冬。俺はあの色に恋をした。
その日は酷い大雪が降って、学校は半日で休みになった。いつもより早い下校時刻に、教室内の空気はガヤガヤとしていて騒々しい。俺の親は両親共働きだ。迎えになんて来られるわけがない。俺は親に連絡さえせず、鞄を背負って校門へ駆け出して行った。どこもかしこも白く霞んでいて、いつもなら見える赤も青も緑も、何も見えやしない。真っ白になってしまった世界の中、自分の色だけがやけに浮いて見えた。
ふと聞こえた足音に、俺は思わず歩みを止めた。こんな吹雪にも近いような大雪の中、歩いて帰る馬鹿なんて自分くらいだと思っていたから。顔を上げて、俺は息を呑んだ。どこまでも白く、前後さえ不覚になりそうな視界の中、彼はそこに立っていた。白一色の世界を乱すように、強烈なくらいの青色で。時間にしてほんの数秒だったが、俺はその数秒で、その姿が網膜に焼き付いてしまった。気付けば俺は、学校で、町中で、あの青を無意識に探してしまうようになった。
彼は、同じ学年の生徒だったらしい。正月休みが明けて、進級したばかりの下駄箱で彼を見かけて初めてそれを知った。なんとかして友達になりたかったが、別に特段友達も多くない、コミュ力だって高くない俺には少々ハードルが高かった。結局、彼に話しかけられないまま、時間だけが過ぎていく。
何もできずに季節は巡って、そろそろ晩夏という時期になってしまった。俺と彼は、未だ面識すらほとんど無い。夏休みも明け、気分はいよいよ憂鬱だった。しかし、禍福は糾える縄の如しとはよく言ったもので、案外すぐに幸福は訪れたのである。
「ねぇ、」
コレ落としたよ。それだけの会話。それでも、俺は確かに彼と向かい合って、話をしたのである。きっと、これを逃したらもう二度と俺は勇気を出すことはできない。直感でそう感じた。咄嗟に彼を引き留めて、しどろもどろになりながら必死に話をしようとする。初めは怪訝そうな顔をしていた彼も、次第に馬鹿らしくなったのか話に付き合ってくれた。
俺が彼と過ごせなかった夏休みの空の色は、あの日見た彼の色に酷く似ていた。俺は、得られなかった時間を埋めるように、失った何かを取り戻すように彼と縁を結び付けた。
秋に染まった空気の中、取り残された蝉が一匹、忘れたように鳴き声を上げた。
テーマ:夏の忘れものを探しに
気が重い。気どころか、体まで重くなってきた。とてつもない喪失感と焦燥が、僕の情緒をめちゃくちゃにしていく。楽しかった一ヶ月の光景が走馬灯のように瞼の裏を横切って、脳に焼き付いた快楽と怠惰は去ろうとしてくれない。机に山積みにされた紙の束と、一階から聞こえる母の怒声。焦燥だけは心に積もり続けているのに、体は一向に動こうとはしてくれない。無意味スマホをスワイプする指は止まらないし、ベッドからも起き上がれない。8月の頭の方なら、この時間はまだ明るかったはずなのに。ちらりと窓を見れば、磨りガラス越しに深い藍色と鮮やかな茜色のグラデーションが見えた。もう日が暮れている。その不変の事実が、僕に晩夏の訪れと終わりの始まりを伝えてきた。
なんとか眠気と怠さを振り払い、机に向かうことに成功した。鉛の重りでも付けられたかのように重たい腕をなんとか上げてペンを握るが、握っただけで動けなくなってしまった。冊子を開いて、答えを書き写すだけの作業をしようとする。けれど、文字が頭を滑ってしまって読めない。確かに文字として認識してはいるのに、読み込みの途中でエラーでも起きたかのように理解ができないのだ。結局、2,3文字書いてペンを手放してしまった。意味もなく冊子の数を数え、かかりそうな時間を適当に計算する。寝る時間から逆算して、まだ余裕だと焦る心に言い聞かせてベッドに潜り込んだ。中途半端に残った理性の真面目な部分が、どうせ無駄なのに無為に切迫感と悪い想像ばかりを心に流し込んでくる。とうとう画面をなぞる指さえ動かせなくなって、視界がぐにゃりと歪んだ。
いつもこうだ。毎年毎年、こうして焦燥で身を擦り減らしている。検索履歴を適当に押せば心のホットラインの電話番号が表示されるし、AIとのトーク履歴を見れば病んだ人間の情けない愚痴が吐き出されている。自己嫌悪が悪化して、ほぼ無音で涙だけを溢しながらスマホを伏せた。
気怠さを纏った夕日は、僕を置いて沈んでいく。明日からの生活のことも、もう何も考えたくない。どうして僕は現代社会に生まれてしまったのだろうか、なんてどうしようもない考えばかり膨れていく。毎年のこの時期に誰もが罹る病。僕は、それが人より少しだけ重いらしい。普段の日曜日の喪失感なんて比じゃないくらい、希死念慮と自己嫌悪が胸を突き刺していた。病名の無いこの病気は、今も確かに、夕日が沈むのと同じ速度で誰かの首を絞めているのだろう。
テーマ:8月31日、午後5時
僕と君は、ずっとふたりで居たのに。周りの皆は、僕一人しか居なかったって言うんだ。変わってるよね。
今日も、僕は君に話しかける。君は話すのがあんまり好きじゃないから、僕が一人で話すだけ。今日学校であったこと、お母さんに怒られたこと、色々話す。君は返事はしてくれないけど、顔を見れば何が言いたいか、何を思ってるかなんとなく分かる。今は、微笑んで僕の話を聞いてくれてる。それだけで、僕は安心できた。
お母さんも先生も、僕に友達は居ないのかって心配してくる。先生は、僕が君を紹介した時、一瞬だけ変な子を見る目で僕を見た。お母さんに誰と遊んでるのか聞かれて君を見せた時、引きつった笑顔で僕に笑いかけた。君は確かにここに居るのに。
世間一般からすると、どうやら僕は変な子らしい。皆と同じように友達と遊んでいるだけなのに、お母さんや先生は僕をやけに外に出したがる。外で遊ぶより、君と部屋でお絵描きがしたいと言えば、可哀想な子に向けるような視線が向けられた。
僕と君はいつでも一緒。家に居ても、勉強していても、寝る時も。ずっと一緒だと、思っていた。なのに。帰ったら、君が居なかった。お母さんに聞いても、「もう居なくなった」の一点張り。お母さんは僕に、他の友達を作れと言った。行きたくもない学校へ行かされて、他の子達と話をさせられた。でも、僕の友達は君だけだから、他の子には適当に接して、友達にはならなかった。
僕は今日も、部屋で待っている。僕と君が、またふたりきりで遊べる時を。次に君に会えた時は何をしようか、胸を弾ませながら。
*
抜粋:ある子供の母親と担当医師の会話の録音より
『先生、うちの子はやっぱり病気なんでしょうか……』
『病気ではないでしょう。あれくらいの年頃の子にはよく見られる症状です。』
『でも、ぬいぐるみを友達と言い張るなんて……それに、ずっと一人で話しているんですよ!?あんなの絶対異常です……!』
『奥さん、どうか落ち着いて……本当によくある話なんですよ、あれくらいの子には。大抵は、大きくなってちゃんとした友達ができれば収まりますから……』
『あの子は異常です!学校で他の友達を作るよう言っても、教室にすら入ろうとしないで……!この間なんて、友達と描いたと言ってこの絵を見せてきたんですよ!』
『……これは……』
『……右半分はうちの子が、左半分は例の友達が描いたらしいです。』
『……空白、ですね……』
『あの子には何が見えていて、何が聞こえているのか……もう私じゃ手に負えません……』
『……分かりました。少し荒療治にはなってしまいますが……あの子を無理矢理にでもあの人形から引き離しましょう。』
『え……で、でも、それは流石に……』
『……それくらいしないと治りませんよ、ああいう子は。』
『……分かりました。私も覚悟を決めて、あの子と向き合おうと思います。』
録音はここで終了している。
テーマ:ふたり
スマホの光に顔だけを照らされ、暗闇の中寝そべって意味もなく大量の情報を貪る。時刻はもう深夜と言って差し支えないが、まだまだ当分寝付けそうになかった。こんなゴミみたいな生活を続けて、もうどれだけ経っただろうか。大した目標も目的もなく、惰性で学校に通い続けて。疲れて帰って、何をするでもなくスマホを眺めるだけの日々。未来なんて思い描けそうにもなくて、将来の夢を想像しても灰色に塗りつぶされた汚い何かが瞼の裏に映るだけ。
そうやって、人生の貴重な時間を浪費し続けている。スマホを手放してしまったら、麻酔を打ち込むのをやめてしまったら、とてつもない焦燥と自己嫌悪で死にたくなるから。色の無い世界の中で、唯一鮮やかな色を映すスマートデバイスを片手に、気絶同然の入眠を待っていた。
そろそろ来る、と思ってから数分後、俺は意識を失うように眠りについた。
目の前に広がるのは、現実ではあり得ない世界。見た瞬間、咄嗟にこれは夢だと気付いた。一番目を引くのは、一面に広がる巨大な水槽の、青。深い深い海のようにも、鮮やかで軽やかな青空のようにも見える色。その青いキャンバスに、何の共通点も無い色達が散らばっている。白いインクの染みがそのまま動き出したような、シーネットル。丸く艷やかな光を放つ真っ赤な桜桃。いつかの帰り道で見たような、黄色い水仙の花。青のフィルターをかけて尚鮮やかなそれ。それは間違いなく、あの退屈でどうしようもないモノクロの世界で生きた俺の、確かな記憶の断片で。
失ったと思っていた色は、俺が封じていただけだった。夢は記憶の整理中の風景だと言う。つまり、この鮮やかな色達は、俺の心に確かに存在していたのだ。あの小さな箱に囚われて、こんなにも美しい世界の色を見なかったのは、俺だった。
俺の意識の及ばない夢の世界はもうとっくに、惰性なんかじゃない、俺の生きる意味を見つけていて。それを、この巨大な水槽に閉じ込めていたのだ。
どうせ夢なのだから、と、俺は全力で水槽のガラスを殴り付ける。派手な音を立てて、色の濁流が俺を飲み込んだ。夢なのに息苦しさを覚えたが、それも全部含めて、この世界の色だと受け入れる。目まぐるしく駆け抜ける過去の情景を眺めていると、遠くで目覚ましのアラームが聞こえてきた。
目を開けて真っ先に目に入ったのは、色を失って尚夢を捨てきらなかった俺の部屋だった。色も分からず描いた水彩画で埋め尽くされた、俺だけの世界が広がっていた。
テーマ:心の中の風景は
青々とした草原が風に靡いて、淡く白みがかった緑と鮮やかな黄緑の波模様をつくる。辺りには晩夏を見せつけるように、アキアカネが飛び交っていた。すぐ近くの湖でも目指しているのだろう。番をがっちりと、決して離さないように抱き留める姿がやけに目に焼き付いて離れなかった。人間の俺らからすれば一見純愛に見えるそれは、元をたどれば番が浮気しないように見張る重たい独占欲他ならない。最も、奴らに浮気なんて概念は無く、自分の遺伝子を確実に遺したいだけだろうが。
揺れ動く草原を、男2人の足で踏み荒らして行く。お互い行き先は伝えなかったが、足は同じ方向へ向かっていた。俺がトンボに意識を向けている間、俺の横を歩いていた彼は目当てのものを見つけていたらしい。惚けている俺の肩を痛いくらい強めに叩いて、意識を無理矢理そちらに向けた。
「あった。ほら、ここ。」
高校生の、大きくなってしまった俺ら。無駄に高くなった身長のせいで、ずっと昔はそこそこ大きかったはずの目印は、少し力を入れれば足で退かせてしまった。ごろりと石が転がって、草原の一部に欠けができる。石の跡には、ダンゴムシやらミミズやらが住み着いていた。そいつらに構いもしないで、持ってきたシャベルで土を掘り起こす。深くに埋めたと思っていたが、やはり子供の小さな手と大人に近い手ではもう感覚が違うらしい。5分も掘ったら、シャベルの先は硬いものに当たった。
掘り起こして取り出したのは、ずっと昔に埋めたタイムカプセル。横で見守っている彼と、2人で埋めたもの。埋めが浅かったせいか、思ったよりは侵食されていなかった。その場で蓋を開けると、当日の空気と一緒に懐かしい思い出が溢れて来た。保育園で撮った写真、2人で集めたビー玉、そして、未来の自分に宛てた手紙。なんともいえないノスタルジックな気分に浸りながら、俺達はそれぞれに中身を分けて草原に座り込む。
手紙を開くと、クレヨンで書かれた幼児特有の拙い字が目に飛び込んでくる。もうサッカー選手になったかとか、可愛いお嫁さんはできたかだとか書いてあった。高校生に嫁は早いだろう、なんて思いもしたが、幼児の可愛らしい想像だと目を瞑っておいた。ふと顔を上げると、俺と同じく感傷に浸っているであろう彼の横顔が目に入った。手紙を読むために伏せられた目は、照りつける西日のせいでいっそ神々しささえ感じる。
強い茜色に照らされた夏草が、風で揺らめいて黒い影と艶やかな光の波を描く。番を閉じ込めるあのトンボ達の独占欲にも似た、汚く絡み付いてくる感情。それは、目の前の夏草が描く澱んだ波模様のように、俺の心にずっと巣食っていた。
テーマ:夏草