静かな街を一人で出歩く。
空はもう真っ暗で、街灯もない道を頼りなく月明かりが照らしていた。
行き交うトラックの運転手が向ける不審そうな目も、冷たい夜の空気で冷えていく頬も、今はもうどうだっていい。自暴自棄を起こした人間が何をするか、今から世間に教えてやるのだ。
心の形をつくっていた殻がぐずぐずに崩れ落ちて、腐って、ダメになっていく感覚を、きっと世間は知らない。
そこそこの成績で学校を卒業して、それなりに苦労して就職して、そこそこの地位を築いて、結婚して、子供を作って、なんて、誰もが思い描く、何より贅沢で幸せな「普通」を知る者は、俺のような弾かれた人間のことを知らない。
中学校までは、いい子だった。テストの点も上の中、提出物はギリギリにやり始めて期限内に提出。優等生とまではいかずとも、普通に生きていけるだけのいい子。
それが、高校1年生のときに壊れた。夏休み明けの2学期、気怠げなセミの鳴き声が響いていた。
1学期、俺は頑張った。高校生になったからと、中学生の頃はギリギリに始めていた課題も計画的に終わらせ、自主的に勉強をしてテストの点も少しは上がった。
だが、そのせいで燃え尽きた。体が重くて、ベッドから起き上がれない。携帯の放つ青白い光が消えた途端に涙が止まらないから、麻酔のように情報の濁流を浴びるのがやめられない。
いつしか成績は地の底まで落ち、提出も出せない不良品へと成り果てた。
初めは、自罰的な考えがずっと頭を満たしていた。早くできるようにならないとダメだと、社会的にダメな大人になってはいけないと、良くも悪くも、まだ社会の決めたレールから、逸れてはいなかった。
けれど、ある日。渦潮のように渦を巻いていた自罰的な俺の考えが、ふと止まった。
何故、自分よりずっと恵まれた者達が決めたルールに、型に嵌まらなくてはならない。何故、俺ばかりがこんな思いをしなくてはならない。
俺はその日、包丁を買った。
中学生の頃の真面目さは変に捨てきれなくて、律儀に持ち手に布を巻いて、滑らないよう、一度抱いた刃を手放さないようきつく縛った。
そして、今日。月の光が冷たく照らす夜に、俺は適当に目をつけたアパートの入り口を堂々と潜った。
オートロックなんて無い、田舎の集合住宅。
家々のインターホンを片っ端から鳴らし回って、鞄に忍ばせた刃に手を掛けて、不審がった獲物が顔を覗かせるのを、待っていた。
テーマ:月夜
裏社会の人間が、まともな死に方をできるはずがない。
そんなことは分かっていた。分かっていた、つもりだった。
目の前で冷えていく兄だったものを前に、俺はただ打ちひしがれていた。
今日は1日中、酷い雨だった。少し先の視界さえ霞んで見えるほどで、コンクリートの冷たい地面が、含みきれなかった水で満ちて鏡のようになっていた。
ちょっとした抗争だろうと、そう思っていた。いつものように、部下にでも向かわせればすぐに片付くだろうと。
けれど、送り込んだ部下十数人は、いくら待っても戻っては来なかった。
様子見で送り込んだ下っ端も下っ端の雑魚だったし、次で終わるだろう。そう誰もが思っていた。
でも、次に送り込んだ幹部級の強さの者達でさえ、戻っては来なかった。
流石におかしい。これは、ただの抗争ではない。
でなければ、苛烈な訓練と死線を潜り抜けてきた先鋭とも呼べる幹部達が死ぬはずがない。
そこで、首領たる俺達が向かったのだ。
最後の一人だったのだろう幹部が、最期に送ってきた場所。雨の降りしきる廃倉庫は、死屍累々としていた。
確かに送った部下達が、物言わぬ肉塊となって辺りに雑多に散らばっていた。
見知った顔も多い。俺達に近かった幹部も既に事切れているようだった。
溢れた血肉で彩られたレッドカーペットの上に、硬質な革靴の足音が響いた。それが、終わりの始まりだった。
相手はその辺りのゴロツキなんかじゃなかった。隣の大陸から潜り込んでいた、俺達よりずっと大規模で、ずっと強いマフィアのボス。
力量差は明確だった。俺達に勝ち目はない。それでも、やれるだけやろうと、兄はそう言った。
それは戦いなんかではない。一方的な蹂躙。技術も、獲物の性能も。何もかもで負けていた。
奴が銃口をこちらに向けた時、俺は終わりを悟った。黒々とした金属の塊が、俺を貫き殺そうと静かに口を開いている。
だが、その口から吐き出された鉛玉を喰らったのは、俺の心臓ではなかった。
兄の、腹。人体の中で最も柔く、脆く、重要な部位。そこに、風穴が空いた。
碌な死に方をするとは思っていなかった。けれど、こんなのあんまりじゃないか。
溢れていく兄の命の温もりを、俺は止めることもできない。しとしとと降り注ぐ雨は、兄の痕跡さえ遺してはくれなかった。
これが俺達の絆の結末なら、こんな結末だと分かっていたのなら、初めからこんな絆なんて無ければよかった。
そうすれば、この、裏社会で首領なんてやっているクセに無駄に優しくて、首領のクセに前線にでて部下を庇うような、生傷の絶えなかった兄が死ぬことは無かったかもしれないのに。
改めて自分に向け直された銃口を前に、俺は兄の左手の薬指を強く強く噛んだ。
幼稚な執着だ。未来でもしも生まれ変われるのなら、もう一度見つけられるように。結婚指輪の紛い物は、俺が兄を縛り付けるためだけの、愛なんかよりずっと汚くて重たい想い。
兄の味が口に広がって、雨の降る街に似合わない銃声が一つ響いた。
テーマ:絆
『あ、女の子先帰ってていいよ〜!あとは男子でやっとくから!』
『じゃあ、今日は持久走やるぞ。女子は1000mで男子は1500な。』
思い返せば、こんなことばかりだ。
女の子になりたいとか、女の子だけずるいとか、男子も同じように扱うべきだとか、そういうわけではない。
もちろん、生物学的に見て、男という性よりもある意味弱く作られている女性は、労り、大切にすべきなのだろう。
男性を軽んじるわけでもないが、世の中の風潮にはそんなものがうっすら漂っている。
男子なんだから耐えられる、大丈夫だろう、やるべきだ。
けれど、僕はただの一度だって姉に勝てたことはない。
運動会のかけっこも、テストの成績も、大好きなおやつの最後の1個を賭けたじゃんけんだってそうだ。
「弱いから」女性を丁重に扱わなければならないとして、女性より弱い男性がいたら、その人はどうなるのだろうか。
僕のような、どちらの性にもいまいち馴染めない半端物は、この世界でどうやって生きていたらいいんだろうか。
今日も、無意味な問いばかりが頭を巡る。
僕だって、片付けをやらずに帰りたい。1500メートルも走りたくない。
今世で女の子になりたいわけじゃないけど、来世の性別を選べるなら女の子がいい。
有り体に言ってしまえば、幼稚な嫉妬である。
自分にとって都合がいいから、こんなことを言うのだ。自分は、女性の苦労も、努力も、これっぽっちも知らないのだから。
でも、今日は少しだけ、世界が僕に優しかった。
いつも男子に片付けをやらせる先生が、不平等だからたまには、と女子に片付けをやらせた。男子は珍しく先に帰れた。
模擬試験の結果で、初めて姉に勝てた。
小さなことである。生物学的な違いが埋まったわけでも、根本的な解決でもない。
それでも、僕は嬉しかった。たまには、僕だって大切に見られるんだと、そう思えたから。
本当は、男女なんてどうでもいい。たまには、たまにでいいから、僕も、誰かに大切に思われて、丁重に扱われてみたい。
それだけの、話だったのだ。
テーマ:たまには
ある日、僕のもとに天使がやってきた。
天使と言っても、比喩的なものだ。綺麗な羽根も、ピカピカ光る輪も無い。
色素の薄い、ミルクティー色の髪。長めの前髪に遮られて、ぼんやりとした光を湛える翳った瞳。
片田舎の入院病棟に舞い降りた、きれいでかわいい、僕の天使。ふわふわの髪も、寝起きの潤んだ瞳も、全部、僕だけが知っている。
同じ病室に入院しているから、僕は彼について色々なことを知っていった。
両親は彼に無関心なこと、祖母に預けられていること。そして、きっともう長くないこと。
彼は、いくつかの内臓がダメになっているらしい。いつも、たくさんの管に繋がれて、僕には分からない難しそうな機械で何かしている。
ずっとここにいる僕は、学校にも行ったことがなくて頭が悪いから、難しいことは分からない。彼の病気のことも、僕の病気のことも。
彼は時々、僕を見てすごく寂しそうな目をする。そういう時はいつも、彼の痩せた手が静かに頭を僕の撫でて、冷たい指先が頬の骨をなぞるのだ。
その意味は僕には分からない。けれど、撫でてくれる彼の手は優しくて、ひんやりしていて、好きだった。
毎晩、彼は苦しそうに咳をしている。肺がダメになってきていると、彼を診ていた先生が言っていたのが聞こえた。
同時に、僕の具合も悪くなっていった。段々ご飯が食べられなくなって、少しずつ体も動かしにくくなっていた。でも、きっと彼も辛いから、余計な心配をかけなくなくて、いつも彼が寝てからトイレでこっそり吐いていた。
それがよくなかったみたいだ。ある夜中、僕は急に立てなくなった。その時先生に色々並べ立てられて知ったけど、僕のダメになっていたものは脳らしい。もう声を出すのも大変だったけど、どうしても、どうしても言いたいことがあった。
あの、すりガラスみたいな瞳がまぶたの裏に隠されてしまうのは、きっと惜しいことだから。だから、僕は先生にお願いした。
僕がダメになったら、僕の中身を彼にあげて、と。僕と彼は背格好も似ていたし、大丈夫だと思った。本当にあげられるかは、知らないけど。それでも、もしダメな僕の中身が使えるのなら。大好きな君に、全部あげたいと、そう願って。僕は、目を閉じた。
テーマ:大好きな君に
町中が、桃·淡緑·白の如何にもな春色に染まっている。
そこら中の店で流れるのは、三味線やらで演奏された、曲名も知らない和風の曲。
これらの要素により構成されていたのが、雛祭であった。
古そうな店の前に置かれた立派な七段雛は、誰も彼もが澄まし顔をして、凛とその場に佇んでいた。
桃の節句。女の子の健やかな成長を願う日。それが雛祭である。
けれど、僕は、男である僕は、それが妬ましくて妬ましくて、仕方なかった。
色とりどりと吊るし雛も、豪華絢爛とした雛人形達も、全部僕の頭に焼き付いて離れない。
端午の節句の兜より、やわらかい布を纏った雛人形が好きだった。
硬く無骨な柏の葉に包まれた柏餅よりも、可愛らしい色合いで飾られている菱餅の方が好きだった。
生まれる性別を間違えたような僕は、今日も中途半端なまま生きている。
家に帰ると、仏間に雛人形は飾られていなかった。
当然だ。家は男ばかりの家で、祖母や母といった外部の女性を除けば、生まれる子供は皆して男児だった。
憧れを見ることさえままならない現実が、嫌になってくる。だから、家を抜け出した。もう補導されるような時間だったけれど、それでもよかった。やっぱり、もう一目でいいから、あの可愛らしい人形達を見たかった。
真っ暗な中を静かに歩いて、昼間歩いたあの町へ下りる。町はしんと静まり返っていて、和風チックな曲の欠片一つさえ聞こえない。聞こえるのは、古めかしいデザインのネオンを光らせるスナックから漏れる、酔っぱらいが歌うふにゃふにゃのラブソングばかり。
町中にあったはずの雛人形は、誰一人として残される事なく仕舞われてしまっていた。
雛人形を仕舞い忘れると婚期を逃す、なんて言われているせいが大きいのだろうか。
その気持ちも理解できない僕は、根本的に女の子にはなれない。抜け出してきた町の中、すっかり終わった雛祭に取り残された僕は、胸の中に引っかかる黒く淀んだ澱に満たされて、あの可愛らしい春色とは正反対の色に自分が染まっていく、そんな幻覚を見た。
テーマ:ひなまつり