--これからご飯食べない?
早朝に君から連絡が来たから、徹夜明けの重たい瞼を無理矢理起こして出掛けていった。寝巻きからかろうじて着替えた首元がよれたTシャツにジーンズを合わせた格好は、普段なら絶対に避けるコーディネートだ。ただコーディネートを考える頭と、近所でご飯を食べるだけという認識がどうにも優ってしまった。
駅前をうろつけば、すぐに君を見つけた。
「おはよう!」
君が駆け寄ってくるから、俺は眩しくて目を細めた。
「徹夜明けだからもっと抑えてくれ」
「あっごめん、声デカかった?」
トンチンカンな返答をする君に、俺は思わず笑ってしまった。声ではないんだよな、と。
ただの挨拶に君の笑顔が合わされば、太陽に負けないくらい眩しいのだと言ってみたかった。
『日差し』
太陽がちょうど真上に到達して、ジリジリ焼けつく日差しの中。
だだっ広い校庭の真ん中で、友達と対人レシーブで遊ぶサッカー部の君。
楽しそうに笑う姿を少しでも目に焼き付けたくて、クーラーの効いた教室の窓に食らいつく私。
あっ。
君と目が合って、こっちに向かって手を振ってくれた。
かろうじて振り返したけど、私は両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。こっちを見てほしいと心の中で唱えていたのが、叶ってしまった。嬉しくて堪らない気持ちが全身に広がった。
やっぱり私の気持ち、君にバレているのだろうか。
『窓越しに見えるのは』
人類は突然、小指に巻きつけられた赤い糸が見えるようになった。運命の赤い糸という言葉の通り、運命の人と繋がっているらしい。
この赤い糸の存在で、世の中は阿鼻地獄となった。
夫婦なのに結ばれていない。手繰り寄せたらストーカーと結ばれていた。そもそも相手は人間でなかった。
大混乱の中、私は自分に巻きついた赤い糸を見て、幼い頃に読んだ絵本を思い出した。赤い糸で繋がったお姫様を、素敵な王子様が迎えに行く物語だ。
私もきっと、王子様が迎えに来る。
過信していた私は、王子様の迎えを待った。
一か月、半年、一年、三年。
迎えなんて来やしないのだと気がついたのは、赤い糸が初めて見えた日から五年が経っていた。世間では赤い糸騒動と称して、一連の事件は終息したと思われている。赤い糸で結ばれていようがいまいが、幸せな人は幸せだし、不幸な人は不幸だという認識に落ち着いたからだ。
それでも、私はこの小指にずっと存在している赤い糸の先が知りたい。
居ても立っても居られなくて、私は夏休みを利用して自分の赤い糸を辿った。約半日、炎天下の中を歩きっぱなしになったが、ようやく終点が見えた。
辿り着いた場所は、白い建物で表に救急車が止まっていた。
私の運命の人は、ここにいるらしい。
患者側か、職員側か。どちらかまだ分からないけど、一つ確かに分かったことがある。
患者ならそれどころじゃなくて。
職員なら激務すぎて。
そりゃ迎えに来られないわ。
『赤い糸』
西の空に入道雲が浮かんでいる。白くて一段と大きい、立派な夏の雲。私は見た途端、鞄の中身を確認した。今日はスポーティなコーディネートにしてキャップを被っていたため、日傘を置いてきたのだ。
そうこうしている間に、空には雲が増えてきた。狭まる青空の下、肌に当たる風の冷たさに驚いた。これはまずい。私は駅に向かって走り出した。
今日おろしたてのスポーツサンダルは、まだベルト部分が硬くて擦れると痛い。でも靴擦れ覚悟の上で走らないと間に合わない。結局、私の鞄の中には折りたたみ傘が入っていなかったのだ。
先程までの青空を、雲が全部覆い尽くした。入道雲はあんなに白かったのに、空を覆っている雲は暗い灰色だ。いよいよまずいと思ってスピードを上げた。
目の前に駅が見えた。あと、多分、走って二分くらいの距離だ。少し緩いキャップが脱げそうになり、慌てて手で押さえた。あと少し、もう少し。
なんとか駅の屋根の下に駆け込んだ。肩で息をする私に周りの人は訝しげな表情をしていた。でも次の瞬間、それどころではなくなった。空が光り、雷が大きな音を立てて鳴ったのだ。
バケツをひっくり返したような大雨が、駅の屋根に打ち付ける。私は濡れないように奥へと進んだ。よかった、間に合った。私はホッと息をついた。
これだから夏は苦手だ。
油断も隙もありゃしないから。
『入道雲』
ジリジリとした日差しが、窓から降り注いでいる。エアコンを稼働させていても、じんわりと汗が滲み出る。
ネットの天気予報によると、今年一番の猛暑日を観測するらしい。昨日も同じことを言っていた気がする。そんなことぼんやりと考えながら、ベッドから立ち上がった。
顔や体の中心はほてっているのに、手足がやたらと冷たい。冷房の風に当たったつもりはないが、冷たい空気で冷やしてしまったようだ。何か、温かいものを飲もう。
階段を下りてキッチンへたどり着いた。戸棚を開けると緑茶の茶葉の袋を見つけた。消費期限は八月末日まで。早くに飲んでしまわないと勿体無い。
私は急須の茶漉しに茶葉を移し、ダイニングテーブルに置いてある保温ポットまで持って行った。朝からコーヒー派の家族がいちいちお湯を沸かさなくていいように去年の冬から導入されたのだ。噂の魔法瓶は数時間程度なら熱湯を保ってくれる。
まだ午前中だし、朝入れた分が残っているはず。
私は急須をポットの注ぎ口に近づけて、蓋の真ん中を押した。
「あっ、待って!」
背中から声が掛かり、顔だけ振り返った。そこには洗濯カゴを抱えた母が、目を丸くして口をポカンと開けていた。
私は首を傾げながら、急須にお湯を注いでいた。しかし、一向に急須が温かくならない。私は手元を見て湯気が上がっていないことに気がついた。
やっぱり沸かし直せばよかった。
そう思っていると、洗濯カゴを洗面所へ置いてきた母が慌てたようにキッチンへ入ってきた。
「入れた!?」
「え?」
「ポットの中身、入れた!?」
「うん」
私が素直に頷くと、母は一瞬間を置いて笑い出した。両手を叩いて、目尻に涙を浮かべているほどに。
「え、何、どういうこと?」
私がイライラしながら問い詰めると、母は笑いながら謝り出した。
「張り紙つけたのに、まさか見ないまま入れるなんて思わなかった」
母は、ポットの向きを変えて、反対側にテープで貼り付けた紙を見せてきた。
紙にはこう書いてあった。
【麦茶、はじめました】
私は顔の表情が抜け落ちたと思う。母はこちらの様子をニヤニヤした顔で見てくる。その表情を無視した。
急須に蓋をして湯呑みに注ぎ、鼻に近づけて匂いを嗅いだ。青々しい匂いに混じって香ばしさを感じられた。
それを一口、飲んだ。
「苦くて美味しくない」
「そういう問題じゃないって!」
しばらくの間、母の笑い声が家じゅうに響いていた。
『夏』
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※水出しでお茶を飲む際は、水出し専用の茶葉を使用し、正しい作り方を守りましょう。
また、茶葉で温かいお茶を楽しみたい方は必ず熱湯を注ぎ、正しい作り方を守って火傷に注意しましょう。