「じゃあ、行ってくるね。いい子で待っててね?」
特に返事は無い。僕の飼い猫は気まぐれな子だから、きっとまだ寝ているんだろうなと苦笑いを浮かべた。
会社に着いて、いつも通り業務をこなす。データを入力して資料を作るだけの簡単な仕事だ。
単純そうに見えて案外頭を使うせいか、時間の経過が早く感じる。気付けば昼休みだった。
昨晩の残りを詰めたお弁当を開いて、ついでにスマホを立ち上げる。ペットカメラと連動したアプリで、猫の様子を確認しようと思った。
「……あれ?」
家は狭いマンションの一室なので、カメラには風呂とトイレ以外ほとんど全体が映る。それなのに、猫の姿が無い。
「え〜……勝手にお風呂とかにいるのかな……」
そう呟いた瞬間、あることに気が付いて血の気が引いた。
ドアが、開いていた。逃げたのかもしれない。そう思うと、もう居ても立ってもいられない。
会社を早退して、普段は絶対使わないタクシーを使って最速で帰宅する。ドアの鍵は開いていて、家の中はガランとしていた。
どこにもいない。逃げられた。どんどん悪い考えが浮かんできて、手足の震えが止まらなくて動けなかった。
どれだけ放心していたか分からない。玄関のドアが閉まる音で我に返った。半ば這うようにして見に行く。
「…………どこ、行ってたの……」
消えた猫が帰ってきていた。僕は彼を抱きしめ、引きずり込むようにリビングへ連れて行く。
「ごめんって……コンビニ行ってただけ。……泣かないでよ……」
彼の着けた、首輪のようなチョーカー。そこに繋いでいた鎖は、いとも容易く外されていた。
「……どこも行かないで……」
彼の胸元に縋り、子供のように泣きながら言う。彼はそんな僕に困ったような笑みを向けて頭を撫でてくれた。
僕と彼の関係はきっと間違っている。僕は彼を監禁しているし、彼は甘んじてそれを受け入れている。本当は、彼はここから逃げ出すことなんて簡単にできるはずなんだ。
2人だけの部屋。ワンルームの小さなマンションは、飼い主と猫のような僕らの秘密の箱庭だ。
どちらも飼い主で、どちらも飼い猫。この箱庭に他の誰かが入ることは、きっとこの人生の中でたったの一度たりとも無いだろう。
テーマ:秘密の箱
10/25/2025, 7:44:38 AM