術、あるいは聞きたくないことを受け流す処世術なのかもしれないが、あからさまだとなかなか落胆する。会話の主導権はこっちにあると宣告されている気分になる。
次は塩対応をしてしまうかもしれない。
なんて、愚痴めいてしまったが、自分だって話が冗長だと切り上げたくなるときはある。
会話の終わりはなるべくなら軟着陸がいい。
『終わらせないで』
愛情なのか愛憎なのか、義務感なのか責任感なのか、惰性なのか依存なのか、本人たちも分かっていないけど一緒にいる関係もある。
一緒にいる理由を愛情だと己に言い聞かせている関係もある。
愛情という言葉に縛られて一緒にいざるを得ない関係もある。
満たされているときは素晴らしい言葉だが、時に便利な使われ方をする、時には重荷にもなる言葉。
愛情。
『愛情』
微熱の定義を調べたが、特に決まりはないようだ。
感染症法によると37.5度が“発熱”で、確かにそこを超えると出勤や入館がアウトになることが多い。
さらに38度で“高熱”になるようだが、こちらの数字にはどうも違和感がある。発熱したら易々と超える人が多いのではないか。
「高熱が出て」と休む理由には使えそうである。
微熱の定義はないものの、自分の中ではなんとなく37度を超えたら、という感覚がある。上はコロナ禍前までは37.7度くらい、今は規定に沿って37.5度未満。気分的には37度を超えると半病人、38度で病人になる。
ただ平熱が35度台の人にとっては37度台でもかなり体温が高い状態なので、数字で切ってしまうのも本当はおかしな話ではある。一人ひとりの平熱を確認することは難しいのでやむを得ないのだが。
ところで、老いも若きも男性が「具合が……熱っぽい……」と重病人の顔で訴えてきた場合、体温を測ると37度にすら到達していないケースが散見する。以前から不思議に思っていたが、これもきっと平熱が低かったということなのだろう。
『微熱』
およそ野外とは縁遠い生活を送っている私が今夏、訳あって久しぶりに田んぼの畦道を歩いた。
太陽の下、日に焼けると心の中で何度も呟きながら。
まだ青い稲の根元には茶色いカエルたちが潜んでいた。泥水で半身浴状態のカエルは動くものの気配を感じるとピッと跳び、小さな波紋だけ残して姿を消す。見失うとなぜか逃げられた気分になった。
カエルですら干からびないよう水の中にいるのに……。
太陽に当てられて疲れきり、靴に土がつくのを気にしながら黙々と歩く。ふと、むかし裸足で入った田んぼの泥が生ぬるかったことを思い出した。
『太陽の下で』