ああと得も言われぬ感情が、私の中で込み上がった。
ダイアログレイディオ・イン・ザ・ダークに登場した御陣乗太鼓保存会の人が、話してくれた。朝起きたら、いつも変わらない風景を大事にしてほしいと願いを込めて言った。
能登半島地震で、海底は隆起し、大雨で山は土砂崩れを起こした。天災により日々の日常や風景を壊されて、心までも崩れただろう。だが、全てを失ったわけではない。能登の人々は、崩れ落ちたものの中から思い出を掬い上げて、心の拠り所にしていたのだろう。
変わらないものに自分の帰るべき場所と意味を与える。これは人間の生きる術のひとつだ。
最近は、長年建てられた建築物が無闇に解体されている。しかも建てたその国民ではなく、移民や難民の人々に解体を任せている。
現代の人々は、歴史を積み重ねた建物の敬意もなければ、時間への敬意もない。当然、歴史の流れに逆らって変わらずにいるものの存在もすぐに否定できる。急速な時代の変化に置いていかれた人間の心の拠り所なんて容赦なく踏み潰せるのだ。
変化に必死な人間ほど、変わらないものの存在を恐れてしまう。では、その人間の身に天災が起これば、どうなるのか。天変地異に歓喜するのか、それとも堕落するのか。歓喜して昇天しても良いだろう。堕落して悲観して良いだろう。はたまた、崩壊された風景の中で、変わらずに咲き続ける花や流れ続ける雲、伸び続ける草木を見出して、ああ生きてて良かったなと思ってくれたら、もっと良いだろうよ。
(250309 嗚呼)
本棚から書物を一冊抜いたら、青い目と目が合った。私は驚くも、目の正体が気になった。周りの本をいくつか近くの机の上にどかしたら、花の円に囲まれた鴎の絵が現れた。羽ばたく鴎を囲うように、レンゲソウと百合のような紫の花が咲いている。
私は遠くを眺める鴎の青い瞳に見惚れていた。後ろから近寄って来る祖母に声をかけられるまで、ずっと眺めていた。
「りよちゃん、読みたい本はあったかい?」
「ああ、ばあちゃん。この絵って、ばあちゃんが描いたの?」
「おや、見つけてしまったのね。私の秘密の鴎さんを」
祖母は微笑んだ。肩が震えて白い羽織がふわりと揺れる。悪戯を見られてしまった子どもみたいに苦笑いをして、口に手を当てている。
私は、祖母の見てはいけないものを見つけてしまったかと思い、罪悪感を覚えた。
「嫌なことをしてごめんね、ばあちゃん」
「とんでもない。りよちゃんも本の声が聞こえたようで、私は嬉しいんだよ」
祖母の言葉が理解できなかった。私には、本の声なんていっさい聞こえなかった。本を抜いたら、鴎と目が合った。ただそれだけだ。
「特別な鴎なの?」
「うんうん、特別だよ。私が70歳までがんばって生きるぞって、命を与えてくれた大事な鴎だよ」
「へえ。この鴎の目は、なんで青いなの?」
「そうだね。もしかしたら、りよちゃんが今持っている本が教えてくれるかもよ」
祖母はわたしの手の中にある本を指差した。日焼けした表紙には、『杯』と書かれ、銀のコップを口にしている4人の少女が描かれている。随分と古びて傷んだ本だが、絵だけは美しさを失われていない。本当に花のように可憐な少女たちの絵だ。だが、そこに青い目の鴎はいない。
「まずはお話を読んでごらん。読んで分からなくても、りよちゃんの中でお話が溶け込んで、半年かそれ以上経った後に、お話がりよちゃんの中でまた巡ってくるよ」
多分、祖母が隠した秘密の鴎も、祖母の中で巡っているそのお話から生まれたものなのだろう。祖母の楽しそうな口ぶりから、大層良いお話と出会えたようだ。
私は、祖母に返事をして、側にあった椅子に腰掛けた。膝の上に本を載せて、表紙をもう一度見た。この表紙を飾る少女たちの秘密の花園が、ページの中にあるのだろう。そんな夢を見て、表紙をめくり、物語の世界を開け放った。視界の端で白い羽か何かが羽ばたいた。
(250308 秘密の場所)
15年以上前に聞いたのは確かだ。
高校生だった私。
スライド式携帯電話の音楽フォルダの中。
タイトルは『……』。
少女らしき声が歌詞のない歌を歌っている。
ピアノもギターもない。
人の声しか聞こえない。
らーらんららんらららん……
その曲を聞いていると、少女の横顔が浮かび上がってくる。彼女は歌に身を任せて自然体でいる。彼女の表情に笑みも涙もないが、夢中に歌う姿に心を惹かれる。
歌う少女に向かって微風が吹き、柔らかな黒髪から白い額を覗かせた。その白い額は何度見ても白昼の月を思わせる、そう白い残像を目に焼きつけた頃には曲が終わっていた。
思い出したこの曲をウェブ上で調べたが、詳細を得られなかった。けれども「ラララ」の文字を見て、この曲が私の中でもう一度再生されたのは幸運だ。歌詞なき歌が、15年の時を越えて私の心の中に流れてきたのだから。
(250307 ラララ)
私の母方いとこは、猫みたいだと言われていた。
私の父親から聞いた話で、彼女が風車で遊んでいたところ、風がよく吹く場所はトイレの窓だと駆け出しだらしい。風が吹く場所を知っているのは、猫ぐらいだそうだ。
いとこは猫っ毛で、吊り目で、肉付きが良く、小柄だ。しかもお喋り好きで、人慣れしている。確かに、愛らしい猫と何ら変わらないかもしれない。私の母親も、自分の娘よりも小さな彼女を気に入っていた。
いとことは1歳差で、向こうは10ヶ月も先に生まれた。赤ん坊の私を「赤ちゃん」と可愛がってくれたが、私は彼女の背を5cmも追い抜くほどに成長してしまった。母は何故か、いとこを憐んでいた。
「あんたが急に大きくなったから、あの子はさぞ怖くなったでしょうね」
遺伝子を配った生き物が何を言っているのやら。よほど、目に入れても痛くない子と出会えて頭が浮かれいるらしい。
事実、いとこは魅力的だ。高校の文化祭で、彼女はギターを鳴らして、興奮した観客は彼女の名前をコンサートホール中に響かせたそうだ。幾人の異性と付き合っていた上、コスプレイヤーとして上京して、多くの人と交流を深めていた。
彼女の周りには、常に追い風が吹いていたのだろう。ただどうもその追い風は強すぎたようだ。
中学生にして両親を失い、社会人になってから卵巣のう腫で入院する羽目になった。その上うつ病にかかりながら、痴呆になった祖母の面倒を見た。職も転々として長く続かなかったらしい。
いとこが今の夫と結婚する前は、自分は両親のように長く生きられないかもしれないと嘆いていた。とは言いつつも、結婚をして子どもを出産したのだから、少しでも誰かの記憶に自身の思い出を残したくて必死だったのだろう。
もし、彼女に吹く風が桶屋まで儲かるようになってしまい、猫のような彼女がとうとう三味線ならぬギターの弦に生まれ変わってしまったら、私は残された甥っ子に彼女の思い出話を弾き語りでもしながらやってみようか。
(250306 風が運ぶもの)
Don't ask.
You asked the question and you have lost right back.
Dear Poet-Master Tagore
in reverence
(250305 question)