つづらふじに包まれて絡まれた廃屋。緑と灰の朽ちて潤う色とりどり。灼熱の日差しに貫かれた天井から落ちる冷たき影。人肌恋しがる無数の虫とたましいの呼吸で湿った腐臭の暗闇。鳥肌立つ寒気が、途絶えて久しい足跡から漂う。床に散らばったガラスを踏むと、パキパキと捨てられた存在を鳴き叫ぶ。腐っている床の隙間から松葉海蘭が客人を出迎える。その真っ直ぐに立つ姿は、墓石に添えられた線香だ。水晶の如き埃が白煙となって天に昇っていく。自分の心臓の鼓動さえもうるさいほどに閑静に満ちている。有象無象の阿鼻叫喚を全て湿った影に落とした無情な静寂さ。赤子の泣き声までも呑み込む冷酷な沈黙。いずれは私の生きた呼吸もただの空気と化す。自然の手にしか行き届かない廃屋の中の読書は格別だろうなと、何もせずに、私は見えない膜に覆われた暗闇の中で立ち尽くした。
(250727 オアシス)
「まるで泣いた後みたいだね」
彼女にそう言われて、彼は不服そうであった。背の高い本棚の影に覆われて、彼の色白の肌が淡く灯る。未だ生者のように生命溢れる喜びに満たされていない。陶磁器の如き皮膚の下から東西の血潮が巡っているはずなのに、頬を色づく血色がない。目元から顎にかけて、青い血管がただ浮かんでいるだけだ。暗き影から、彼は蒼い眼光を放った。
「本当は、お前が泣きたいのだろう」
「そうかもしれない。あなたが私の代わりに泣いてくれているのね」
「一生拭えぬ涙だ。どうするつもりだ」
彼は本棚に寄りかかって腕を組んだ。険しい顔をしているが、待ってくれる余裕はあるようだ。
「あなたがよく笑うようになったら、綺麗さっぱり消えると思うよ」
微笑んだ彼女は、彼の頬に人差し指を当てた。皮膚の下から浮かぶ青い血管を目元から顎の下まで、すうっとなぞっていった。指先で滑るように撫でられたので、くすぐったかったのか。彼はつい身をよじった。
「これは笑ったことにならないだろ」
「あら、残念」
くすくすと笑みをこぼした。
(250726 涙の跡)
彼女のさらけ出された二の腕を、子どもは愛おしそうに頬擦りした。弾力のある肌を何度も両手で揉んでいる。夏の暑さで温まった手のひらを冷やすには、ちょうど良いらしい。
「そういえば、腕のところに長い毛が一本あるんだよ。探してごらん」
彼女にそう言われて、子どもは彼女の左腕をじっと眺めた。窓から差し込む熱烈な白い日差しに、腕の産毛が黄金に輝く。壁の影を背景に腕を眺めると、白い草原のようにそよそよと揺れていた。短い毛ばかりだから、彼女のいう長い毛なんてすぐに見つかると思っていたのだろう。
しかし、子どもには見つからなかったようだ。数分もしない内にどこかと彼女に尋ねた。肩の近くかもと曖昧な返事をされる。
半袖の装いの季節になると、子どもは彼女の二の腕を毎日のように触っていた。飽きるぐらい触っていたはずなのに、目で見て分かりそうなものを今まで見逃したことを受け入れられなかった。
もしかしたら彼女に嘘を言われているかもしれない、と嫌な妄想を膨らませたその時、子どもの目が輝いた。
彼女の腋近くの腕に糸状のような白い繊維がくっついている。ねじれていた細い糸を指で摘んでみると、するすると長く伸びていく。5センチも伸ばしたところで、彼女の二の腕の皮膚が引っ張られた。白髪にも見える異様に長い産毛に、子どもは輝く目をもっと見開いた。
「髪の毛みたいに長いね」
「福毛っていうらしいよ。これがある人は幸せになれるって」
「ねえねえ、取っていい?」
「大事にしてくれるなら良いよ」
「うーん、どうしようかな」
子どもは、細長い産毛を軽く引っ張っては緩めてと繰り返して眺めていた。
(250725 半袖)
まだ月明かりが眩しかったあの日を訪れ、月光に照らされてだんだんと気分が高揚し、月に向かって呼びかけて話しかけて笑い出して叫び出して吠え始めた。けものになったわたしは、帰る道も行先も見失ってしまった。
(250724 もしも過去へと行けるなら)
「子どもの近くにいると安心する。恋愛でも性愛でもない。無垢で純粋な物の側にいるから穏やかになれるのかしら」
彼女は母親の元へ駆け寄っていく子どもを見届けた。子どもの柔らかな温もりに当てられて良い気分である。笑みを浮かべるも、口元を引きつらせる自虐が微かに見えた。
「君は、純愛を欲しているだけだと思うよ。誰もけがれない付き合いをしたいんじゃないかな」
「愛憎劇になるぐらいなら、子どもとおままごとをしたいよ」
「そうだよね。ただ君には、どんな愛も受け入れる愛情を持ってほしい」
急に彼から願いを言われて、彼女は返事を詰まらせた。なぜと尋ねたら、彼は驚いて答えた。
「なぜって、君にもその資格があるからだ。愛情は全ての人が持っている。形は様々、色も色々、量も多少ある。そして、同じ愛は決してない。君だけの愛で世界に応えればいい」
何も恐れることは無いと彼は向き合った。熱気に当てられてやや身を引く彼女に苦笑し、毛先をいじる。
「まずは、自分を愛してみたらどうだろう」
「どうやって?」
「僕が君のことをラミーって呼んでいる間は、君は君を愛する。簡単だろ」
難しい話でも聞いたかのように、彼女は唖然としている。しかし彼は気にもせず、早速ラミーと呼んだ。彼女は慣れない愛称に戸惑ったが、突然閃いたのか。目を見開いて、かすかに開いた口から言葉を発した。
「Salutations,My hear.I’m lumme」
「Good love」
(250723 True Love)