僕は、趣味で小説を書いている。大したものでもないし、別に何か賞を狙うわけでもない。本当に趣味として、ネットにアップするだけだ。
しかし、それだけ緩く書いていても、壁に当たることはあるらしい。スランプである。近頃、何を書いても楽しくない。投稿しているサイトでも伸び悩み、ますますモチベーションは落ちていく。
気付けば、惰性で書くようになってから一ヶ月近く経過していた。刺激にならないかと、下校の道を変えてみたり、本屋の新刊コーナーで気になったものを何冊も買ったりした。しかし、できるのは見たものの二番煎じばかりで面白みが無い。
そろそろ書くのも億劫になってきた頃だった。青天の霹靂、彼との出会いだった。
彼は別に、在り来りな物語に出てくるように麗しい見た目でもないし、特殊能力があるわけでも、ましてや実は人外だった、なんて秘密を抱えているわけでもない。本当にありふれた、どこにでもいる普通の人間だ。
しかし、僕はそんな彼に惹かれて止まなかった。彼の動作の一つ一つが、僕の頭の中で文学的な文字列に置き換わっていく。こんな経験は初めてだった。
それから、僕は、その日見た彼の姿を、ひいてはその姿から生まれた言葉たちのメモを元に文章を書くようになった。伸び悩んでいた閲覧数は飛躍的に増え、僕はスランプを脱した。
転機が訪れたのは、師走に差し掛かった冬の日だった。来年高校3年生になる僕たちは、委員会の引き継ぎ作業で忙しくなる。僕も彼も、委員会には所属していなかったが、暇だろうと手伝いに引っ張り出されることも多かった。
そのうちの1日。そこで、僕と彼は同じ委員会を手伝っていた。業務連絡が転じて雑談になり、同じ漫画を読んでいることが分かって話が盛り上がり。気が付けば、僕らは知り合いから友達に昇級していた。その日、筆はよく乗ったし、閲覧数も飛び抜けて高くなったのは余談である。
僕らが友達になってしばらく経つ頃、僕が小説を書いていることが彼に知れた。元々親しい友人には話していたので、きっとそこからだろう。別に隠していたわけでもないが、彼をモデルに書いているのでなんだか気恥ずかしかった。彼は僕の小説を読んで喜び、自分がモデルだと知って更に喜んだ。
それから、僕は彼と一緒に執筆をするようになった。彼の文章は瑞々しくて、あの日、彼に一目惚れした日に感じたようなあの感触を、毎回新鮮に思い出させる。
それから数十年後のことである。出版社主催の小さなコンテスト。連名の作家の青春小説が大賞に輝いていた。
テーマ:君と紡ぐ物語
遠くから、清く澄んだ教会の鐘の音が響く。静かに、低く、しかし威厳を持って街を包むその音は、夜の闇に生きる者にとっては活動開始の合図のようなものだった。
この鐘が鳴ったら、金持ちの、昼間の街に生きる善良な人間は家に入って温かい夕食を囲む。その匂いだけを澱んだ肺に収めて、俺達は今晩の食料を求めて路地裏のゴミ捨て場を漁りに行く。昼間に漁ったりなんてしたら、そこらの野鼠より酷い罰を受けて捨てられる。俺達の人権なんてそんなもんなのだ。
腐ったような食事を集め、僅かなそれを分け合って腹に詰める。俺達はとにかく、生きるので精一杯だった。いい暮らしをしようなんて上を見る暇はない。今日の命を繋ぐのだってギリギリなのだ。表通りのショーウィンドウに並んだ菓子や玩具は夢のまた夢。この手に取るどころか、見ることさえ難しい。
そんな俺達にも、転機は訪れた。戦争が始まって、老いも若いも関係なく軍に取り立てられ始めたのだ。
元々路地裏で生活していた俺達は、少ない食料で動く術を知っている。俺の仲間や俺達はみるみるうちに武勲を挙げ、それなりの地位に就くことができた。この国の勝利も確実になってきて、俺達は軍で得た収入で思い思いの夢を叶えた。ある者は甘い菓子を部屋いっぱいに買い漁り、またある者は本棚に詰めても詰めきれないほどの本を買った。かく言う俺は、猫を飼い始めた。
もう、俺達が教会の鐘と共に動き出すことはない。日中路地裏で息を潜めて死んだように過ごすことも、餓死した仲間の肉を食むことも無い。
あの地獄で聞き続けていた響きは、今ではただの鐘の音になった。あの絶望も寒さも飢えも無い、幸せな暮らしだ。
しかし、その幸せは俺達をバラバラにした。元々利害関係で結び付いていたような俺達は、夢を手にした今、もう会う理由は無い。
それに微かな寂しさを覚えたような気がして、首を振る。遠くで鳴り響く鐘の音は、日の入りを如実に告げていた。
路地裏で、小さな影が幾つも駆けていく。俺は黙って食料の入った袋を物陰に置き、軍部に戻った。
街頭の光に照らされた路地裏で、子供たちのきゃらきゃらと笑う声がして、物陰に置いた袋はもう消えていた。
テーマ:失われた響き
朝。布団を隔てて、温かくもったりと俺を包む優しい空気と、冷たく鋭く俺を叩き起こさんとしてくる空気がアラームの音に振動する。
「ん゙ん……」
温かな空気から腕だけを伸ばしてアラームを止め布団にまた腕を仕舞う。あの一瞬だけで腕は冷え、布団の温もりが沁みた。
しかし、どう頑張っても朝は朝。起き上がって目覚めなくてはならない。温もりに足を絡め取られ、眠気が俺の腕を引いて布団に縫い付けてくるをのなんとか振り払って起き上がる。途端、冷たい部屋が俺の身を急速に冷やしていく。
寝起きでまだ身体も碌に働いていないせいで、体温は下がるばかりで上がらない。ガクガク震えながらストーブの元へ這い寄り、文明の利器に助けを求めた。
ストーブが部屋を暖める間に、軽く朝食を摂る。フローリングが冷たくて、でも靴下を履くのも面倒で、結局足の側面でよちよちと歩くことになる。それでも足先はどんどん冷えるのでどうしようもない。
顔を洗おうと洗面所に入って、水を出す。薄氷の張った洗面台から、ピキピキと甲高い音がした。水は空気よりずっと冷たく感じられて、俺はさっさと用事を済ませて愛しのストーブに温もりを求めた。
いつまでもこうしてグダグダしていたかったが、生憎今日は予定があるのだ。渋々ストーブの前から立って、体温で温んだパジャマを、クローゼットの中の冷えた私服に着替えていく。
身震いしながらどんどん着込んで、最後にぺたりとカイロを貼る。中の金属粉はまだ冷たいままだ。
先に開けておけばよかったと後悔しながら玄関に向かい、欠伸をしながら靴を履く。携帯の充電は、昨日寝落ちしたせいで中途半端な溜まり具合だ。
ドアを開けると、目の前がキラキラとグリッターでもかけたかのような輝きを放っていた。少し見惚れてしまう程綺麗だが、寒い。とてつもなく寒い。どうやら、キラキラと空気中で輝いているのは霜らしい。
首を竦め、ポケットに手を突っ込み、物理的に霜が降りる
中歩いていく。まだ季節は師走に差し掛かったところだ。
これから来る冬本番を憂鬱に思いながら、瞬きの度キラキラと動く、欠伸の涙が凍りついた睫毛を恨めしげに見つめていた。
テーマ:霜降る朝
ストーブから立ち上る、嫌な温度を伴った重たい空気が狭い教室に充満している。目にも見えない、完全に感覚でしか分からないそいつは、確実に俺の心に染み入って、鉛のように重たく、下へ下へと引き込んでくる。
ようやく待ち望んだ解放を告げるチャイムが鳴って、俺は一目散に教室を飛び出した。向かうは非常階段。そこは、ちょっとした抜け道になっていた。屋上に普通に入ろうとしても、施錠されていて入ることはできない。しかし、非常階段から入ると、鍵が壊れていて入ることができるのだ。
屋上の扉を開くと、冷たい冬の空気が肺に突き刺さる。けれど、あの充満した憂鬱なガスよりずっと澄んでいて、ずっと息がしやすい。
「や。」
ふと後ろから声がして、視界が奪われる。死んだように冷たい手と、聞き慣れた軽い声。
「冷たい。」
「そりゃ、1時間目からここでサボってるからね。教室でぬくぬくしてた君とはわけが違うのだよ。」
ふざけた、何かしらの博士のような話しぶりで彼が笑うのが、背中越しに伝わった。教室で暖まった俺の顔に触れて、彼の手は少しずつ温んできている。
目を覆う彼の手を掴んで、ほんの少し下に下げた。ダボついた彼のカーディガンの袖が鼻を覆って、柔らかな柔軟剤と石鹸の匂いが心の奥をくすぐる。軽やかで少し甘いような匂いに、沈んでいた心が、まるで糸でもかかったかのように引き上げられた。
「……あの〜……ちょっと恥ずかしいかな〜……とか……」
おずおずと彼が言うので、正気に戻った。寒さで冷えていた耳の端に熱が籠もる。きっと、熱くなった俺の耳と、冷え切った彼の耳は同じ色をしている。
「……俺もサボろ。」
顔を覆っていた手を解いて、そのまま軽く引いていく。いつもの定位置、程よく日の差すフェンスの傍で、温もりを分け合うように、終業のチャイムが鳴るまでずっと寄り添っていた。
テーマ:心の深呼吸
「ん……なんかかかった……」
土曜日の何も無い昼下がり、暇を持て余した俺は海釣りに来ていた。
気長に釣り糸を垂らして、ウミネコの声を聞きながらゆったりと待つ。竿の先に付けた鈴が鳴れば、竿を確認してまた待つ。暇潰しにはもってこいだ。
それで、さっきから2本ほど竿を用意して糸を垂らしているのだが、うち1本がどうも様子がおかしい。いくらなんでも、かからなすぎる。仕方ないので餌を変えてみようと、ひとまず上げることにした。
しかし、いざ上げてみると竿先がしなる。つまり、何かはかかっている。それなのに、動いていなかったということだ。
根掛かりを疑いつつもリールを巻くと、一応きちんと上がってきた。だが、その先に下がっているのは魚影ではなさそうだ。水中のゴミがかかったのかと、掃除にもなるかと諦めて上げきった。
かかっていたのは、何かしらのお菓子の缶。クッキーかなにかのものだろう。その缶の表面にびっしり付着したフジツボに、針がかかったらしい。
「なんこれ……何入ってんの……」
興味本位で、フジツボを剥がして錆びた蓋を開けてみる。中は案の定浸水して水浸しだったが、落とし主は想定していたのか、中身は丁寧に袋に入れられていた。重りとして石が詰められているのを見ると、わざと沈められたもののようだが。
余計謎が深まった間に興味をより引かれ、特に何も考えず袋を開けた。中に入っていた紙の束を取り出して、パラパラと捲ってみる。
俺はしばらく硬直して動けなかった。紙の束の正体は写真だった。が、その被写体の顔に見覚えがありすぎる。遊び回る2人の男児。片方は俺、もう片方は、高校で分かれたっきり会っていない幼馴染。
瞬間、全てを思い出した。そうだ、これは2人で沈めたタイムカプセルだ。十年後、二十歳になったら2人で開けようと、確かにそう約束して。
俺達はもう23歳。約束の日はとうに過ぎている。俺がここまで完璧に忘れていたのだから、きっともう彼も覚えちゃいない。それでも、もし3年前のいつか、彼が一人でここに来て、俺を待って、そして寂しく帰ったのなら。それじゃ、あまりにも申し訳ない。
携帯を取り出して、数年前に止まったままのトークルームに文字を打ち込む。送信するときはさすがに少し躊躇ったが、勢いに任せて送った。
テーマ:時を繋ぐ糸