「やっぱりここにいた。」
古い校舎の古いドアは、開けるたびに壊れないか不安になる音を立てる。埃っぽい空気を抜け、薄暗い廊下の突き当たりまで進むと、彼の居城、美術室がある。授業では新校舎の美術室を使うので、この旧校舎にある美術室は、もうほとんど彼専用と言っても過言ではない。正確に言えば美術部専用だが、その美術部は彼しかいないのだから。油絵具の匂いに満ちた空気が、俺は嫌いではなかった。
「……また来たの。君も飽きないね。」
少し呆れたように言う彼も、何度も通ううちに諦めたのか追い出してはこなくなった。
「だって君の描く絵、好きなんだもん。」
彼の目の前にある、そこそこ大きめのキャンバスに目をやる。油絵具が何層にも重なったそれは、不透明なはずの色なのにどこか澄んでいて、景色の、一時の透明感を切り取ったような淡さを孕んでいる。
「……そう。」
それだけ言って彼は、またキャンバスに向かい始めた。細やかな筆先が緻密に色を置いて、ほんの少しずっと積み重なって景色の一つになっていく。異質だった色が、最後には当たり前として絵に馴染んでいく工程が、なんとなく好きだ。
「それ、なんかコンクールとか出すの。」
問いかけるようで、独り言のような、曖昧な声が漏れた。この絵を自分しか知らないのが、少しだけ勿体ないような気がして、そんなことを口走ったのかもしれない。
「……出さない。面倒くさいし。」
釣れない返答が返ってくるのも予想通りだ。予想通りとはいえ、残念には思う。でも、どこか頭の片隅で、自分だけがこの世界を知っているのだと、彼と二人きりの秘密を共有している気がして、心の隅がむず痒くなった。彼の世界は、この先も、ずっとずっと続いていくのだろうか。自分は、それを見ていられるのだろうか。
「……油絵って、ずっと昔の作品もちゃんと残ってるよね。」
「……ちゃんと価値があるって認められて、守られてたものだけでしょ。」
それなら、彼のこの絵も、何千年も残るのだろうか。少なくとも自分にとって、名画とされる油絵達のどれよりも、彼の手で拓かれたこの小さな世界の方が美しく、価値のあるものに見えた。十年、百年、千年先だって、僕はこの絵を見ていたい。
けれど、彼は世間に世界を晒すことを嫌がるから、きっとこの世界は守られずに朽ちていくのだろう。千年先の未来なんて、どうせ僕も死んでいるけれど、この世界には、千年先にも続いていてほしいなんて、ぼんやり考えたりもした。
テーマ:1000年先も
2/4/2026, 7:41:26 AM