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 年が明けてから二ヶ月経った。
 三月は忙しい。仕事が年度末を迎えるため、色々な場面で締め作業が必要となってくる。それは師走の名前に相応しい十二月にも言えることだが。三月は半期に一度の人事異動がプラスされる。引き継ぎやら取引先にご挨拶やら、やることが多すぎる。仕事が終わらなくて残業するのは必然だった。
 今日は残業したのにも関わらず八時に退社することができた。春を迎えたにも関わらず、夜道は冷たい風が吹いて体が震えた。早く帰って温まりたい。足早に歩いていると、ポケットの中のスマホが震えた。画面を確認したら、彼女からだった。

 我残業故未帰宅
 誠遺憾也

 漢字のみの表記だが、意味がわかったときに笑いが込み上げてきた。
 彼女はその日のテンションに合わせてメッセージの文体を変えてくる。今日は侍言葉の気分らしい。おそらく不本意な残業になってしまったんだろうな。笑いを堪えなきゃいけないのが悔しくて仕方ない。
 ちょうど信号待ちになったので、返信を打つ。

 お疲れ様でござりまするお代官様
 某は任務を全うし本丸へ帰還する所存でござりまする
 道中万屋へ立ち寄り食糧を調達いたしまする

 侍言葉なんてわからない。時代劇や大河ドラマは専門外だ。何となくそれっぽい言葉を並べてメッセージを送信した。
 信号が青になり、横断歩道を渡る。最寄り駅前のスーパーは夜遅くても営業してるから、そこに立ち寄って出来合いのものを買っていこう。
 歩くスピードを落とさず足を運んでいると、またスマホが震えた。人にぶつからないように避けながら、チラリと見ると、

 かたじけない

「ブフッ」
 今度は我慢できなかった。


   *


 帰宅後、シンクに置きっぱなしだった今朝の洗い物を片付けて、洗濯物を畳んでいるときに彼女が帰ってきた。
「ただいまー!」
 声だけでもわかるくらいには、上機嫌である。
「おかえり。すぐご飯食べる?」
「食べたい! 今日お昼行けなかったからお腹空いた!」
「わかった、温めるよ」
「ありがとう、愛してる!」
 そう言い残して、彼女は寝室の方へ消えていった。俺は彼女の言葉にギョッとしてしまった。普段はこんなノリノリで愛の言葉を言うタイプではない。何か相当の嬉しい出来事があったのか、それともあまりの疲れでテンションが振り切れてしまったのか。
 考えても埒があかない。部屋着に着替えただろう彼女が、鼻歌を歌いながら洗面所に入っていった。俺は洗濯物を後でソファの隅に寄せて、キッチンに入った。
 今日は3月3日のひな祭りで、スーパーの惣菜売り場も関連する料理が並んでいた。女の子の成長を祝う日だからか、ちらし寿司に刺身の盛り合わせが所狭しと並んでいた。あとは彼女が好きな魚介類の入ったマカロニサラダと、ストックが切れていたインスタントのお吸い物。俺はもう少し食べたかったからお稲荷さんも買ってきた。五個も入っているから、一個くらい彼女が欲しがるかもしれない。
 洗い物を増やしたくないからプラスチック容器のままテーブルに並べた。その間に彼女はとうとう歌い始めた。こちらの方まで声が聞こえてくる。『ひなまつり』の替え歌らしいが、不穏な歌詞だ。
 子どもの頃にハマったモンスターゲームのキャラクター名が登場するのだが、ツッコミどころ満載だ。明かりをつけましょうってソイツ全身炎に包まれていて目つき悪いモンスターじゃねぇか。お花をあげましょうと言ってもまだ開花してないし独特な異臭がするって図鑑に載ってるモンスターだし。幽霊モンスターばかりの笛太鼓は単純に怖いだけである。どこが今日は楽しいひなまつり、だ。子どもが泣くぞ。
 水の音が止まって、やがて彼女が現れた。化粧も落としたらしく、つるんとした素肌を晒していた。一緒に暮らし始めてようやく見せてくれた彼女の素顔は、隙のない化粧を施した姿よりもずっと可愛く見える。
「買ってきてくれてありがとう。どれも美味しそう」
 テーブルの前にやってきた彼女から歓声が上がった。いそいそと椅子に座って、今か今かと待ち構えている。その表情は実家で飼っている柴犬のポニーを連想させた。ポニーは食いしん坊かつ歩くのが好きで、ご飯と散歩の時間には目をキラキラさせて大はしゃぎだった。ポニーは元気だろうか。
 沸騰したばかりの熱湯で溶かしたお吸い物と、水の入ったコップを配膳して、テーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろした。俺と彼女が手を合わせたのは同時だった。特に呼吸を合わせなくても「いただきます」と声がピッタリ揃う。こんな小さなことが嬉しいものだと感じたのは、彼女と暮らし始めてからだ。
 真っ先にお吸い物を手にして口に含む。
「あ゛ーーーっ、美味しい!」
 声を上げたのは彼女の方だ。言っておくが、飲んだ物はお吸い物である。ビールではない。喉越しを楽しむものでもないのだが、身に沁みるらしい。俺もお吸い物を一口飲んだ。いつもと変わらない、インスタントの味である。
 その後も「美味しい」と繰り返しながら次々と口に含んでいく。勢いよく掻き込んでいるわけでも、早食いや大食いなわけでもない。でもいつも楽しそうに、嬉しそうにご飯を食べていた。
 彼女との食事はいつも賑やかだ。スマホを構えることがない俺たちは、テーブルの上に並べられたご飯を前に箸も口も止めない。冷めないうちに食べたい、でも会話もしたいという価値観が見事に一致していた。
 本当は疲れた彼女を癒せるような、美味しい料理が振る舞えればよかったのだが。
「買ってきちゃって悪いな」
「何で? 残業だったんでしょう。そういう時はお互いにお疲れ様会だからごちそうでいいんだよ」
 今日はお刺身の気分でした、と続いた。
 彼女は自分で作る料理以外のことをごちそうと例える。一個五十円のコロッケも、コンビニのフライドチキンも、ファストフードのハンバーガーも。俺が休みの日にパッケージの手順通り作ったインスタントラーメンですら嬉々として食べていた。さすがに喜んでいいのか分からなかった。
「俺は料理のレパートリー少ないから、あなたに振る舞えるものがないんだよな」
「手料理だけが愛情料理なわけないじゃん」
 お稲荷さんに箸が伸びてくる。取りやすいように彼女の方へ容器を寄せた。
「私はね、今すごく嬉しくて幸せ感じてるんだよ」
 お稲荷さんに齧り付いて表情が柔らかくなる。でもその台詞は、単に美味しいご飯を食べているからだけではないようだ。
「サラダも買ってきてくれた」
「野菜少ないけどな」
「温かいものも用意してくれた」
「インスタントだけどな」
「今朝の洗い物、片してくれたでしょ」
「俺も朝忘れてたから」
「洗濯物もいつの間にか畳んでくれてる」
「あとでちゃんと仕舞っておくよ」
「いつもお風呂上がり、掃除してくれる」
「カビ生えたら嫌だし」
「私はね、一つひとつが嬉しいの」
 他にもね、と彼女の言葉は続いた。ゴミ捨て、電球の交換、食器洗い、高いところの掃除、買い物の時車を出してくれる、飲み会で遅くなったら迎えにきてくれる、手が空いてたら美味しいご飯を作ってくれる、等々。どれも心当たりはある。ただそれは、二人で暮らしているんだから当たり前のことだ。自分でできることはやるべきだと考えている。俺がやると彼女より時間がかかるから、時短で済ませたいものは必然的に彼女の領域になってしまうけれど。まだまだ彼女の方が家事の負担が大きい。
 彼女はサラダに入っているエビを箸でつまみながら言った。
「全部さ、私と二人で暮らしていることを考えてくれてるんだなって。そう思ったら嬉しくて仕方ないんだよね」
 いつもありがとう。
 照れたように笑っていた。その言葉に、目頭が熱くなる。俺は誤魔化すように、ちらし寿司を掻き込んだ。
 いつもありがとう、なんてこっちの台詞だ。
 そういえばその言葉をなかなか口に出して言えてないことに気がついた。今すぐ言えたらよかったのに、少し間が開いてしまった。完全に言うタイミングを逃してしまった。次は言おう。遅くてもホワイトデーには言おう。
 あとね、と彼女はマグロの刺身を食べながら話し始めた。
「ひな祭りに託けて美味しいご飯食べたかったんだよね」
「何言ってんの。いるだろ俺の目の前に、女の子」
 そう言った途端、彼女の動きが止まった。こちらを見上げて固まっている。真ん丸の目をこれでもかと見開いている。
 何かまずいことを言ってしまっただろうか。咄嗟に謝ろうと口を開いたけど、彼女の顔を見て驚いた。
 トマトのように真っ赤である。その赤さは耳や首にまで至る。
「やぁだー! 私なんてもう横にしか成長できないのに、女の子だなんてもぉうー!」
 両頬に両手を添えて、クネクネ揺れていた。本気で照れてしまって、テンションと勢いで冗談っぽく誤魔化そうとしてるらしい。だからって口調をオバサンっぽくしなくても。俺がそういうのにすぐ笑うって分かってやっているからタチが悪い。ちょうど水を飲んでいた俺は喉に詰まらせ、咳き込んでしまった。
 そんな彼女が、まぁ、可愛いんだよな。


『ひなまつり』


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読み飛ばされると思っていましたが、思った以上に励ましのハートいただきました。
寝落ちしてデータ消えてしまった私が100%悪いのですが、びっくりです、本当にありがとうございます。
おかげさまで秒で立ち直りました。
何とか記憶を掘り起こして、加筆修正しつつ書き直しました。
励ましのハートをくださった皆様の中には、多分超大作を期待されていた方もいたかと思いますが、すみません、これが精一杯です。
さすらいの駄文ではございますが、今後ともお楽しみいただけたらと思います。
どうぞ宜しくお願いします。

3/3/2024, 9:06:56 PM