俺は生粋のサディストである。恋愛的指向の話でも、性癖の話でもない。俺という存在を形作る概念として、サディストが自然と組み込まれている。
対象は、何も人間には限らない。それは可愛らしい子犬であるかもしれないし、あるいはSFに出てくるような、無骨で力強い無機物かもしれない。
破壊が好きなのでもない。俺はあくまでも、対象の、苦しみの中にある微かな希望の光や、終わらない感情の波に押し流されそうになっている姿が好きなだけなのだ。あえて言うのなら、破壊と苦しみの中に潜む、抗い難い悦びや希望を手放せずにいる矛盾を抱えたものが、好きなのである。
そんな俺は、遂に出会ってしまったのだ。これまで見てきたどんなものより、苦難に喘ぐ顔が似合って、その瞳に宿る、薄くぼんやりとした希望の光が潰えない男。
彼は一瞬にして俺の性癖をめちゃくちゃにしていった。性的志向さえ変わってしまいそうなくらいだ。きりりと釣り上がった眉と、高飛車でプライドが高そうな吊り目。きゅっと引き結ばれた唇は薄く繊細で、どこか純血で気高い血統書付きの猫のような雰囲気の男だ。
ある日、俺は見てしまった。営業部の成績発表の日、僅かに1位に届かなかった彼の顔が、微かに引き攣ったのを。その顔が妙に心に残って、言い換えれば色っぽくて、後を尾けてみれば、誰もいない資料室に彼の嗚咽が響いていた。
俺は瞠目した。あの高飛車な彼が、あんなに上品に、淑やかに泣くのかと衝撃を受けた。そのいじらしさと、赤くなった目元や鼻先があまりに愛しくて、俺はその日、初めて男のことを夢に見た。
その日からである。俺がこれまで以上に営業部での成績にこだわりだしたのは。元々1位だった俺との差が開くたび、彼は必死になって喰らいついてくる。それでギリギリまで迫ってきた頃、俺も本気になって差を広げる。そうすると、なんともまぁ、酔狂ではあると思っている。彼はそのプライドに見合った努力ができる人間であり、それが余計に俺の性癖によく刺さる。
今日も今日とて、彼に小さな敗北感を与え、俺は密かに笑みを浮かべる。この彼への愛おしさを、今すぐにでも上等なレターセットに綴ってしまいたかったが、それはしない。
彼には、俺がこんなことを考えているとも知らず、ただ純粋に、勝てない悔しさの中の希望を見続けていてほしいのだ。
テーマ:どこにも書けないこと
俺には幼少期の記憶がない。幼い頃事故に遭って、それで記憶が飛んだらしい。本当かは知らない。だが、幼少期の記憶なんて、無くたってそこまで困ったことはなかった。誰もが幼い頃のことを少なからず忘れているから。
ただ、一つだけ。記憶が無くて困ったと思ったことがあった。困ると言っても、重大なものではない。少しモヤモヤする程度だ。それでも、気になることに変わりはなかった。
俺の部屋にある、壊れて動かない時計。それが気掛かりだった。短針の無い、長針の曲がった時計だ。本来時計の盤面を覆っている、ガラスなり樹脂なりのカバーは割れていて、針に触れることができた。この時計を見る度俺は、言いようもない不安感と、失った記憶に対する焦燥が僅かに積み重なっていく。それが不快で仕方ない。
けれどまぁ、それだけだ。少し気になりはしても、深掘りしようとは思わない。思わなかった。ついさっきまでは。
唐突な転校生の存在を告げられ、朝から俺のクラスは騒がしかった。こんな田舎の学校に転校してくる者は、そう多くないからである。俺はそこまで興味を惹かれなかったし、転校生がどんな人物かを熱心に予想して語る友人が鬱陶しいな、程度にしか思っていなかった。
転校生は男で、この学校の、絶妙にダサい、古臭いデザインのブレザーさえ着こなすスタイルと顔面の持ち主だった。男子は露骨にしょげて静かになり、反対に女子は騒がしさを増す。その騒ぎの渦中にいる転校生が、俺の方を見た気がした。
放課後になって、帰ろうとしていた俺に、彼は静かに近付いてきた。何故か満面の笑みにも等しいような笑顔で、手には何かを握っている。
「ねぇ、僕のこと覚えてる?」
俺はかなり返答に詰まった。幼少期の知り合いだとしたら、覚えていないのだ。しかし、それを正直に言うのも少し憚られる。
俺が言葉に悩んでいると、彼は更に笑みを深めて、形のいい唇を歪めて言った。
「覚えてないんだよね、知ってる。……見覚え、あるでしょ?」
彼の手に握られていたのは、どこかで見たようなデザインの、針。根元の丸い穴と長さを見るに、たぶん時計の短針。
ふと、あの時計を思い出した。短針の欠けた時計。俺の心にずっと引っかかっていたもの。
「久しぶりだね。まぁ、君は覚えてないだろうけど。」
歪に歪んだ針が噛み合って、放課後の教室に響く時計を進める音が、静かにカチリと溶けていった。
テーマ:時計の針
僕の家は、少しだけ変わっている。家庭環境がどうだとか、間取りがどうだとかいった話ではない。少しばかり、置いてあるものが変わっているのだ。
僕は昔から寂しがりで、常に人の温もりを求めていたらしい。記憶も残っていないような、物心がつく前の話でも、大抵、誰かに抱っこを求めている。
そんな寂しがりな僕は、よくいる男の子のような趣味はあまり育たなかった。かっこいいロボットに憧れたり、カラフルなブロックで銃を作ったりするような趣味は、僕の心にそこまで響かなかったのだ。
代わりに僕が熱中したのが、人形遊びだった。初めは、人の温もりに代えるように、可愛らしく、柔らかく、温かなぬいぐるみから始まった。いつの間にか僕の部屋はぬいぐるみで埋め尽くされ、初めて買った一人用のベッドも可愛らしいパステルカラーのものだった。
中学2年生の時だっただろうか。僕に転機が訪れた。ぼんやり眺めていた動画サイトで、ある作家に出会った。その人は人形作家で、音楽も解説も無く、ひたすら人形作りの映像だけを投稿していた。初めはのっぺらぼうのようだった球体関節人形のヘッドに、アイホールが空き、可愛らしい顔がメイクされ、最後に、うるりとした樹脂製の瞳を嵌め込まれる。途端に人形は魂を宿したかのように生き生きとした表情をして、綺麗な服で着飾って、可愛らしい写真をたくさん収めてもらう。僕は、人形の世界にどっぷり浸かっていった。自分で人形を自作し、ネットオークションでこれまでの貯金を使い果たすほど人形やら用品やらを買い漁り、充実した日々を送っていたのだ。
初めて参加したドールイベントの日、僕の人生はまた変わった。僕の愛した人形のように、滑らかな肌と長い睫毛、潤んだ瞳とぷっくりとした唇を持つ、天使のように綺麗な男の子だった。
彼と僕は、人形を接点にすぐに仲良くなれた。元々、可愛らしいドールを好む男性が少ないのもあって、意気投合の速度は異常なまでに早かっただろう。
それから、僕にはもう一つの趣味ができた。人形を着飾らせるように、彼を美しく飾っていく。元々見た目のいい彼は、どんな服を、どんなふうに着せてもよく似合った。
ぬいぐるみも、ドールも、彼も。全部そうだった。僕は、依存心が強いらしい。気に入ったものはずっと側に置きたい、離したくない。いつまでも綺麗に飾って、自分の部屋で眺めていたい。
そんな思いが溢れた今日、僕は僕の部屋に、蜘蛛の巣のようにリボンや毛布でデコレーションされた、甘ったるいまでに可愛らしい部屋に、彼を誘い込んだ。
テーマ:溢れる気持ち
ずっと昔、まだ僕が小さかった頃、僕はおとぎ話に憧れた。かっこいい、女の子の憧れるような王子様がいて、綺麗で可愛くてキラキラしたお姫様がいる。そんな、現実離れしたような、夢のような世界観が、昔から好きだった。
そんな僕の性分は、大きくなってからも変わらなかったようだ。やる気の無い家庭科部の部室の中、一人だけ意欲的に活動している僕は、ぼんやり昔に浸っていた。今は、昔憧れたような、キラキラでふわふわのドレスを縫っている最中だ。
「ふぅ……」
ひとまず形が出来上がってきたところで、一息ついた。まだまだ縫い付けなくてはならない飾りはたくさん残っているし、一部の縫い目はまだ仮縫いのままだ。それでも、少し奮発して買った滑らかな布は、見ているだけでも気分が上がってくる。
このドレスは、文化祭で使うために縫っているのだ。僕らのクラスは演劇担当、演じる演目は白雪姫。おとぎ話の定番の物語に、その時点で僕はかなりテンションが高かった。それなのに、お姫様のドレスの製作まで任せてもらえるようになったのだ。衣装の合わせの日までお姫様役は秘密にしておきたいらしく、寸法だけが伝えられた。幸い、僕と近い体格の子が担当のようで、製作にはそこまで苦労しなさそうだ。
文化祭の準備はいよいよ佳境へと入り、僕の作ったドレスも遂に合わせの時がきた。ドレスを持って指定の場所に行くと、見覚えのある顔、僕の幼馴染がそこにいた。
「遅ぇ。」
眉間に皺を寄せて言われ、僕は思わず萎縮してしまう。成長期にあまり背が伸びなかった僕より随分大柄な幼馴染は、立っているだけで威圧感に怯んでしまうのだ。
「え、えっと……や、役の子は……?」
「は?お前聞かされてねぇの?」
僕はきょとんとした。だって、秘密だと聞かされていたのだ。
「え?な、何が……?」
僕の言葉に彼はますます眉間の皺を深め、態とらしい溜息を零した。
「……お前だよ、姫の役やんの。」
そう言われ、僕は更にきょとんとして、彼の顔を見た。彼の顔は何故か真っ赤で、頬を隠すように手の甲が寄せられていた。彼は大きく顔を背けて、それからぼそりと独り言のように言葉を零す。
「……王子役は俺。……嫌なら辞退しろ。お前の体格で作ってんなら着れる女子もいるだろ。」
今度こそ絶句した僕は、少しだけ、劇のことを考えてみた。演目は、白雪姫。王子のキスで、お姫様は目覚めるハッピーエンド。他の女子が彼に口付けをされるシーンを想像して、何故か心に何か靄のような違和感がよぎった。
「や、やるっ!せっかく作ったし……」
言い訳のように言葉を並べて、なんとか取り繕う。気を抜けば、僕も彼のように、真っ赤な顔をしてしまいそうだった。
演劇なんだから、当然本当にキスをするはずがない。それでも僕は、彼の唇が僕のそれに重なるのを想像して、唇にじわりと熱が広がるのを感じていた。
テーマ:Kiss
「やっぱりここにいた。」
古い校舎の古いドアは、開けるたびに壊れないか不安になる音を立てる。埃っぽい空気を抜け、薄暗い廊下の突き当たりまで進むと、彼の居城、美術室がある。授業では新校舎の美術室を使うので、この旧校舎にある美術室は、もうほとんど彼専用と言っても過言ではない。正確に言えば美術部専用だが、その美術部は彼しかいないのだから。油絵具の匂いに満ちた空気が、俺は嫌いではなかった。
「……また来たの。君も飽きないね。」
少し呆れたように言う彼も、何度も通ううちに諦めたのか追い出してはこなくなった。
「だって君の描く絵、好きなんだもん。」
彼の目の前にある、そこそこ大きめのキャンバスに目をやる。油絵具が何層にも重なったそれは、不透明なはずの色なのにどこか澄んでいて、景色の、一時の透明感を切り取ったような淡さを孕んでいる。
「……そう。」
それだけ言って彼は、またキャンバスに向かい始めた。細やかな筆先が緻密に色を置いて、ほんの少しずっと積み重なって景色の一つになっていく。異質だった色が、最後には当たり前として絵に馴染んでいく工程が、なんとなく好きだ。
「それ、なんかコンクールとか出すの。」
問いかけるようで、独り言のような、曖昧な声が漏れた。この絵を自分しか知らないのが、少しだけ勿体ないような気がして、そんなことを口走ったのかもしれない。
「……出さない。面倒くさいし。」
釣れない返答が返ってくるのも予想通りだ。予想通りとはいえ、残念には思う。でも、どこか頭の片隅で、自分だけがこの世界を知っているのだと、彼と二人きりの秘密を共有している気がして、心の隅がむず痒くなった。彼の世界は、この先も、ずっとずっと続いていくのだろうか。自分は、それを見ていられるのだろうか。
「……油絵って、ずっと昔の作品もちゃんと残ってるよね。」
「……ちゃんと価値があるって認められて、守られてたものだけでしょ。」
それなら、彼のこの絵も、何千年も残るのだろうか。少なくとも自分にとって、名画とされる油絵達のどれよりも、彼の手で拓かれたこの小さな世界の方が美しく、価値のあるものに見えた。十年、百年、千年先だって、僕はこの絵を見ていたい。
けれど、彼は世間に世界を晒すことを嫌がるから、きっとこの世界は守られずに朽ちていくのだろう。千年先の未来なんて、どうせ僕も死んでいるけれど、この世界には、千年先にも続いていてほしいなんて、ぼんやり考えたりもした。
テーマ:1000年先も