俺には幼少期の記憶がない。幼い頃事故に遭って、それで記憶が飛んだらしい。本当かは知らない。だが、幼少期の記憶なんて、無くたってそこまで困ったことはなかった。誰もが幼い頃のことを少なからず忘れているから。
ただ、一つだけ。記憶が無くて困ったと思ったことがあった。困ると言っても、重大なものではない。少しモヤモヤする程度だ。それでも、気になることに変わりはなかった。
俺の部屋にある、壊れて動かない時計。それが気掛かりだった。短針の無い、長針の曲がった時計だ。本来時計の盤面を覆っている、ガラスなり樹脂なりのカバーは割れていて、針に触れることができた。この時計を見る度俺は、言いようもない不安感と、失った記憶に対する焦燥が僅かに積み重なっていく。それが不快で仕方ない。
けれどまぁ、それだけだ。少し気になりはしても、深掘りしようとは思わない。思わなかった。ついさっきまでは。
唐突な転校生の存在を告げられ、朝から俺のクラスは騒がしかった。こんな田舎の学校に転校してくる者は、そう多くないからである。俺はそこまで興味を惹かれなかったし、転校生がどんな人物かを熱心に予想して語る友人が鬱陶しいな、程度にしか思っていなかった。
転校生は男で、この学校の、絶妙にダサい、古臭いデザインのブレザーさえ着こなすスタイルと顔面の持ち主だった。男子は露骨にしょげて静かになり、反対に女子は騒がしさを増す。その騒ぎの渦中にいる転校生が、俺の方を見た気がした。
放課後になって、帰ろうとしていた俺に、彼は静かに近付いてきた。何故か満面の笑みにも等しいような笑顔で、手には何かを握っている。
「ねぇ、僕のこと覚えてる?」
俺はかなり返答に詰まった。幼少期の知り合いだとしたら、覚えていないのだ。しかし、それを正直に言うのも少し憚られる。
俺が言葉に悩んでいると、彼は更に笑みを深めて、形のいい唇を歪めて言った。
「覚えてないんだよね、知ってる。……見覚え、あるでしょ?」
彼の手に握られていたのは、どこかで見たようなデザインの、針。根元の丸い穴と長さを見るに、たぶん時計の短針。
ふと、あの時計を思い出した。短針の欠けた時計。俺の心にずっと引っかかっていたもの。
「久しぶりだね。まぁ、君は覚えてないだろうけど。」
歪に歪んだ針が噛み合って、放課後の教室に響く時計を進める音が、静かにカチリと溶けていった。
テーマ:時計の針
2/7/2026, 6:53:07 AM