君が遠い遠い異国の地に旅立ってから、早2年。普段は忙殺されて思い出すことも無い寂しさも、夜になればぶり返してくる。
そんな夜は、君と過ごしたあの夜をなぞるのだ。
カップにココアをたっぷり入れて、温めたミルクを少しずつ注いで。丁寧に練り上げながら淹れたココアに、またたっぷりのマシュマロを浮かべて少し炙る。君がよく、眠れないと嘆く僕に淹れてくれたココアだった。
一口口に含むと、笑ってしまうくらい甘ったるくて、胃の中からじわりと温もりが広がる。
この時間なら、向こうはまだ昼間だろうか。仕事が忙しくないのなら、いっそ電話でもかけてしまおうか。
そんな考えが浮かんだ頃にはもう、手にはスマホがあった。
無機質なコール音が数回響いて、それから少しだけ間を空けて、愛しい声がスピーカーを通して聞こえる。僕の知るものと変わりない、低くて落ち着いた、眠気を誘う声。
『もしもし?珍しいね、電話なんて。何かあった?』
そんなありふれた一言で泣いてしまいそうになるほど、僕は寂しかったみたいだ。心配させまいと声を出そうとしたが、僅かに息が漏れ、震えた嗚咽が零れるだけでまともに話せなかった。
『え、ちょ、な、泣いてる?大丈夫?』
あからさまに慌てだした声と背後から聞こえる紙束が落ちるような音。そそっかしい彼のことだ、仕事の書類でも落としたのだろう。
その光景を瞼の裏に映したら、寂しいなんて考えていた自分が馬鹿らしくなってくる。今度は笑みが零れて、けれどその笑い声は震えていて、なんだかもうめちゃくちゃだった。
彼の戸惑う声が耳にずっと響いて、すぐそばにいるようなそれに安堵した。僕は涙を拭って、きっと見えてはいないけれど、それでも彼が好きだと言った笑顔を浮かべて、口を開いた。
「……ばーか。気になるなら早く来てよ。……寂しいから。」
しばらくスピーカーの向こうが無音になって、それから派手に何かをひっくり返すような音がする。
『ぃ、いま、今なんてっ?』
困惑と申し訳なさ、それからどうしようもない愛おしさで蕩けたような声で彼が言うから、またころころと笑ってしまった。
テーマ:君に会いたくて
とにかく暇だった。成績は何もしなくても中の上くらい、友達は特にいない。打ち込めるような趣味も無く、かといって今更勉強に熱心に取り組むような気は起きない。
そんな単純で怠惰を極めたような理由から、俺は軽率に禁忌に手を出した。
きっかけは簡単なことだった。することもない休日、日が真上を通過するまで惰眠をむさぼっていた時。ふと目が覚めて、さっきまで見ていた夢が恋しくなった。
現実の、自分のよく知る自宅のような、けれど確実に違うどこかで、ふわふわとした何かと遊んでいる夢。何と遊んでいたのか、夢の中でも特に認識していなかった気がする。
柔らかく穏やかな、少し高揚した気持ち。段々目が覚めて記憶が薄れていくのが、何故か妙に勿体なく感じた。
それで、俺は目の前にあった適当なプリントの裏紙に、寝起きの崩れたふにゃふにゃの字で日記をつけた。
今読み返してみれば、読めたものではない。しかし、不思議と書いたあとはもう忘れなかった。
それからというもの、この習慣、所謂夢日記にハマった俺は、毎日のように日記をつけるようになった。初めは見るか見ないかもまちまちだった夢は毎晩見るようになり、次第に内容もよりリアルに、具体的になっていく。
やがて、それは現実と区別がつかなくなった。寧ろ、夢の方が、自分の思った通り、多少めちゃくちゃでも好きなようにできるのだ。俺は夢の世界に囚われて、現実との境目がどんどんぼやけていく。
それでも、夢日記はやめられなかった。あちらの世界、と今はまだ認識できている夢の中では、あのふわふわとした、柔らかな「友人」達が待っている。俺の好きな話しかしない、どれだけ話したって決して否定してこない。彼らは最高の親友となった。
またしばらく経って、いつも通り夢見心地で学校へ向かう。ここ最近は授業中に白昼夢を見るような時も増えた。もう、本当に、今自分がどちらの世界にいるか分からない。
珍しく、学校で僕に声をかけてくる者がいた。声の低さから、恐らく男。夢の中の友人とおなじ、柔らかく、ふわふわとした、可愛らしいテディベアの顔。
声も聞こえるかあやふやな中、僕のポケットから、ぱさりと小さなメモ帳が落ちた。
中身はミミズの這ったような文字らしき何かだけが幾重にも書き連ねられ、ヘラヘラ笑う僕は、目の前のテディベア、その下に隠された男子生徒の顔が、戦慄に強張っているのに気が付かなかった。
テーマ:閉ざされた日記
「お、来たの?やっほ。」
カラリと控えめな音を立てて病室に入ってきた友人に、軽く手を振る。心配です、なんてオーラが前面に漂う子犬のような瞳が、俺を真っ直ぐ射抜いた。
「ん……今日は体調大丈夫?昨日、また夜中急変したって聞いたけど……」
「あー、あれ?平気平気。ちょっと調子乗って夕飯食いすぎたわ。」
へらりと軽く笑って見せれば、彼はほっとしたような溜息を零して柔らかく笑った。
ベッドサイドの小さな机に、品のいい控えめな花束が新しく飾られる。少し萎れてしまった以前の物は、彼がそっと新聞紙に包んでいた。
「そっか。それなら……よかった。今日はクッキー持ってきたんだ。君が好きだったやつ。」
おずおずと目の前に差し出されたクッキーは、よく彼と2人で食べたものだった。特段好きだった記憶もないが、彼から見ると、きっと好きそうに見えているのだろう。
「マジ?さんきゅ。一緒に食おうぜ。」
受け取った箱の中から数枚を適当に取り出して、押し付けるように彼に渡す。彼の顔が小さく綻んだのを、俺は見逃さなかった。このクッキーが好きなのは、俺じゃなくて彼の方。俺が好きなのは、このクッキーを食べる彼の、子供っぽいような緩い笑顔だった。
サクサクと、しばらく2人して無言でクッキーを齧る。病室の外には、冬とはいえまだ少し青さを残した葉が茂っていた。
「……治るんだよね?」
ふと、また不安そうな顔をした彼がぽつりと問いかける。語尾は小さく震えていて、心なしか瞳も潤んで見えた。
「大丈夫だって。ほら、なんかあんじゃん?『この木の葉っぱが無くなったら私は死にます』みたいなやつ。こんだけ葉ぁありゃ平気だろ。」
茶化すように笑ってやれば、彼の顔に浮かんだ憂色もすっかり拭われた。
本当は、俺は知っている。俺の病気にもう治る見込みが無いのも、今週中に強い強い木枯らしが吹くのも。
昨日だって、別に夕飯は食べ過ぎていない。寧ろ、本来食べるべき量さえ、体が受け付けなくなってきた。
それでも、俺はずっと笑い続ける。すっかり痩せて背骨の浮いてきた体も、ずっと痛む頭も隠して。この心配性な友人の顔を、せめてもう少しだけでも曇らせないように。
僅かに開けられた窓の隙間から、木枯らしの気配を孕んだ冷たい風が吹き込んで、淡いレースのカーテンを揺らしていた。
テーマ:木枯らし
「……今日はまた、随分と酷いね。」
目の前で俯く彼の顔を覗き込むようにして、僕は呟いた。
彼が視線を落とす机には、マジックペンで書かれた罵詈雑言の数々。幼稚な語彙に、乱れた筆跡。誰が書いたかも分からない。
「やっぱり先生に相談しなよ。」
僕がそう言うと、彼は更に首を下に向けた。
「……したよ、とっくに。」
少しだけ顔を窓の方に向けた彼の声は小さくて、少しの物音でもかき消されてしまいそうだった。
「じゃあなんで……」
「……誰がやったかも分からないのに対応はできないって。」
なんともまぁ薄情な教師だ。しかし、教師の言い分も別に間違っているわけでは無い。下手にクラス全体に呼びかけなんてしたら、きっといじめっ子気質な男子たちは面白がって便乗するだろう。予め、いじめをしそうな者たちに聞き込みをしても同様だ。
無闇に触れて悪化させるくらいなら、いっそ何もしない方がマシだ、そう考える大人の思考は、微塵も間違ってはいない。
「……なんで、僕ばっか……」
ぽつりと溢れた彼の言葉は、語尾が小さく揺れていた。ちらりと視線をそちらに向けると、ぽたぽたと小さく音を立て、きらきらとした水滴が何粒も机に叩きつけられて水溜まりを作っていく。静かな教室に彼が鼻をすする音がやけに響いて、それがかえって静寂を際立たせていた。
ああ、やっぱり彼の泣き顔は、涙は、必死に押し殺すような泣き声は、どんな芸術作品より美しい。
僕は溢れそうになる愉悦の笑みをなんとか押し殺し、あたかもいじめられっ子を心配している良き友人のような顔を取り繕う。黒の油性ペンでめちゃくちゃにされた机も、毎日引き出しや上履きに詰められている画鋲やゴミも、ゴミ箱に捨てられた教科書も、びしょびしょにされた体操着も。全部、僕が仕組んだこと。
僕は彼の背中を優しくさすりながら、明日は何をしようか、どうやって彼を泣かせようか、知略を脳裏に巡らせていた。
テーマ:美しい
体感氷点下の部屋で、コポコポと小さく泡の音を立てる、何もいない水槽をただ眺めている。金魚も、メダカも、巻き貝さえいない。生きた水草も植えられていない。プラスチック製の、おもちゃのような風貌をした水草もどきが入っているだけの水槽は、薄暗い室内の唯一の光源だった。
意味もなく回されているフィルターやポンプの立てる水音は、無為に時間を過ごすにはぴったりな暇つぶし。
この部屋を見たことのある数少ない友人からは、何か飼わないのかと何度も聞かれた。その度に、僕はこう答える。
「自分一人でも上手く生きられないんだから、生き物の世話ができるわけないよ。」
小さい頃、無邪気な遊びの途中で踏み躙った昆虫達をふと思い出す。あの頃はまだ純粋で、大人になったら夢が叶って、自由に好きなことをして、完璧に、間違いなんてせずに生きていけると思っていた。でもそんなのは幻想で、現実は中卒引きこもりのフリーターだ。
そう、僕は高校に行けなかった。受験に落ちたわけでも、高校を諦めてまでしなければならないことがあったわけでもない。
単純に、心が折れた。ただそれだけである。
受験期の中学3年生、僕は元々、地元ではそれなりに頭のいい私立高校を志願していた。成績も上々で、このまま普通に進めばまず落ちることはない程度の点数も取れている。
しかし、大人たちから見てみれば、まだ僕には懸念点があったらしい。
僕は数学が頗る苦手だった。小学校の算数からずっと嫌いだったので、おそらくそもそものセンスが無いのだろう。担任の先生も、両親も、皆して僕の数学の点数を不安がった。数学のテストを見せる度にもっと勉強しろと言われ、懇談会でもずっとその話。他の教科は、ほとんどが学年順位一桁台に乗れるほどの点数なのに。
それから僕は、小さなことが一々気になるようになって、何もできなくなった。好きだった国語も、課題をやるのさえ辛くて動けない。ペンを取ることが、何よりの苦痛に成り代わっていた。
僕は、この世界が、たった一つの間違いさえ許されない世界が、あまりに息苦しくて堪らない。世界自体が何より不安定で不透明な癖に、社会の歯車たる僕たちには均一な品質を求めてくるのだ。鬱陶しいにも程がある。
そんな、真綿で編まれた地獄のような世界にいるくらいなら。僕も、この空っぽの水槽みたいに、枯れない、死なない、壊れない。変化もなくて、冗長で、つまらない。そんな安寧に満ちた世界に生きたかった。
水槽の中のつくりものの生命は、つくりものの紫外線に照らされて、ただ水流に靡いていた。
テーマ:この世界は