僕には恋人がいた。そう、過去形である。
なんでもない日常が楽しくて、幸せで、僕は少し浮かれていたのかもしれない。
同性同士で、当然壁は多かった。けれど、その分実った時の喜びも、一入だった。
それが今、たった一瞬出来事で、耳障りな甲高いブレーキ音で、全部壊された。
歩行者用の信号は間違いなく青で、周りの悲鳴がよく響く。
仰向けに倒れ込んだ目に映った空は、憎たらしいくらいに綺麗な夕日に焼けていた。
飲酒運転の大型トラック。そんな、ありきたりで、誰かの日常のニュースの一コマにしかならないような事故だった。
でも、それで壊された僕らの日常は、一生モノの傷になった。
2人とも意識不明の重体だったらしい。僕を庇おうとした彼は僕より重傷で、病院に運び込まれる頃には心肺停止の状態だった。
救急車に乗せられた、僕の意識が飛ぶ寸前、閉じた瞼の下で響く電子的な鼓動の音が、僕を余計不安にさせた。彼の鼓動はいつだって優しくて、ずっと僕を安心させてくれたのに、今日ばかりはその鼓動が怖かった。
僕が目を覚ましたのは、それから3日後のことだった。目を開けた瞬間の眩しいくらいの白と、泣き崩れる両親の声をよく覚えている。
しかし、目覚めた瞬間の僕はそれどころではなかった。涙が止まらなくて、視界が滲んで、音が遠かった。
目が覚める、恐らく数十分前。僕は、淡い夢を見ていた。どこかも分からないふわふわした空間で、彼の膝に頭を預けて、優しく優しく髪を梳かれている。
どこかは分からなかったけれど、酷いくらい心地よくて、ずっとそこにいてもいいかとぼんやり感じていた。
不意に彼が手を離して、少し眉根を寄せて、泣きそうな目をして笑った。
背中に手が触れて、軽く前へ突き出された。僕は柔らかなそこから追い出されるように、真っ逆さまに落ちていく。
その寸前、名残惜しそうな彼の唇が、掠めるように僕の唇に触れて、離れた。
結局、彼の意識は戻らなかった。僕の代わりになったんだと思う。
なんともありきたりで、なぞり尽くされた物語。
けれど、あの夢が醒める寸前の唇が、手が、目が、全部が焼きついて、僕の人生から離れてはくれないのだ。
テーマ:夢が醒める前に
「ぐぬぬ……」
俺はしがない無名の作家だ。
そんなに人気でもない雑誌の片隅で、掲載させてもらっている。
当然これだけで食っていけるはずもなく、夜にはバイトを詰め込んで、寝不足でフラフラのまま筆を執る生活を、もう何年も続けている。
さて、そんな俺だが、最近ようやく、少しずつ軌道に乗ってきたのだ。
じわじわと固定のファンが増え、僅かながらにファンレターが届くようになった。
そこで、少し長めの作品を掲載をしてみないか、と声をかけられたのだ。
だが、短編作家が中編を書くのは中々に難しい。
オチは思い付く。書き出しもなんとかなる。ただ、そこを繋ぐ間が、全く書けない。
初回は安定を狙おうと、王道の恋愛モノにしたのは間違いだったかもしれない。俺は生まれてこの方、恋人なんてできたこともない。
「……恋って何だよ……」
哲学的な問いを口にしてみても、現状は何も変わらない。相変わらず繋ぎは白紙のまま、中途半端な恋模様が画面上を漂っている。
今日はもう無理かと諦めて、キーボードから手を離した。息抜きに糖分でも摂ろうかと思い立って冷蔵庫を覗くも、何もない。
そういえば、散歩は閃きの元だと誰かが言っていた気もする。散歩がてら、コンビニにでも行こうと適当に上着を羽織った。
もう雪はすっかり溶け切っていて、梅の蕾が綻んでいた。まだふっくらしている野良猫が、同じく丸々とした雀を追い回すのを横目に、煌々と明かりの灯るコンビニに足を踏み入れた。
気の抜けた店員の声に頭を上げ、固まる。
顔面国宝、そんな言葉が頭を駆け抜ける。男でも見惚れるような、気怠さを孕んだ、いかにも夜が似合いそうな男だった。
俺は本来の目的も忘れて意味もなく店内を歩き周り、ぼんやりしたままコンビニスイーツを買って帰路についた。
恋愛モノのヒーロー役のモチーフが彼になったのは、言うまでもない。
あの時の感情を好き勝手書き殴って、俺はもはやヒロイン気取りまであった。
仕方がない。だって、不覚にも男相手に胸が高鳴ったのだ。作家として、これをネタにしない手筈はない。
その日の原稿は、いつもより少しだけ人気を博したらしい。
テーマ:胸が高鳴る
ぷるりとした露を、紫陽花の葉の上から滑り落としてみたり。
あるいは、道に落ちたカラカラの落ち葉を勢いよくふ(つぶしてみたり。
そういう、どうしてもやりたい、説明のつかない破壊衝動は、きっと皆持っている。
普段は、その矛先が人間でないからと見て見ぬふりをして、あまつさえ外でそれらの欲求を満たしている。
そんなのは許されるのに、何故僕は許されないのだ。
自分一人に向かって集中するカメラのフラッシュと、軽蔑と好奇心を孕んだ人々の不躾な視線が、僕を真正面から貫いていた。
昔から、破壊衝動の抑えられない子供だった。
友達の作ったブロック製の城や砂の山なんかを、衝動に急かされるままに壊しては友達を失ってきた。
端から見れば、僕は最低最悪の人間なのだろう。
人様のものを壊して、それで喜んでいるのだから。
それはいい。だって、事実だ。
僕が他人のものを無許可に破壊したのも、それが楽しかったのも、全部事実だ。
僕が気に食わないのはそこじゃない。
僕が嫌なのは、清廉潔白を装って僕を叱る、正義ヅラした肉塊たちの存在だった。
皆、本質は僕と同じくせに。
僕なんかより、ずっと巧妙に、ずっと気味の悪い衝動を隠し持っているくせに。
僕に向いたフラッシュは、君たちの抱える衝動の化身だ。
無責任に、他人の落ちぶれる様を見たい。
めちゃくちゃになった他人の人生を、あくまで他人として消費したい。
皆、そう思っている。
モノを壊して喜ぶ僕と、ヒトを壊して喜ぶ君たち。
どうして僕がそんなに責められなくてはならない。君たちの秘めるその衝動のほうが、ずっとずっと醜くて汚いじゃないか。
幼稚な僕は、その不条理と苛立ちを堪えきれなかった。
僕の破壊衝動はその日、初めて人間に向けてふるわれた。
テーマ:不条理
クラスメイトが鳥になった。
よく晴れた、高校3年の春の話だった。
そんなに話した奴でもないし、彼の友達もぱっと思いつかない。端的に言って、彼は目立たない一匹狼タイプだったのだ。
だから、好き勝手噂が流れた。
『進路のことで親と揉めた』、『実はいじめられていた』、果てには、『誰かにそう言われた』なんて陰謀論じみたものまで。
誰も、彼が飛んだ本当の理由を知らない。俺だって、知らないはずだった。
彼が屋上から飛んだ日の、3日前。俺は彼に呼び出されていた。
話したことはほとんどない。文化祭の準備の時に2,3言話したかどうか程度だ。
「ああ、来てくれたんだ。ありがとう。」
梅の蕾を綻ばせる春の穏やかな日差しの下、彼はそう言った。
思えば、彼の顔を真正面から見たのはあれが最初で最後だった。
泣きそうに歪んで、目尻に溜まった涙が日差しを受けてきらきらと宝石のように光っていた。
なのに口元だけが不器用に吊り上がっていて、道化師の化粧のような、バラバラでおかしな顔だった。
結局、俺と彼はその日、くだらない話をして終わった。
どうして俺が呼び出されたのかは分からなかった。
ただ、好きなゲームの話をして、学校の愚痴で若干盛り上がって、彼の目尻の涙が引いたことに安堵していた。
なんとなく、彼がもうすぐいなくなるだろうことは肌で感じていた。
溶けていく道路の雪や、海に落ちていく茜色の夕日、色を失っていく紅葉に、散り始めの桜。
そんなような空気を、彼は纏っていた。
3日後、彼が鳥になった時、俺は泣かなかった。
周囲の奴らも、ショックは受けていたが、そのショックはあくまで、一時的な面白い話題程度で終わった。
俺だけが、あの日の屋上に囚われている。
本当は、泣きたかった。あの日、あんなに穏やかに笑う彼の横顔を知ってしまったから。
彼の左袖に隠された包帯も、長めの前髪が隠していた隈も、無垢な子供のような光を含んだ瞳も、熟れた苺のような唇も、全部、全部、もう俺しか知らない。
そのことが嬉しいような、悔しいような、独占欲と拡散欲がぐちゃぐちゃになった、泣きそうな笑顔を浮かべていたと思う。
けれど、泣かない。俺は、彼が飛んだ本当の理由を知らない。その鱗片に触れただけだ。
きっと、彼は俺に他人でいてほしかった。だから、俺は絶対、彼の話では泣いてやらないのだ。
テーマ:泣かないよ
僕は怖がりな人間だった。
選択に責任を持つのが怖くて。何も選べない人間になった。
選択肢を出されても、誰かが先に選ぶまで、何もできない。
人生に責任を持ちたくなくて、常に誰か、責任を持ってくれる存在が欲しかった。
そんな時、彼と出会った。
常に誰かの主導権を握りたくて、誰かの人生が欲しくて仕方ない彼。
彼と僕は、奇跡的なまでに相性が良かった。
何も選べない僕の選択肢を、彼が選んでくれる。
自分で責任を負わなくていい人生というのは楽なもので、失敗しても何も気負わなくていい。誰にも責められない。
彼は僕を支配したいらしい。
僕がいい子にできたら、たくさん褒めてくれる。
歪んだ関係なのは分かっている。でも、あまりに心地よかった。
人生が怖い僕は、誰かの犬として生きる方が楽だった。
飼い主のくれる甘い甘い餌だけを食べて、温かい部屋でぬくぬく過ごしているだけでいい。
なんと甘美で、楽で、素晴らしいのだろう。
彼も楽しいみたいだ。
僕という、意志のある一人の人間の人生の選択権を握ることに、ただならぬ快楽を得ている、
彼も、怖いのだ。
自分で何も選べず、他人にとって薄味な人生を送るのが。
だから、他人の人生を支配して、覚えてもらおうとしている。
僕らは正反対なようで、よく似ているのだ。
2人とも怖がりで、歪で、どうしようもない。
世界を怖がる僕たちは、今日も互いの欠けたところを、歪に出っ張った部分で埋め合って生きている。
怖がりに厳しいこの世界で出会えた僕らは、きっと曲がりなりにも運命なのだろう。
テーマ:怖がり