「じゃーな!またいつか!」
彼は涙の光る顔で笑って、桜並木の下へ消えていった。
それが、1週間前のこと。大学進学の準備をしながらも、俺はどこか心ここに在らずだった。
高校の卒業式の日、彼は俺に告白してきた。けれど、俺は女の子が好きだったし、彼のことは友達としか思えなかった。だから丁重にお断りして、彼も納得して、最後は笑顔で別れた、はずだった。
彼に告白されてから、俺はおかしくなってしまったようだ。心を彼に持っていかれてしまったかのように、ふと何も考えられなくなる。それまで好きだった女優を見ても、どこか心が浮ついて直視できない。剰え、瞼を閉じると彼が浮かんできてどうしようもないといった有様だ。
「クソっ……なんなんだよ……」
大学に進学してしばらく経ってからも、それは変わらなかった。大学にはそれなりに可愛い子も多かったし、それなりに俺はモテた。なのに、可愛い女の子に告白されても俺の心は動いてくれない。いっそ誰かと付き合えば、彼を忘れられるかもしれないと思った。でも、それじゃあまりにも相手に不誠実だ。
結局、燻った感情の正体も分からないまま大人になってしまった。なんとなく大人になって、なんとなく仕事に就いた。そうやって惰性で人生を浪費していると、なんとなくで彼のことも忘れられた。
そう思っていられたのも短かったが。入社してしばらく経ち生活も落ち着いて来た頃、ある手紙が俺の元に届いた。
正体は彼の結婚式の招待状だった。
考えてみれば当然のことだった。まだ未熟な高校生が、ずっと孤立していた自分にたった一人声をかけた者がいたら。たとえそれが同性だって、友愛と恋愛を混同したっておかしくない。彼にとって俺は結局、最も親しい友人の一人だった。
着慣れたスーツに身を包んで、結び慣れない白色のネクタイを結って。あたかも平然を装って、俺は彼の式に参列した。
俺が彼に抱いていた感情がなんだったのか、結局今でも分からない。あれは果たして恋だったのか、はたまた、彼と同じように一人だった者からの執着だったのか。
相変わらず俺の心は乱されたままで、この疑問に終わりが訪れることは無さそうだった。
テーマ:終わらない問い
俺の家には天使が居る。
「あ、おかえりー。」
比喩じゃなくて、マジの。
コイツはある日、突然現れた。インターホンが急に鳴って、ドアを開けたら立っていた。宅配便のような極軽いノリで、
「こんちは。天使でーす。」
なんて挨拶してくるものだから、しばらく読み込みが追いつかなかった。もちろん初めはコスプレした不審者かと思い、通報しかけた。その度、遠くにいたはずの彼がなぜか背後にいて携帯を奪われてしまうのだ。
「僕は天使なんだよ?通報なんてしたって意味ないって。君が不審者みたいに思われて終わりだよ?」
にまりと猫のように笑う彼に得体のしれない恐怖感を感じたことも数知れない。
けれど、人間の適応力とは恐ろしいほどのものだった。数週間前もすれば彼の存在にすっかり慣れ、扱い方も掴めてきた。頭上にふわふわと浮いている光の輪も、肩甲骨の辺りから生えている純白の羽根も、どうやら本物らしい。しばらく一緒に暮らすうちに、それは嫌でもよく分かった。
そんなこんなで、俺は今日も、自称天使と奇妙な二人暮らしを続けている。彼の翼があまりに大きすぎて、彼がいると部屋が狭くなるのが最近の悩みになるくらいには馴染んでいるのだ。
彼は、皆が想像する天使の像とはかけ離れている。平気で嘘も吐くし、ヘラヘラしていて軽薄そうだし、人のことをからかってゲラゲラ笑っている。良くも悪くも普通の人間のようで、俺はつい絆されてしまった。
「ただいま。」
今日も狭いアパートの小さなドアを開け、靴を脱ぐ。家に入ると、キッチンに立つ彼の後ろ姿が目に入った。部屋の中は綺麗に掃除されていて、彼の手元にあるだろう料理の香りが満ちている。
楽しげに鼻歌を歌いながらぱたぱたと羽根を揺らしている彼の後ろ姿を見ていると、こんな生活も悪くないかと思えて仕方ない。食費は2倍だし、よくからかわれるし、暇つぶしにホラー映画を見た彼に夜中叩き起こされたりもするが。なんだかんだ、悪くない、気がする。
相変わらず視界の端で揺れる純白の羽根は、今では見えないと落ち着かなくなってしまったのだった。
テーマ:揺れる羽根
「じゃあ、行ってくるね。いい子で待っててね?」
特に返事は無い。僕の飼い猫は気まぐれな子だから、きっとまだ寝ているんだろうなと苦笑いを浮かべた。
会社に着いて、いつも通り業務をこなす。データを入力して資料を作るだけの簡単な仕事だ。
単純そうに見えて案外頭を使うせいか、時間の経過が早く感じる。気付けば昼休みだった。
昨晩の残りを詰めたお弁当を開いて、ついでにスマホを立ち上げる。ペットカメラと連動したアプリで、猫の様子を確認しようと思った。
「……あれ?」
家は狭いマンションの一室なので、カメラには風呂とトイレ以外ほとんど全体が映る。それなのに、猫の姿が無い。
「え〜……勝手にお風呂とかにいるのかな……」
そう呟いた瞬間、あることに気が付いて血の気が引いた。
ドアが、開いていた。逃げたのかもしれない。そう思うと、もう居ても立ってもいられない。
会社を早退して、普段は絶対使わないタクシーを使って最速で帰宅する。ドアの鍵は開いていて、家の中はガランとしていた。
どこにもいない。逃げられた。どんどん悪い考えが浮かんできて、手足の震えが止まらなくて動けなかった。
どれだけ放心していたか分からない。玄関のドアが閉まる音で我に返った。半ば這うようにして見に行く。
「…………どこ、行ってたの……」
消えた猫が帰ってきていた。僕は彼を抱きしめ、引きずり込むようにリビングへ連れて行く。
「ごめんって……コンビニ行ってただけ。……泣かないでよ……」
彼の着けた、首輪のようなチョーカー。そこに繋いでいた鎖は、いとも容易く外されていた。
「……どこも行かないで……」
彼の胸元に縋り、子供のように泣きながら言う。彼はそんな僕に困ったような笑みを向けて頭を撫でてくれた。
僕と彼の関係はきっと間違っている。僕は彼を監禁しているし、彼は甘んじてそれを受け入れている。本当は、彼はここから逃げ出すことなんて簡単にできるはずなんだ。
2人だけの部屋。ワンルームの小さなマンションは、飼い主と猫のような僕らの秘密の箱庭だ。
どちらも飼い主で、どちらも飼い猫。この箱庭に他の誰かが入ることは、きっとこの人生の中でたったの一度たりとも無いだろう。
テーマ:秘密の箱
「はよ。」
端的な挨拶が背後から聞こえ、しばらくして肩にのしりと重みがかかる。
「ん、おはよ。今日もいい匂いすんね。何作ったの?」
肩に回された腕からふわりと香る甘い匂いに、俺は思わず彼の腕に少し顔を寄せた。
「今日は〜……マドレーヌとスコーン。」
「相変わらず女子力たけ〜……」
「これマジ簡単なんだって。」
彼が鞄から綺麗にラッピングされたお菓子を取り出して渡してくる。ちらりと見えた鞄の中は、丁寧に包まれたお菓子以外ほとんど何も入っていない。
渡されたそれを自然に受け取って、そのまま慎重に包装を開ける。あまりに几帳面に包まれているから、開けるのにもなんだか気を使ってしまう。
シールやらで品良く飾られた包装を剥がすと、彼の身体から仄かにしていた焼き菓子の匂いが立ち込めた。
「もう食べていい?」
「どーぞ。つか今日も朝飯食べてないのかよ。そんなんだからチビのままなんじゃね?」
「うっせ……」
身長をからかわれ、俺は少しむくれたまま袋に手を突っ込む。マドレーヌかスコーンかは分からないけれど、とりあえずどちらもどうせ美味いので先に手に触れた方を取り出した。
見もせず食むと、しっとりとした生地が歯に触れる。マドレーヌだったようだ。優しい甘みが口内を満たし、その後を追うようにレモンピールのほんのりとした苦味と香りが鼻腔を抜ける。
「うま……」
ころりと機嫌が直った俺は、その小さな焼き菓子をあっという間に平らげてしまった。
「食べんの早。そんな美味かった?」
「めっちゃ美味い。」
少々行儀は悪いが、手を拭く物もないので指をぺろりと舐めながら答えた。スコーンは放課後の楽しみに残しておこうと、袋を畳んで鞄に入れた。
「あー……よくさぁ、無人島に何持ってくかって質問あるじゃん。」
「急だな。あるけど。」
俺も急だとは思うが、ふと思ってしまったのだ。どうせ中身のある会話なんてほとんどしないんだし気にしたら負けだ。
「昔ならドラえもんとか言ってたけど、今ならお前って答えるわ。」
「はぁ?」
少し視線を上げた先にある彼の顔に、でかでかとクエスチョンマークが浮かぶ。宇宙で呆ける猫の画像を思い出した俺は笑いそうになったが、余計彼を混乱させそうだったから堪えた。
「いやさ、確かにお前頭悪いし足遅いしあと頭悪いけどさ。」
「悪口じゃん。」
今度は彼がむくれてしまった。俺はもう笑いを堪えられなくて吹き出してしまう。
「お前いたら絶対楽しいし、あと美味いもの食べれそう。」
「…………ふーん……」
彼は満更でもなさそうだ。手作りの菓子で機嫌を直す俺も単純だが、俺の一言で機嫌も直すコイツもきっと単純だ。
俺は自分より高いところにある肩に腕を回して肩を組む。
「……やっぱ身長高いの腹立つからやだ!」
「ガキかよ……」
明日も明後日も、無人島に行ったってこんな毎日が送れたらいいな。そんなことをぼんやり考えていた。
テーマ:無人島に行くならば
「さむい。」
実に単純で、実に切実な3文字だった。隣でガクガク震えている彼は、代謝が悪いのか寒さに滅法弱かった。
「……もう帰ればいいじゃん。」
「やだ……う〜……さむ……」
なぜそんなに震えているのに外に居ようとするのか、僕には理解できない。寒いならさっさと帰ればいいのに。
「……なんで?」
「ん〜……」
さっきからずっとこの調子だ。寒い寒いと言う癖に帰らない。理由を聞いても曖昧に唸るだけで答えない。不可解すぎてそろそろイライラしてきた。
彼の指先はかじかんでいるのか真っ赤で、鼻の頭や頬も色付いている。そこらの紅葉よりずっと赤くて見るからに寒そうなのに、なぜそんな無理をしているのか。
「……もう僕も帰る。君も帰れば。」
突き放すように言うと、彼はあっさり頷いた。あの頑固さは何だったのだろうか。
今年は秋が短くて、暑かったかと思えば急に冷え込んだ。連日最低気温は一桁台で、最高気温も20度に満たない。冬のような秋だ。
2人並んで、気まずい沈黙の中、アキアカネが飛び交う夕暮れの下を歩く。家も近くなった頃、もう一度彼に聞いてみた。
「……結局、なんであんな頑固だったの。」
彼は少しだけ躊躇って、それから口を開いた。
「別に……もうちょっと一緒にいたかっただけだし……」
彼の顔は相変わらず真っ赤で、耳の端まで紅が差している。
「……ふーん……へぇ……そう……」
思ったより下らなくて可愛らしかった理由に口角が上がりそうになるのを抑えつけ、曖昧な返事をしておく。彼の顔が真っ赤なのも、今だけは寒さのせいだけじゃないと確信できた。
「……ねぇ、明日も一緒に待ってよ。……今度はちゃんと上着着てね。」
自分から発されたと思えないほど柔らかい声が出た。
今年の秋は去年よりずっと寒い。冷たい秋風が体の末端を容赦なく冷やしていく。紅葉も無くて、木々の葉は色付く前に枯れてしまう。
けれど、僕達の仲はきっと、去年の秋よりずっと温かく、そして綺麗な色で彩られている。そんなことを自覚すれば、この秋風も、暖かくて綺麗で愛しいものに思える気がした。
テーマ:秋風🍂