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 駅に降り立つと、パラパラと雨が肌に当たった。慌てて手に持った日傘を差したが、晴雨兼用できない日傘だったことを思い出していそいそと畳んだ。雨足は弱いけど少しも濡れたくない私は、肩にかけたトートバッグに手を突っ込んだ。バッグの底に沈んでいるはずの折り畳み傘を探るものの、指先にはそれらしいものが当たらない。そのうち焦ったくなってバッグを開いて中を確認すると、折り畳み傘はどこにもなかった。

 ああ、家か。

 ため息混じりに浮かんだその言葉を、頭を振って打ち消す。

 あそこには二度と戻らない。

 新幹線の座席に着いた時に誓った言葉を、心の中で繰り返す。とにかく雨を避けたくて、駅の待合室へ向かった。
 改札を出た右側にある待合室は、かつて喫煙所も兼ねていた場所で、タバコの匂いが充満していて一分たりとも入りたくなかった。通学で使っていた最寄駅だけど、待合室には近寄らなかった。
 午後三時過ぎ。待合室を覗けば誰もいなかった。喫煙用の灰皿スタンドは撤去されていて、新たにベンチが設置されている。私は足を踏み入れてベンチに腰を下ろした。屋根はあるが道路に面した目の前には壁がない。私はどこまでも広がる田んぼと、ざあざあと強くなってきた雨をぼんやりと見た。

  *

 二度と帰らないと、十年以上前にも思ったことがあった。春から東京の大学へ進学する時、東京方面行きの電車に乗った瞬間にそう誓ったのだ。
 どこまでも田んぼで、遠くに見えるのは山並みで。テレビで観るようなキラキラした生活に憧れた私は、大学生になったら上京すると決めていた。
 キラキラな大学生活を送って、キラキラな社会人になって。彼氏ができて、結婚して、子供が産まれて賑やかな家庭を築く。
 自分の心に目標として刻んだ考えは、途中まで叶えることができた。
 講義もサークルもアルバイトも充実した大学生活。第一志望の企業に就職して仕事もプライベートも毎日楽しかった社会人生活。社会人四年目に仕事の取引先として翔と出会って交際が始まり、一年後にはプロポーズを受けた。そのまま入籍して東京で暮らしいていた。全てがトントン拍子で進んでいく。順調だった。

 私は子供に恵まれなかった。私の不妊だった。

 翔は子供が好きだった。でもできないなら仕方ない、と言ってくれた。彼のご両親も泣いて謝る私に気を遣って慰めてくれた。お嫁さんが来てくれただけで嬉しい、と。
 この優しい人たちのもとに産まれたら、きっと愛情たっぷり受けてすくすく育ってくれるに違いない。私はまだカケラも見ぬ我が子に会いたくて、この優しい人たちに会わせたくて不妊治療を始めた。自分の体に一体何が起こるのか不安で仕方なかった。費用だってバカにならない。それでも周りに励まされながら不妊治療を続けていた。

 何年経ってもめぼしい成果は得られなかった。

 不妊治療を始めて五年が過ぎようとしていた。まだ三十二歳だ、妊娠する可能性は十分にある。翔にもご両親にも、理解してもらっている。やめるのはもったいない。
 そう考える一方で、反対のことも思い浮かんだ。もう子供できないんだよ。そういう体質で自分が生まれてきちゃったんだよ。諦めなよ。子供いなくていいって言ってくれてるんだから。高い費用払ってまで続ける意味なんてないんだよ。
 諦めるか、諦めないか。私の頭の中でグルグルと考えが巡る。
 いつからか気力が湧かなくて、ひどく疲れて、仕事に行くのも億劫で。ただひたすら眠っていた。怠けてばかりの私に、翔も最初は心配してくれた。でも次第にそんな素振りも見せなくなり、いつの間にか帰りが遅くなって外泊が増えた。
 ああ。これは私のせいだと思った。翔の帰りが遅くなったのも、外泊が増えたのも、私が翔の充実した毎日を阻害しているのだと。察することはできても、そこに感情は何も生まれなかった。
 別れはどちらかが言い出したわけでもない。対面する私たちを挟んで、リビングのテーブルの上に緑の紙と、話し合いの末、擦り合わせた条件を書面に起こした書類が置かれていた。署名と捺印をして、間違いがないかダブルチェックして。ふと顔を上げれば、こちらをじっと見る翔と目が合った。
 翔は驚いた表情を浮かべた。まるでお化けでも見ているようだった。何か言ってやろうかと口を開くが、何も言葉にする気力がなくてまた閉じた。
 浮気していた俺が悪いから、と慰謝料をくれた翔に、泣くことも怒ることもできず、やっぱり浮気だったんだと頭の片隅で考えた。
 この部屋は元々私が住んでいた。実家暮らしの翔が、付き合って半年経ったあたりから私物をどんどん増やしていき、プロポーズ後に転がり込んできたのだ。今は通勤が楽だからここがいいと主張してきた。本当は蹴りたい話だ。上京してから変わらず住み続けてきた部屋だけに少しだけ愛着がある。でも喧嘩する元気も、調停する気力もない。
 次の家が決まるまで住んでいていい、俺は実家にいるから、と偉そうな物言いをした翔に首を振る。ホテルでも取るのか、と探りを入れてくる翔に、私は口を結んで首を振る。何回か繰り返すと喋る気がないことを察したらしい。翔はテーブルに広げた離婚届と協議書をファイルに挟んで立ち上がった。この後すぐに区役所へ行くらしい。
 私も立ち上がり、寝室のクローゼットの中を掻き分けた。奥底には、結婚前友人と海外旅行へ行った際のシルバーのキャリーケースが眠っていた。キャリーケースは、旅先でできた傷隠しに、よく分からない言語とデザインのステッカーを貼っている。なんだかんだでお気に入りだ。
 やっとの思いで引き出したキャリーケースは、少し埃をかぶっていた。翔の好みでないらしいキャリーケースは、結婚してから日の目を見ることはなかったからだ。近くにあったティッシュでササっと拭き上げて、空っぽの中身にどんどん服を投げていく。とにかく今着る物を入れるように意識した。他にダンボールに詰めるものと、捨てるものに袋を用意してどんどん入れていく。クローゼットの中が終わったら寝室を出て部屋のあちこちにある私物を仕分けていく。見落としのないよう隅々まで見た割に、荷造りは一時間程度で終わってしまった。パンパンのキャリーケース、実家に送るダンボール二箱分の袋、あとはゴミの日に出してもらうことになる。ダンボールは元々用意されていた内から二個拝借して、袋ごと詰め込んで封を閉じた。スマホのアプリで配送手配をして、すぐ受け取りに来た配達員へ渡した。残りのゴミは、翔に任せることにした。
 何も残さなかった。翔にもご両親にも悪いけど、私のことは早く忘れてほしかった。
 そのままキャリーケースとトートバッグを持って、私は地元方面行きの電車に飛び乗った。電車の中で新幹線の切符も買っていた。仕事はすぐに辞められないけど、ちょうど土日祝日の三連休だから、逃げるように実家へ帰ってきたのだ。

  *

 考えなしだったと少し反省している。仕事はリモートワークに切り替えているとはいえ、週二回は出社しないといけない決まりだ。実家から東京の会社は、新幹線に乗ってもかなり時間がかかる。通勤には不向きだ。本当は住む場所を探すべきだった。
 次第に強くなる雨を眺めながら、少し後悔に苛まれた。連休が明ければ仕事へ行かなくてはならない。ホテルに連泊することは簡単だけど、金銭面で長続きはしないだろう。この田舎町にどれだけ再就職できる会社があるか、私は知らない。今の仕事は辞めるべきではないのだろう。
 それでも、東京へ帰る気は起きなかった。

「あれ」

 突然男の人の声が聞こえた。ハッとして目線を彷徨わせると、目の前に一台の軽トラックが止まっていた。運転席の窓から顔を覗かせて、こちらを見る男の人がいる。
 見られている不快感に身を捩らせると、男の人は車を降りて傘を差し、こちらに向かってきた。逃げなきゃ。何となく腰を浮かせると、また男の人が話し出した。

「舞ちゃんでしょ? 大伴さんのところの」

 名前を呼ばれて、私は恐怖のあまり動くに動けなかった。
 男の人は傘を差したまま、待合室には入らずに話しかけてきた。恐る恐る顔を見上げると、どこか懐かしい感情が湧いてきた。
 さっぱり切られた黒髪に浅黒い肌。太い眉とまん丸の目。無精髭が生えているけど、その面影はかつての同級生——唯一同い年だった『たっくん』に似ていた。

「もしかして、たっくん?」

 十数年ぶりの再会だから、合っている自信はなかった。もしかしたら人違いかもしれない。私が発した声は震えていた。
 目の前の男の人は、私の声を聞いてニッコリと笑った。

「久しぶり、元気してた?」

 風貌に似合わない、物腰の柔らかい口調と、想像していた人物と結びついて心から安堵した。

「せっかくの里帰りなのに雨じゃあ最悪だね」
「私、傘持ってくるの忘れちゃって」
「その白いのは?」

 たっくんは、私が握る日傘を指差した。私は首を振って返した。

「日傘なの。天気予報で晴れだったから」
「あー、最近気候のせいで変わりやすいんだよな」

 たっくんの残念そうな声に、私はふと思い出した。この田舎町は山だから、天気が変わりやすいんだったと。

「まあ、送っていくから。軽トラで悪いけど乗っていきなよ」
「いいの? 仕事中じゃ」
「農協帰りだから大丈夫」

 あんまり綺麗じゃないけど、とたっくんは、キャリーケースを荷台へ積んでビニールシートを掛けてくれた。すぐ戻ってきて私のことも助手席に案内してくれた。

「荷物も多くて汚いけど」
「ううん、全然。汚くないよ」

 そう返せば、たっくんは丸い目をもっとまん丸にしてこちらを見た。
 確かに落としきれない錆や泥汚れがところどころについているし、だいぶ年季の入った軽トラだけど、私は嫌な感じがしなかった。何となく、学校帰りにたっくんのお父さんが、作業着のまま軽トラで私たちを迎えにきてくれた時のことを思い出していた。

「でも、小綺麗な格好してるから。服が汚れるのは嫌なのかなって。雨も嫌そうに見てたし」
「確かに雨に濡れるのは苦手だけど。服は洗えばいいじゃない」
「いやいや、泥汚れを舐めちゃいかんよお嬢さん。見てよ、この作業着。こことか、こことか真っ黒っしょ」

 運転席に座ったたっくんが、ハンドルを握りながら腕を差し出してきた。腕捲りした作業着は、ところどころに汚れが付いていた。おどけて見せるその姿に、思わずフフッと笑いをこぼした。

「そういう仕事だからしょうがないじゃない」
「まあ、そうなんだけど。嫌じゃない?」
「全然」

 まだ笑う私をこづいて、たっくんはゆっくりと軽トラを発進させた。雨は思ったより強く、ワイパーがひっきりなしにフロントガラスを拭いていた。舗装されてない凸凹した田んぼ道を、軽トラはスイスイと進んでいく。ガタガタと振動だけは伝わってくるが、乗り心地は悪くない。
 たっくん家は、代々農家を営んでいる。農協や直売所へ卸すさまざまな野菜は、瑞々しくて美味しいと評判だ。学校が休みの日は朝から収穫の手伝いをしに通っていたのを覚えている。時々掛かってくるお母さんからの電話で、たっくんが後を継いでいると聞いていた。
 そういえば、その電話で聞いた話があった。

「たっくん、結婚したんだよね? 私、助手席に乗っていいの?」

 ここで降ろされても困るけど、と聞くと、たっくんはああ、と声をこぼした。

「別れたよ」
「……え」
「ていうか逃げられた」

 感情のない顔で、たっくんは真っ直ぐ見つめたまま言った。私は咄嗟になんで、と小さい声で聞き返した。

「なんでって、直球だな」
「いや、でも、だって」
「朝は早いし、夜も早い。年中無休で土いじり。その割に贅沢できる時間と場所、賃金もない。終いにはプライベートなことにヅカヅカ入り込んでくるご近所付き合い。まあ、その他諸々で嫌になったんだと」

 軽トラはダサいってさ。

 軽口でも叩くように努めて明るい声で話された内容に、ああ、お嫁さんは都会出身だったのかと思い至った。たっくんは高校卒業後に地元の農大へ進学したから、その時に出会った人だったのかもしれない。余生を自然豊かな田舎で過ごすこと。その憧れを都会の人は持っているようだ。けどそこにはドロドロとしたマウント合戦があることをもっと知ってほしい。
 私も田舎特有の筒抜けな近所付き合いが嫌で、それが都会に出たい理由の一つだった。東京はいい意味で人に無関心でいられる。その面では田舎より魅力に感じた。

「軽トラほど適した乗り物知らないけどね。荷は積みやすいし下ろしやすい。細くて凸凹した山道にも対応してる。形はほら、シボレーに似てない?」
「それは似てない」

 わざととぼけた私にたっくんは声を上げて笑ってくれた。
 都会には都会の生活スタイルがあって、田舎には田舎のスタイルがある。それに適した車種だってある。まあ、東京にシボレーは目立ちすぎるんだけども。
 たっくんはひとしきり笑って、それにしてもと話を切り出した。

「雨じゃなくても、駅からどう帰るつもりだったんだ? ここらじゃタクシー呼ぶにも時間かかるだろう」
「あー、歩けない距離ではないかなって」
「その靴と手荷物で?」

 私はアハハと笑って誤魔化そうとしていた。この田んぼ道は舗装されてない。それにも関わらず、自分の足元はしっかりヒールのあるパンプスを履いていた。自転車で片道三十分の田んぼ道を、ヒールのある靴で歩くには無理がある。本当に何も考えずに帰ってきてしまったものだ。
 呆れたようにため息をつくたっくんに、ただひたすら笑って誤魔化すしかなかった。

「偶然通りがかったから良いけど。最近明るくても色々危ないんだよ」
「えっ不審者とか?」
「人じゃねえ。熊だ」
「熊」

 熊だけじゃなくて、色んな動物が餌を求めて民家を襲っているらしい。私は過ぎゆく田んぼを視界に入れつつ、考えを巡らせた。

「しばらく東京に住んだだけで、ずいぶん染まっちまったなあ」

 私は小さく呟いた。山の天気は変わりやすいとか、舗装されてない道を歩くには不向きの靴とか、人より野生動物が危ないとか。十代までは当たり前だった感覚が、今ではすっかり忘れてしまっていた。 

「これが都会にかぶれた女ってわけか」
「自分で言うかよ普通」

 フフッと笑った私に、自分で言ってて笑うなよ、とたっくんがツッコミを入れてくれた。かつての思い出の中も、この距離感が心地良かったんだと懐かしんだ。

「じゃあバツイチ同士だね」
「おっ、まえなあ。あえて避けてやってたんだろうが」

 気を遣って損した、とたっくんは今度こそ大きなため息をついた。まあ、何年も帰ってない女が突然何も告げずに帰ってくるなら、十中八九そういう理由だから。たっくんも察して、あえて黙っていてくれたのだろう。

「再就職先は決まったのか?」
「いんや?」
「仕事は辞めてきたんだろう」
「まだ言ってない」

 はあ? と大きな声を上げたたっくんに、私は他人事のように笑ってしまった。

「舞ちゃんってホント昔から考えなしすぎる」
「たっくんも一緒じゃない」
「いんや、俺はもっと聡明だったね」
「聡明? たっくんが?」
「おい、煽ってんなら事故らせるぞ」

 たっくんは脅してきたけど、安全運転に違いなかった。それがまたおかしくて笑った。
 軽トラは住宅街に入ると細い道を小回りに曲がった。もう、実家の青い屋根が見えてきた。

「再就職先、見つかんなかったらうち来る?」
「えっいいの?」
「人手不足の癖に元嫁に逃げられて、親からの八つ当たりがひでえの何の。でも舞ちゃんが来てくれたらしばらく落ち着くだろ」

 実家の前にゆっくりと軽トラは止まった。助手席のドアを開ければ、雨足はだいぶ弱くなっていた。これなら傘無しでもと下りて、荷台側を回る。すでに運転席から降りていたたっくんが、キャリーケースを下ろしてくれていた。

「送ってくれてありがとう」
「おう、しばらくこっちにいるのか?」
「とりあえず三連休だけ。あとはまた考えなきゃ」

 じゃあね、と言って受け取ったキャリーケースを転がそうとしてやめた。車輪を地面に取られて転ぶことが目に見えているからだ。両手で持ち上げて、玄関へ向かう途中、砂利にヒールが取られてよろけてしまった。

「あっぶえねな」
「うわ、ごめん」
「玄関まで持ってくって」

 私からキャリーケースを奪うように持ったたっくんが、そのまま実家の玄関の戸を開けた。ガラガラと音を立てる戸に気づいたのだろう、お母さんが奥からやってきた。私たちを見たお母さんは、驚いた顔をして口を開いた。

「あんた、本当に帰ってくるバカがいるかい」
「開口一番それ?」
「はいはい、おかえりおかえり」

 あらやだ、たっくんに持たせるなんて失礼な子でやあねえ。会社はどうしたの? まだやめてない? やっぱりバカだねえ、ちゃんと辞めてこなきゃ周りの人に迷惑かかるでしょう。ああ、たっくん、もしかして舞香送ってくれたの? 優しい子だねえホントうちのバカを見習わせたいわ。農協帰り? お疲れで雨降ってる中ありがとうねえ。あんたちゃんとお礼言ったの? 今度三井田さん家に菓子折り持って行くからね、よろしくお伝えしといてね。

 のっけからマシンガントークのお母さんに、私もたっくんもタジタジになってしまった。私はとりあえず持たせたままのキャリーケースを受け取って玄関に置き、お母さんのお小言から逃れるように戸の外へたっくんを連れ出した。
 たっくんは楽しそうに笑った。

「舞ちゃんのお母さん、相変わらずだね」
「口だけ回ってホント困る」
「じゃあ俺、帰るから。話はまた今度ゆっくり」
「うん、本当にありがとう」

 たっくんは手を振って軽トラに戻って行った。私も手を振って軽トラを見送った。
 駅で感じた冷たい雨は、優しい音を鳴らして地面に落ちる。あれだけ嫌だと感じていた田舎に戻ってきたのに悪い気がしないのは、きっとたっくんに呼ばれて真っ先に再会できたからだろう。良いスタート日だと本気で思った。
 生憎の雨模様だが、私には空が明るく映っていた。



『やさしい雨音』『君の名前を呼んだ日』

5/26/2025, 11:49:09 AM