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3/3/2024, 9:06:56 PM

 年が明けてから二ヶ月経った。
 三月は忙しい。仕事が年度末を迎えるため、色々な場面で締め作業が必要となってくる。それは師走の名前に相応しい十二月にも言えることだが。三月は半期に一度の人事異動がプラスされる。引き継ぎやら取引先にご挨拶やら、やることが多すぎる。仕事が終わらなくて残業するのは必然だった。
 今日は残業したのにも関わらず八時に退社することができた。春を迎えたにも関わらず、夜道は冷たい風が吹いて体が震えた。早く帰って温まりたい。足早に歩いていると、ポケットの中のスマホが震えた。画面を確認したら、彼女からだった。

 我残業故未帰宅
 誠遺憾也

 漢字のみの表記だが、意味がわかったときに笑いが込み上げてきた。
 彼女はその日のテンションに合わせてメッセージの文体を変えてくる。今日は侍言葉の気分らしい。おそらく不本意な残業になってしまったんだろうな。笑いを堪えなきゃいけないのが悔しくて仕方ない。
 ちょうど信号待ちになったので、返信を打つ。

 お疲れ様でござりまするお代官様
 某は任務を全うし本丸へ帰還する所存でござりまする
 道中万屋へ立ち寄り食糧を調達いたしまする

 侍言葉なんてわからない。時代劇や大河ドラマは専門外だ。何となくそれっぽい言葉を並べてメッセージを送信した。
 信号が青になり、横断歩道を渡る。最寄り駅前のスーパーは夜遅くても営業してるから、そこに立ち寄って出来合いのものを買っていこう。
 歩くスピードを落とさず足を運んでいると、またスマホが震えた。人にぶつからないように避けながら、チラリと見ると、

 かたじけない

「ブフッ」
 今度は我慢できなかった。


   *


 帰宅後、シンクに置きっぱなしだった今朝の洗い物を片付けて、洗濯物を畳んでいるときに彼女が帰ってきた。
「ただいまー!」
 声だけでもわかるくらいには、上機嫌である。
「おかえり。すぐご飯食べる?」
「食べたい! 今日お昼行けなかったからお腹空いた!」
「わかった、温めるよ」
「ありがとう、愛してる!」
 そう言い残して、彼女は寝室の方へ消えていった。俺は彼女の言葉にギョッとしてしまった。普段はこんなノリノリで愛の言葉を言うタイプではない。何か相当の嬉しい出来事があったのか、それともあまりの疲れでテンションが振り切れてしまったのか。
 考えても埒があかない。部屋着に着替えただろう彼女が、鼻歌を歌いながら洗面所に入っていった。俺は洗濯物を後でソファの隅に寄せて、キッチンに入った。
 今日は3月3日のひな祭りで、スーパーの惣菜売り場も関連する料理が並んでいた。女の子の成長を祝う日だからか、ちらし寿司に刺身の盛り合わせが所狭しと並んでいた。あとは彼女が好きな魚介類の入ったマカロニサラダと、ストックが切れていたインスタントのお吸い物。俺はもう少し食べたかったからお稲荷さんも買ってきた。五個も入っているから、一個くらい彼女が欲しがるかもしれない。
 洗い物を増やしたくないからプラスチック容器のままテーブルに並べた。その間に彼女はとうとう歌い始めた。こちらの方まで声が聞こえてくる。『ひなまつり』の替え歌らしいが、不穏な歌詞だ。
 子どもの頃にハマったモンスターゲームのキャラクター名が登場するのだが、ツッコミどころ満載だ。明かりをつけましょうってソイツ全身炎に包まれていて目つき悪いモンスターじゃねぇか。お花をあげましょうと言ってもまだ開花してないし独特な異臭がするって図鑑に載ってるモンスターだし。幽霊モンスターばかりの笛太鼓は単純に怖いだけである。どこが今日は楽しいひなまつり、だ。子どもが泣くぞ。
 水の音が止まって、やがて彼女が現れた。化粧も落としたらしく、つるんとした素肌を晒していた。一緒に暮らし始めてようやく見せてくれた彼女の素顔は、隙のない化粧を施した姿よりもずっと可愛く見える。
「買ってきてくれてありがとう。どれも美味しそう」
 テーブルの前にやってきた彼女から歓声が上がった。いそいそと椅子に座って、今か今かと待ち構えている。その表情は実家で飼っている柴犬のポニーを連想させた。ポニーは食いしん坊かつ歩くのが好きで、ご飯と散歩の時間には目をキラキラさせて大はしゃぎだった。ポニーは元気だろうか。
 沸騰したばかりの熱湯で溶かしたお吸い物と、水の入ったコップを配膳して、テーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろした。俺と彼女が手を合わせたのは同時だった。特に呼吸を合わせなくても「いただきます」と声がピッタリ揃う。こんな小さなことが嬉しいものだと感じたのは、彼女と暮らし始めてからだ。
 真っ先にお吸い物を手にして口に含む。
「あ゛ーーーっ、美味しい!」
 声を上げたのは彼女の方だ。言っておくが、飲んだ物はお吸い物である。ビールではない。喉越しを楽しむものでもないのだが、身に沁みるらしい。俺もお吸い物を一口飲んだ。いつもと変わらない、インスタントの味である。
 その後も「美味しい」と繰り返しながら次々と口に含んでいく。勢いよく掻き込んでいるわけでも、早食いや大食いなわけでもない。でもいつも楽しそうに、嬉しそうにご飯を食べていた。
 彼女との食事はいつも賑やかだ。スマホを構えることがない俺たちは、テーブルの上に並べられたご飯を前に箸も口も止めない。冷めないうちに食べたい、でも会話もしたいという価値観が見事に一致していた。
 本当は疲れた彼女を癒せるような、美味しい料理が振る舞えればよかったのだが。
「買ってきちゃって悪いな」
「何で? 残業だったんでしょう。そういう時はお互いにお疲れ様会だからごちそうでいいんだよ」
 今日はお刺身の気分でした、と続いた。
 彼女は自分で作る料理以外のことをごちそうと例える。一個五十円のコロッケも、コンビニのフライドチキンも、ファストフードのハンバーガーも。俺が休みの日にパッケージの手順通り作ったインスタントラーメンですら嬉々として食べていた。さすがに喜んでいいのか分からなかった。
「俺は料理のレパートリー少ないから、あなたに振る舞えるものがないんだよな」
「手料理だけが愛情料理なわけないじゃん」
 お稲荷さんに箸が伸びてくる。取りやすいように彼女の方へ容器を寄せた。
「私はね、今すごく嬉しくて幸せ感じてるんだよ」
 お稲荷さんに齧り付いて表情が柔らかくなる。でもその台詞は、単に美味しいご飯を食べているからだけではないようだ。
「サラダも買ってきてくれた」
「野菜少ないけどな」
「温かいものも用意してくれた」
「インスタントだけどな」
「今朝の洗い物、片してくれたでしょ」
「俺も朝忘れてたから」
「洗濯物もいつの間にか畳んでくれてる」
「あとでちゃんと仕舞っておくよ」
「いつもお風呂上がり、掃除してくれる」
「カビ生えたら嫌だし」
「私はね、一つひとつが嬉しいの」
 他にもね、と彼女の言葉は続いた。ゴミ捨て、電球の交換、食器洗い、高いところの掃除、買い物の時車を出してくれる、飲み会で遅くなったら迎えにきてくれる、手が空いてたら美味しいご飯を作ってくれる、等々。どれも心当たりはある。ただそれは、二人で暮らしているんだから当たり前のことだ。自分でできることはやるべきだと考えている。俺がやると彼女より時間がかかるから、時短で済ませたいものは必然的に彼女の領域になってしまうけれど。まだまだ彼女の方が家事の負担が大きい。
 彼女はサラダに入っているエビを箸でつまみながら言った。
「全部さ、私と二人で暮らしていることを考えてくれてるんだなって。そう思ったら嬉しくて仕方ないんだよね」
 いつもありがとう。
 照れたように笑っていた。その言葉に、目頭が熱くなる。俺は誤魔化すように、ちらし寿司を掻き込んだ。
 いつもありがとう、なんてこっちの台詞だ。
 そういえばその言葉をなかなか口に出して言えてないことに気がついた。今すぐ言えたらよかったのに、少し間が開いてしまった。完全に言うタイミングを逃してしまった。次は言おう。遅くてもホワイトデーには言おう。
 あとね、と彼女はマグロの刺身を食べながら話し始めた。
「ひな祭りに託けて美味しいご飯食べたかったんだよね」
「何言ってんの。いるだろ俺の目の前に、女の子」
 そう言った途端、彼女の動きが止まった。こちらを見上げて固まっている。真ん丸の目をこれでもかと見開いている。
 何かまずいことを言ってしまっただろうか。咄嗟に謝ろうと口を開いたけど、彼女の顔を見て驚いた。
 トマトのように真っ赤である。その赤さは耳や首にまで至る。
「やぁだー! 私なんてもう横にしか成長できないのに、女の子だなんてもぉうー!」
 両頬に両手を添えて、クネクネ揺れていた。本気で照れてしまって、テンションと勢いで冗談っぽく誤魔化そうとしてるらしい。だからって口調をオバサンっぽくしなくても。俺がそういうのにすぐ笑うって分かってやっているからタチが悪い。ちょうど水を飲んでいた俺は喉に詰まらせ、咳き込んでしまった。
 そんな彼女が、まぁ、可愛いんだよな。


『ひなまつり』


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読み飛ばされると思っていましたが、思った以上に励ましのハートいただきました。
寝落ちしてデータ消えてしまった私が100%悪いのですが、びっくりです、本当にありがとうございます。
おかげさまで秒で立ち直りました。
何とか記憶を掘り起こして、加筆修正しつつ書き直しました。
励ましのハートをくださった皆様の中には、多分超大作を期待されていた方もいたかと思いますが、すみません、これが精一杯です。
さすらいの駄文ではございますが、今後ともお楽しみいただけたらと思います。
どうぞ宜しくお願いします。

3/2/2024, 3:13:29 PM

 なんてカッコいい少年なんだと思った。
 住んでいた村を魔物に襲われ、大切な人たちを失い、焼き尽くされたらしい。挙げ句の果てに、唯一守ることのできた村人たちからは裏切られ、他人どころか自分自身すら信じられなくなって逃げてきたそうだ。人々で賑わうこの街を眺めながら私に語ってくれた。
 彼は自分の力が思った以上の威力を持つことに、いつまで経っても慣れないらしい。
「いつか、本当に人を殺めてしまうのではないか」
 震える手を隠しながら、そう口にした彼は諦めたような、情けない顔をしていた。
 でも私は、彼の力に救われた。知らない男に襲われそうになったところを、たまたま通りかかった彼に助けられたのだ。確かに目の前で知らない男の足を払い、馬乗りしてタコ殴りする姿は今でも怖いが。男が這いつくばりながら去った後、私に「もう大丈夫」と笑って手を差し出してくれた。私の手を取る力は優しくて温かった。彼は間違いなく、私にとってのヒーローだ。
 彼の目的は魔物を倒して家族の仇を取ること。目的が同じ仲間を増やしながら、魔物の巣窟を探して旅をしていた。私もその巣窟に用があると伝えると、彼は笑ってまた手を差し伸べてきた。
 彼の仲間たちは仲が良いんだか悪いんだか理解できない部分が多かった。意見が割れて衝突することが多かったけど、お互いの実力は認めていて。トラブル続きな毎日を一緒に乗り越えてきたからこその絆があった。
 ただ共通して紅一点となった私に対しては優しかった。一人で戦うには心許ない私を助けてくれた。弱い私を見捨てず、一員としてカウントしてくれたことがとても嬉しかった。

 なんだかんだ楽しかった旅も最終局面。魔物の巣窟に辿り着いた私たちを待ち受けていたのは、今までとは段違いの強敵ばかり。戦って戦って、ひと息つく間もなく奥へと進んだ。
 全員がボロボロになりながら進んだ一番奥には、魔物を操る人物がいた。不気味に笑う年老いた男。仲間たちは、知らない謎の男に対峙して目を真っ赤にした。私は、ただその男を前に立ち尽くした。
 謎の男が攻撃を仕掛けてくる。私たちは防戦一方でその男に傷すらつけられない。男が不敵に笑みを浮かべた時、男の背後で何か光るものを見た。
 誰も気づいていない。光るものの正体はわからないけれど、狙いはおそらく先陣を切る彼だと分かった。だから、私は咄嗟に彼の前へ出た。

 衝撃が私の体を貫いた。一瞬の出来事だった。音も聞こえなかった。動きが止まった私は倒れ込んだ。
 視界に彼の顔が映った。よかった。無事だ。
 目に涙を溜めて何か叫んでいるようだ。でもそれは言葉として認識できなかった。胸の辺りが生温かい。ドクドクと体内から流れ出る何かを感じる。ああ、そうか。私、胸を貫かれたのか。
 泣きそうな彼の顔にそっと手を伸ばし、頬を撫でた。

「    」

 口が動いたか分からない。声が出ていたかも怪しい。でも伝えたかったことは言えた。
 全身から力が抜ける。ひどい眠気に襲われた。眩しくて目が開けていられない。最期は彼の泣き顔が目に焼きついた。

 ここで力尽きる私のことなんて気にしないでほしい。本当は、最初から仲間にしてもらえるほど価値もなかった。それなのに、あなたが私を助けてくれたから。どうしてもあなたを助けたかった。助けて恩を返したかった。
 死んで恩を返せるなんて思ってないけど、結果そうなってしまったことは許してほしい。
 私の父が犯した罪を、どうか貴方の手で裁いてほしい。

 生きて、「私の希望」
 地獄で待ってる。



『たった一つの希望』

3/1/2024, 2:49:52 PM

 言ってしまった。
 とても軽率な発言だった。

 ベッドの中で微睡んでいると、隣から動く気配を感じた。私は咄嗟に隣の彼の手を掴んでいた。本当は手を動かす気にもならないくらいに気怠かったけれど。私の手は、いつの間にか彼のソレに重なっていた。
 彼は体を起こした状態でこちらを振り返った。その目は真ん丸としていて、驚いていることがありありと分かった。
 意外だったのかもしれない。私も今、自分の行動をそう感じているから。
 彼の指が、私のソレを絡め取った。
「何? 足りないの?」
 ニヤついた顔が、近づいてきた。唇が重なる前に、私は首を振った。
「じゃあ何?」
 勝手に絡め取って、人を弄んでいた手が離れていく。彼はこちらを変わらず見ているが、その目には先程までの熱はこもっていなかった。冷え切った彼の目が、私はあまり得意ではなかった。ニヤついた顔は引っ込み、明らかに不機嫌なことを隠そうとしていない。
 いつもの私なら飲み込めた。我慢して、一人になった途端に泣いて発散させてしまう。気分がスッキリするわけではない。ただ行き場に困った感情をどう処理していいか未だに分からないだけだ。
 ただ、今日はどうしても飲み込めなかった。
「そばにいて」
 口から溢れてしまってから気がついた。自分でどんな表情をしていたか分からない。でも、目を見開いた彼から次第に表情がなくなっていくところを見て、私は取り返しのつかないことをしたと思った。
「何で?」
 必要ある? そんな面倒なこと。
 声には出してないが、彼の目はそう訴えているように思えた。
「ごめん。悪いけど明日早いからさ、今日は帰るよ」

 明日早いから何だ。いつもそう言って私を置いてきぼりにする。朝を一緒に迎えたことなんて数えるだけじゃない。ここから通勤しちゃえばいいのに。一層のこと同棲してしまおう。というか今日何の日か覚えてるの。プレゼントは期待してなかったけど、もしかして何も言ってくれないわけ。私が今日に至るまで結構頑張ってアピールしたんだけど気が付いてないの。まさか、他にいい子でもできたの。

 言いたいことは山ほどあるのに、全て飲み込んだ。後々溢れてしまわないように、厳重に蓋をして、重石を乗っけて、紐でぐるぐる巻きにして。心の奥底に放り込んで、目の届かないところに追いやった。
「そっか。引き止めてごめん」
「こっちこそゆっくりできなくてごめん。また連絡するから」
 彼は背を向けて着替えているから、私の方は見ていない。それでも口角を上げて努めて明るく振る舞った。鈍感な彼は、いつも通り全く気が付かない。
「じゃあね」
 最後にチラリとこちらを見て、部屋から出ていった。遠くの方で鍵の閉まる音が聞こえたのを確認して、枕に顔を埋めた。
 眠い。疲れた。もう何もかも忘れてしまおう。
 頬を伝わず枕に染み込む涙をそのままに、目を閉じた。

 今日、私の誕生日だったのに。



… … … … … …

【欲望】
--物質的・肉体的に常により良い状態に自分を置きたいと思い続けてやまない心。
(『新明解国語辞典 第六版』三省堂 より引用)

追伸:悩んで思わず調べた結果、さらに混乱して結局迷走しました。

2/29/2024, 12:50:53 PM

 行き着く先はどこがいいか。

 年がら年中繁忙期のような我が社で、今日も立派にお勤めしてきた。もちろん残業付きで。
 藍色の暗い夜空の下、白い息を吐きながら足早に帰路に着く。今朝辛うじて見られたニュースでは、今夜は何とか流星群が数十年ぶりに観測できるらしい。天文学に少しも興味ない私は、星どころか月すら確認しないでひたすら足を動かした。おかげで駅に着くとちょうど電車がホームへ入ってきて、乗ることができた。

 電車の中は人がまばらに座っていた。私も空いていた座席に腰を下ろした。肩の力が抜けて背もたれにベッタリともたれかかる。目の前には誰も座っていなくて、暗い窓ガラスに私の顔が映った。
 目がいつもより窪んでいて、影をさしている。口角は下がり切っていて、頬と顎下の肉がダラリと垂れているように見えた。何だか朝よりも十歳は老けて見える。自分の顔はどんなだったろうか。少なくとも今朝慌ててファンデーションを塗りたくった時には、もうちょっとマシだったと自負している。
 自分の顔をまじまじと見つめながら、この一ヶ月まともに休んでないことに気がついた。出勤すれば終電近くまで残業し、休みの日はトラブル発生のヘルプ電話が掛かってくる。仕事を忘れて休んだ日がなかったのだ。
 それはくたびれると納得して、自分の顔から目を逸らした。疲れた時に疲れた顔を見るのは余計に疲れるからよくない。こんな疲れた顔を見なくていいように、いい加減休みたい。

 常日頃から最寄駅に着くまでの間、電車の揺れに身を任せ、ウトウトしながら考えることが多かった。

 休んだら何をしよう。せっかくだから出かけよう。近所だとつまらないから、どこか電車に乗って。でも日帰りがいい。癒されるようなコトとかモノとかがいい。温泉、映画、買い物、散歩……。どれもしっくりこない。
 なんか、でも、仕事が忘れられるならなんでもいい気がする。
 むしろこのまま電車に乗って行き着く場所はどうだろうか。終点駅のあたりは、山しかない。今日はあいにくのパンプスを履いているから山を登るのはキツイかもしれない。いや必ず山を登らなくてはいけないわけではないのだけれど。山しかないなら、それは登る以外に楽しい選択肢を私は見つけられない。
 そもそも終点駅に山があるからといって、山に行き着くと決めつけるのはよくない。もしかしたら次の駅あたりから徐々に車体が浮き上がってきて夜空を走るかもしれない。そのうち何とか流星群と並走し始めて、車内から天体観測できるかもしれない。綺麗な星が眺められるなんて、ロマンチックで癒されるに決まっている。
 でも反対に、いつの間にか知らないトンネルを抜けて、その先で怪しく古びた駅に辿り着くかもしれない。怖いもの見たさで降りたら最後、現実の世界に戻ってこられないという都市伝説のような駅。それはむしろ心が癒されるではなく、肝が冷やされるのでは。

 次は、--駅。--駅です。

 パッと顔を上げると、目の前を最寄駅名が流れていった。今日も迷いなく到着したことに、なぜか少しホッとしてしまった。心を癒すには、安心が一番かもしれない。
 さて、またくだらないことを考えないうちに、さっさと帰って早く寝よう。



『列車に乗って』

2/28/2024, 3:29:24 PM

 駅のホームから見えた、急勾配の階段。その先にどんな景色が待っているのか気になって、途中で電車を降りた。暖かな日差しとひんやりとした空気が、普段歩かない私を奮い立たせた。
 日頃の運動不足が祟って、息は絶え絶え。足はガクガク。立ってることすら辛くなってきた。それでも一段ずつ踏みしめる。

 あと少し、もう少し。

 言い聞かせること十数段、ようやく頂上に着いた。
 そこは、公園のような開けた場所でもなく、住宅街のような混み込みした場所でもなかった。ただ、道が続いているだけだった。

 なんだ、せっかく登ったのに。

 すごく残念な気持ちになった。道の先にはいくつかの住居が薄らと見えるから、この階段はそこに住まう人たちの近道でしかなかったのだ。
 先程までやる気に満ちていた私はどこかにいってしまった。疲れた。足が痛い。帰ろう。
 辺りを見渡したが一本道しかないようだから、来た道を帰るしかない。急勾配の階段、絶対転げ落ちるに違いないから慎重に降りなければ。

 後ろを振り返った。その時、青空と共に見えたのは、どこまでも続く街並みだった。

 首都圏でも都心から離れたこの土地は、高層ビルやマンションは滅多にない。遊ぶ場所も隣町まで行かないとないから、目の前に広がっているのは、ただの住宅街でしかない。さらに遠くの方には、山が連なっていた。
 何の特別もない。なんでもない。ただの街。
 きっと山の方まで、私の知らない街が広がっている。山を越えれば尚更のこと。

 私は生涯でその街を訪れることはあるのだろうか。
 目の前に広がる街だけでなく、地図を広げてみる街にも。

 まだ知らない街がたくさんあるのだと、空を見上げて思った。



『遠くの街へ』

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