今夜にはあなたが来ると聞いていたから、久方ぶりに髪を整え紅を差した。まだ日も高いうちに座敷に膳を並べ、蔵からとっておきの佳い酒も出してきたというのに。
夕闇に鴉の鳴き声が溶けだす頃に汗だくで走ってきた伝令は、山向こうの戦況を伝え切ったあとそのまま泡を吹いて倒れてしまった。
もう、この山城にあなたが戻ることはない。夜明けには将の首を掲げた悪鬼どもが、黒い波となって押し寄せることだろう。
そして全てを失うことよりも、久々に上手く仕上がった煮物を誰にも味わってもらえないことが惜しい。人生の最後に思い残すのがこんなささやかな不満だなんて、なんだかやるせない。
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やるせない気持ち
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所感:
ちいさな事柄のほうが、もっと気にかかる。
触れてはいけないと言い付けられていたその扉は、しかし、鍵が掛かっていなかったんだ。指の僅かな力で簡単に開いた。そして初めて見た外の世界は喧騒と振動、よく分からないごちゃごちゃしたものでいっぱいだった。うごめくぶよぶよとした何かが近寄ってきたから、ぼくは慌てて扉の中に戻り扉を固く押さえ込んだ。
外には怖いものがいっぱいだ。ああ、だから外に出てはいけなかったんだ。僕は行動を禁止されていたのではなく、守られていたのか。きっとそうだ。
ぼくはもうすっかり安心して寝床の敷布にくるまった。
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鳥かご
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所感:何も知らないということ。
もし誰かと仲違いしてもうあんな奴は友達じゃないと怒りに震えることがあったなら、一度ゆっくり思い返してみればいい。
まずは君と一番仲の良い人を一人思い浮かべてみよう。そして自分に問いかけるんだ、自分自身は果たしてその人にとって良き友人たり得ているだろうかと。
君は誠実か?
いつも十分な親切を発揮し、裏表ない心で常に相対しているか?
「友達だからこそ諫言も必要だ」なんて馬鹿げた正義心に乗せられて、頼まれもしない幼稚な説教をしたことは?
「あんな奴は友達じゃない」と苛立つ君が、同じように誰かから「友達なんかじゃない」と吐き捨てられている可能性について考えて、全く不安なしに「そんなはずがない」と言い切れるなら君は強い人間だ。
だから、むしろ友情など頼らずともその強さで一人、君は生きていけるだろう。
あるいは不安で不安でたまらない、周囲の誰一人自分の手を取って共に歩いてくれることはないと悲嘆に暮れる君もまた、その孤独感こそを支えに一人、立ち続けることができる人間だ。
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友情
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そんなもの無くても生きていける。
無くて生きていけるものだからこそ欲しくて堪らない。
宮殿は夜に包まれたまま、また新たな朝を迎えた。
召使い達は窓という窓を濃紺の紗で覆って陽射しを城から閉め出し、早起きな小鳥を全て殺して庭園の静寂を守り続けた。
一昨日、王の死と共にこの国の時は止まっている。
王の死の報せは音のない雷のように、静かに、しかしすばやく国中へ広まった。唯一それが届かなかったのは宮殿の奥の奥、そのまた奥にひっそりと扉を閉ざす、王妃の部屋だけだ。
そして三日が過ぎた。
ようやく大臣は王宮の奥へ向かい、王妃に謁見を願い出た。後ろに控えた従者は腰に二本の剣をさしている。
王妃はそれを見て全てを知った。
「王は苦しまずに旅立たれましたか」
「はい。静かな最期であらせられました」
薄暗いままの応接間に二人の声がにじんでそっと消えていった。香炉の薄い煙は開かれない窓の周りでわだかまっている。
「王妃殿下、貴女様の罪は王を一人で旅立たせたこと」
大臣は一度だけ王妃と目を合わせ、続ける。
「そして私の罪はこの報せで妃殿下を悲しませたこと」
従者は静かに剣を抜いて大臣に差し出した。
「王はあちらでお待ちでいらっしゃいます」
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哀愁をそそる
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所感:
旅は道連れ、世は情け無用の政治劇。
いつだって真剣なんだよ。
でも、いつも本気ってわけじゃない。
運動選手が決勝でベストの結果を出すために、予選のうちに力を使い果たしたりしないのと同じ。
真剣に、でも80%の範囲内で全力を尽くす。
それにさ、試合は一生に一回きりでもない。国内試合、選抜、ワールドカップ、オリンピック、自分のレベルと実績しだいで戦いの場はいくらでも現れる。
だーかーら。ねぇ泣かないでよ。
あなたのこと、真剣に大事にしてた。私に出来るコト全部あなたのためにやり尽くした。
でも、あなたとは本気の恋には届かなかった。
さよならの理由は、それだけ。
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本気の恋
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所感:
何を賭ければ、何を誓えば、本気を示せますか?