「夜桜には早かったね」
彼女はこちらを見上げて笑う。日焼け知らずの白い肌は、満月の光で余計に白く発光して見えた。
先週まで雪予報が世間を騒がせていたのに、今週に入ってからは春の陽気が続いていた。日中はあまりの暖かさにコートがいらないくらいだ。
それでも日が沈めば肌寒い。時折吐く息の白さに驚いた。早く家へ帰って温まりたい。
俺の思いとは裏腹に、一緒に出掛けていた彼女は俺を公園へ連れ立った。遊具も何もない、殺風景な公園を道なりに歩く。一体なんの用事があるのだろう。俺が考えを巡らせていると彼女は桜の木の下で歩みを止め、そう言ったのだ。
「桜の開花はもうしばらく後だよ」
「ウッソ、いつ?」
俺はポケットからスマホを取り出して調べた。スマホの明かりが眩しくて眉間に力が入る。開花予想でネット検索していると「待って」と彼女の声が後ろから聞こえた。
目の前の桜の木の下にいたはずなのに。
少しもじっとしていられない彼女に苛立ち、思わず「何」と低い声でそっけなく返してしまった。不機嫌と捉えられてないか、慌てて振り返ってみれば、彼女は気にした様子もなく嬉しそうに上を指差した。
「梅! 梅が咲いてる!」
早く、と促されてそばに近寄れば、スマホを渡された。俺に梅を鑑賞させる時間は与えるつもりがないらしい。パスワードが解除されている彼女のスマホで加工アプリのカメラを起動すると、決まった画角で撮影を始めた。
彼女の顔をグリッドの中心に、空いたスペースには白い梅の花を添えて。
スマホを逆さにして数歩下がり、腰を落とすと足が長く映る。
これが彼女を撮影するときの最低限のルールだ。
彼女はスマホのカメラレンズに向かって表情を作る。先程までの笑顔とは別に、随分大人びた、落ち着いた顔だ。インスタに投稿するためなのだろう。
梅の周りには街灯がなく、白い梅の花と白く輝く満月が重なっていた。夜の闇と、白く発光する月と梅と彼女。コントラストがはっきりしているからか、逆光にはならなかった。彼女の表情はしっかり写っている。
「笑って」
数十枚撮ったのちに言えば、彼女は一拍置いてケラケラと笑い始めた。
「いつも思うんだけど何それ。『笑って』って言われただけじゃ笑えなくない?」
「いや今笑ってんじゃん」
そう言えば彼女の笑い声がさらに大きくなる。俺は構わずシャッターを切った。
「もういいや、ありがとう」
笑いが収まった彼女が手を差し出した。その手の上にスマホを渡せば、彼女はすぐさま指を動かした。撮影した百枚近い写真をチェックする指は、ラインで文字を打つよりも速い。
俺はその場でしゃがみ込んだ。彼女との身長差が大きいから、その分腰を落とす態勢には無理が生じる。中途半端な位置でキープした足腰は数分だけでも悲鳴を上げる。撮影を終えるといつもしゃがんでしまうのだ。
膝に肘をついて、彼女を見上げた。
いつもより白く輝く肌。黒くて長い髪はところどころ艶が白く光る。春だからと身につけているお気に入りの白いロングコート。夜との差が眩しい。
白い月が白い梅の花と重なって、俺の目では花びらがぼやけて見える。さながら月に梅が溶けて無くなっていると言っても過言ではないかもしれない。
「ホント写真撮るの上手いよね」
写真のチェックが終わったらしい。彼女は正面に立って、俺の手を取った。立ち上がらせようと引っ張る彼女がなんだか可愛くて、つい力をいれて体を重くしてしまう。彼女は「ちょっと」と口を尖らせながら、更に強い力で引っ張る。
ふとした瞬間だった。
彼女の黒い髪が夜に溶け込んで。白い肌と白いコートが、白い月と白い梅に重なって。彼女が一瞬、光に攫われたように見えて。
その瞬間だけ力が抜けた。彼女の引っ張る力に抗うことなく勢いよく立ち上がった。逆にバランスを崩した彼女を後ろへ倒れ込まないように掻き抱いた。
「ぎゃあ! 何?」
声を上げた彼女に構うことなく、腕に力をいれる。膝を曲げ、背中を丸めて上から覆った。俯いて鼻を寄せれば、彼女の髪から甘い香りがする。嗅ぎ慣れた彼女の香りだ。
彼女が自分の腕の中にいることに、安心して肩の力が抜けた。
「消えたかと思った」
「何言ってんだバカ」
胸をドンと押された。されるがまま腕を離せば、彼女は俯いていて顔が見えない。覗き込もうとすると、顔を避けられた。顔が見たくて手を添えれば、彼女に叩き落とされた。嫌われたかと焦ったら、チラッと見えた彼女の耳に気がついた。
白と黒の世界で、彼女の耳だけ真っ赤に染まっていた。
『花の香りと共に』
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞしるべかりける
(『古今和歌集』巻第一 春歌上 四〇番歌 躬恒)
——月夜には梅の花がはっきりそれであるとも見えない。梅の花は香りを頼りにどこにあるか知るべきだったのだ。
……をオマージュしようとして失敗した何かです。各方面に深くお詫び申し上げます。
空を見上げる。目の前には無数の星が輝いている。私の頬には堪えていた涙が流れた。嗚咽をするたび白い息で視界が曇る。ただでさえ涙で滲んでいるのに。
ボヤけた状態でも、星は光を失わない。涙と、鼻水と、涎と。人目を憚らずベチャベチャと顔を濡らしている。
あの星はママで、隣はパパで、あっちで人一倍元気に光っているのがなおくん。
震える指で無理矢理なぞってみて、さらに泣けてしまった。やめておけばよかった、星を家族に例えるなんて。
なんで今日に限ってこんなに空が綺麗なんだろう。
悔しくて、悲しくて、やるせなくて空を睨んだ。
『星』
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
哀悼
きっとあと少しだった。
ほんのわずかな差だったはず。
もっと勉強しておけば。
誰よりも早く始めていれば。
もっと、もっと。
そしたら。
「上ばかり見て疲れない?」
後ろから聞こえてきた声に、俺は足を止めた。頭上には灰色の空に茜色の光が差し込んでいた。俺は空から目を離して振り返ると、同じクラスの宮崎さんが立っていた。宮崎さんは短いスカートを翻して、大股で近づいてきた。
目の前に立ち止まった宮崎さんは、俺の肩までしか身長がない。目線を下げれば、宮崎さんは反対に見上げていた。
「サッカーボール、踏むところだったよ」
そう言われて自分の足元を見るも、サッカーボールはない。もう一度宮崎さんを見れば、呆れたようにため息をついていた。
「蹴り返してた」
「え」
「だから、転がってきたサッカーボールがちょうどよく足に当たって、グラウンドに戻ってた」
もう一度自分のつま先を見た。少し鈍い痛みのようなものを感じるが、特に変化はない。履き潰してところどころ擦れて色が剥がれたローファーだ。
恐る恐るすぐ横のグラウンドを見ると、サッカー部が練習していた。こちらも特に変わった様子はない。野球部や陸上部が使用する日もあるが、今日はサッカー部なだけだ。
俺は宮崎さんの話が理解できず、首を傾げた。首と頭の付け根あたりがポキっと鳴った。
「アニメの話?」
「たった今起こった出来事ですが!?」
信じられないと顔に書いてあってもおかしくないほど、宮崎さんは驚愕していた。あまりの勢いに押され気味になった。俺は思わず謝罪を口にしていた。
「ごめん、ちょっと考え事を」
ヘラヘラと笑みを浮かべて誤魔化そうとした。宮崎さんは「ふーん」と相槌を打ちながら、目に疑念を浮かべている。
宮崎さんのその目がどうにも気まずくて、俺は顔を逸らした。
「あっそ、まぁ気をつけなよ。転ぶかもしれないし、滑り落ちるかもしれないし」
「転ぶとか滑り落ちるとか、受験生に言うなよ」
「えー、でも和合くんもう受かったんでしょ?」
宮崎さんの言葉に一瞬言葉が詰まった。
「え、あ、うん」
「私も第一志望受かったし、二人とも終わってるなら良くない?」
ニコッと笑って歩き出した宮崎さんの後を追った。なるべく自然に並び、宮崎さんに合わせてゆっくりと、話せるスピードで足を動かす。女の子はこんなにゆっくり歩くのかと、初めての発見で内心驚いてしまった。
宮崎さんがいる左側だけやけに体が熱く感じる。
「明日が卒業式なんて、信じられないよね」
「そうだね」
「三年間ってあっという間だった」
「確かに」
「でも受験も終わったし、やり残したこともないから超スッキリしてる」
「そっか」
楽しそうに話す宮崎さんに対して、俺は必死に相槌を打った。でも気の利いたセリフを返すことができない。俺ってこんなに会話下手な奴だっただろうかと今すぐ頭を抱えたくなった。
宮崎さんは若干落ち込んでいる俺なんてお構いなしに、色々話しかけてくれる。
「和合くんはやり残したことある?」
不意にやってきたその質問に、食い気味に答えた。
「勉強」
宮崎さんは意外な答えだったようで、俺を見て目を丸くさせていた。
「足りなかった」
頭の中で、先ほど考えていたことが猛スピードで駆け巡る。
合格点なんて発表されない。だから実際自分が何点取れたかわからない。けど何度も受けた模試は常にA判定だった。本番の試験直後は手応えがあったし、自己採点ではなかなか良い得点だった。俺の中では一番の成績を記録していたから、自信しかなかった。
だけど落ちた。
宮崎さんと同じ大学に。
俺も第一志望だった。興味のある分野の研究ができる大学だった。都心にキャンパスがあり、実家から通える範囲だった。夏休みにオープンキャンパスへ行ったとき、校舎の雰囲気や広々した図書館が気に入った。
何より、宮崎さんと一緒の志望校だと知って、絶対に受かりたいと思った。元々宮崎さんに惹かれていた俺は、受かったら絶対告白しようとまで考えていた。
完全に浮かれていて、結局足元を掬われた。
幸いなことに第二志望の大学は合格通知をもらっていたから、四月からは大学生になれるのだけど。宮崎さんとは離れ離れだ。
「もっと早く、いや、時間を割いて、え、あ」
言いたいことが定まらず、しどろもどろになった俺に、宮崎さんはクスッと笑った。
「ストイックだね」
私も見習わないと。
宮崎さんは笑って言った。俺は言おうとしていた言葉を引っ込めた。茜色の光に負けないくらい眩しい笑顔に何も発せなかった。
心にわだかまりが残ったまま、俺は明日高校を卒業する。
『記録』
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
投稿から一年経ちました。
皆様いつもありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
いつも139の作品をご覧いただきまして誠にありがとうございます。
年明け以降の投稿につきまして、実際にご覧いただいた方はお察しのとおりでございますが、小説の形を成していないものが明らかに多数見受けられます。
現状、まとまった時間が取れず、どうにかこうにか誤魔化し騙しで今日までの投稿を続けている次第でございます。
皆様からいただくハートに似合った作品が投稿できず、深くお詫び申し上げます。
今後は投稿ペースを落として、続けてまいりたいと思いますので引き続きお楽しみいただければ幸いです。
これからも139をよろしくお願い申し上げます。
令和七年二月十五日
139
『ありがとう』
「君、あと五十年もしたらこの世を去るよ」
「えぇっ、マジで!?
……ってよく考えたら八十歳以上だからまぁ妥当か」
『未来の記憶』『そっと伝えたい』