きっとあと少しだった。
ほんのわずかな差だったはず。
もっと勉強しておけば。
誰よりも早く始めていれば。
もっと、もっと。
そしたら。
「上ばかり見て疲れない?」
後ろから聞こえてきた声に、俺は足を止めた。頭上には灰色の空に茜色の光が差し込んでいた。俺は空から目を離して振り返ると、同じクラスの宮崎さんが立っていた。宮崎さんは短いスカートを翻して、大股で近づいてきた。
目の前に立ち止まった宮崎さんは、俺の肩までしか身長がない。目線を下げれば、宮崎さんは反対に見上げていた。
「サッカーボール、踏むところだったよ」
そう言われて自分の足元を見るも、サッカーボールはない。もう一度宮崎さんを見れば、呆れたようにため息をついていた。
「蹴り返してた」
「え」
「だから、転がってきたサッカーボールがちょうどよく足に当たって、グラウンドに戻ってた」
もう一度自分のつま先を見た。少し鈍い痛みのようなものを感じるが、特に変化はない。履き潰してところどころ擦れて色が剥がれたローファーだ。
恐る恐るすぐ横のグラウンドを見ると、サッカー部が練習していた。こちらも特に変わった様子はない。野球部や陸上部が使用する日もあるが、今日はサッカー部なだけだ。
俺は宮崎さんの話が理解できず、首を傾げた。首と頭の付け根あたりがポキっと鳴った。
「アニメの話?」
「たった今起こった出来事ですが!?」
信じられないと顔に書いてあってもおかしくないほど、宮崎さんは驚愕していた。あまりの勢いに押され気味になった。俺は思わず謝罪を口にしていた。
「ごめん、ちょっと考え事を」
ヘラヘラと笑みを浮かべて誤魔化そうとした。宮崎さんは「ふーん」と相槌を打ちながら、目に疑念を浮かべている。
宮崎さんのその目がどうにも気まずくて、俺は顔を逸らした。
「あっそ、まぁ気をつけなよ。転ぶかもしれないし、滑り落ちるかもしれないし」
「転ぶとか滑り落ちるとか、受験生に言うなよ」
「えー、でも和合くんもう受かったんでしょ?」
宮崎さんの言葉に一瞬言葉が詰まった。
「え、あ、うん」
「私も第一志望受かったし、二人とも終わってるなら良くない?」
ニコッと笑って歩き出した宮崎さんの後を追った。なるべく自然に並び、宮崎さんに合わせてゆっくりと、話せるスピードで足を動かす。女の子はこんなにゆっくり歩くのかと、初めての発見で内心驚いてしまった。
宮崎さんがいる左側だけやけに体が熱く感じる。
「明日が卒業式なんて、信じられないよね」
「そうだね」
「三年間ってあっという間だった」
「確かに」
「でも受験も終わったし、やり残したこともないから超スッキリしてる」
「そっか」
楽しそうに話す宮崎さんに対して、俺は必死に相槌を打った。でも気の利いたセリフを返すことができない。俺ってこんなに会話下手な奴だっただろうかと今すぐ頭を抱えたくなった。
宮崎さんは若干落ち込んでいる俺なんてお構いなしに、色々話しかけてくれる。
「和合くんはやり残したことある?」
不意にやってきたその質問に、食い気味に答えた。
「勉強」
宮崎さんは意外な答えだったようで、俺を見て目を丸くさせていた。
「足りなかった」
頭の中で、先ほど考えていたことが猛スピードで駆け巡る。
合格点なんて発表されない。だから実際自分が何点取れたかわからない。けど何度も受けた模試は常にA判定だった。本番の試験直後は手応えがあったし、自己採点ではなかなか良い得点だった。俺の中では一番の成績を記録していたから、自信しかなかった。
だけど落ちた。
宮崎さんと同じ大学に。
俺も第一志望だった。興味のある分野の研究ができる大学だった。都心にキャンパスがあり、実家から通える範囲だった。夏休みにオープンキャンパスへ行ったとき、校舎の雰囲気や広々した図書館が気に入った。
何より、宮崎さんと一緒の志望校だと知って、絶対に受かりたいと思った。元々宮崎さんに惹かれていた俺は、受かったら絶対告白しようとまで考えていた。
完全に浮かれていて、結局足元を掬われた。
幸いなことに第二志望の大学は合格通知をもらっていたから、四月からは大学生になれるのだけど。宮崎さんとは離れ離れだ。
「もっと早く、いや、時間を割いて、え、あ」
言いたいことが定まらず、しどろもどろになった俺に、宮崎さんはクスッと笑った。
「ストイックだね」
私も見習わないと。
宮崎さんは笑って言った。俺は言おうとしていた言葉を引っ込めた。茜色の光に負けないくらい眩しい笑顔に何も発せなかった。
心にわだかまりが残ったまま、俺は明日高校を卒業する。
『記録』
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投稿から一年経ちました。
皆様いつもありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
いつも139の作品をご覧いただきまして誠にありがとうございます。
年明け以降の投稿につきまして、実際にご覧いただいた方はお察しのとおりでございますが、小説の形を成していないものが明らかに多数見受けられます。
現状、まとまった時間が取れず、どうにかこうにか誤魔化し騙しで今日までの投稿を続けている次第でございます。
皆様からいただくハートに似合った作品が投稿できず、深くお詫び申し上げます。
今後は投稿ペースを落として、続けてまいりたいと思いますので引き続きお楽しみいただければ幸いです。
これからも139をよろしくお願い申し上げます。
令和七年二月十五日
139
『ありがとう』
「君、あと五十年もしたらこの世を去るよ」
「えぇっ、マジで!?
……ってよく考えたら八十歳以上だからまぁ妥当か」
『未来の記憶』『そっと伝えたい』
脳みたいに心も取り出せたらいいのに。
いや脳みそもあんぱんのヒーローや、脳みそが本体のジュソシみたいに気軽に「はい」とは取り出せないけれど。……あんぱんのヒーローって顔を引きちぎってただけで脳みそは取り出してないか。そもそも脳みそあるのかな。あれか、心で考えるから頭じゃなくて胸にある的な。
「とりあえずあんぱんのヒーローから離れましょう」
「よく考えると、パンと動物と人間が互いに助け合って生きる世界って結構ぶっ飛んだ設定ですよね。今なら尾崎さんに止められる」
「あの世界は唯一無二ですからね。僕、あまりファンタジー得意ではないので」
果たしてあの世界はファンタジーなのか。魔法も何も出てこないけど。
この喫茶店は尾崎さんとの打ち合わせでよく利用する一つだ。女性作家の私に気を遣って、人目の多い場所を必ず用意してくれる。尾崎さんは仕事も気遣いもできる編集者だ。
「それで、心を取り出して色々見える主人公をってことですか」
「はい。体にくっついたまま心を見る主人公は多々いますが、物理的に取り出している主人公はいないなって思いまして」
「そりゃ、グロいでしょう」
尾崎さんの的確な指摘が私に突き刺さった。思わず胸の辺りを押さえる。
「医療関係の話なら、まぁ、心臓外科などありますし、物理的に心臓を取り出せますけど」
「それじゃあダメなんです!」
私はカッとなって大きな声を出した。
「心は、心臓と区別すべき大切な臓器の一つです。決して目には見えないし、脳みそと一緒と言われて仕舞えばお終いかもしれませんけど。人が人に対して慈しむ、慮るのであれば、心は存在して然るべきです」
私の必死な訴えに、尾崎さんは見開いた後一息ついた。
「なら、書いてください」
「えっ」
「僕が真っ先に読むので」
「でもまだ」
「決まったわけではありませんが、書かないと始まらないでしょう」
尾崎さんはスマホを見遣るとテーブルに広げたパソコンを閉じてカバンにしまい、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。私も釣られるように資料やノートをカバンにしまい、アイスティーを飲み始める。まだ半分も残っていてすぐには飲みきれなさそうだ。
そんな私に、尾崎さんはフフッと笑った。
「ゆっくりしていってください。僕はこの後打ち合わせがあるので会社に戻らないといけないんです」
経費で落としますんで、追加ありますか。
優しく言う尾崎さんに私は首を振った。尾崎さんは立ち上がり、伝票を取った。
「では、また。先生渾身の「心」の物語、楽しみにしています」
尾崎さんはそのままレジカウンターまで歩いていった。会計をする尾崎さんの背中を見ながら、私は頭をぼんやりさせていた。
尾崎さんの言葉、かなりプレッシャーなんだよな。
口から離れたストローがグラスの中をカランと鳴らす。店を出る前に振り返った尾崎さんと目が合い、互いに会釈をして解散となった。
早く帰って捻り出さないと。
『ココロ』
「お願い!」
「絶対嫌」
「そこを何とか」
「嫌ったら嫌」
彼女は肩を落とした。
「そのジョリジョリ頭、触っても良いじゃん」
「良くないし」
「減るもんじゃないよ?」
「それ言う立場なの、俺な」
「星君の意地悪」
「何とでもどうぞ」
膨れっ面で不機嫌を隠さない、彼女の膨らんだ頬を指で突いた。
『星に願って』